「何かあったの?」
私がそう訊《き》くと、母は、少しぼんやりとして私を見ていたが、
「——どうして?」
と、訊き返して来た。
「一年もたってから、そんなこと言って」
と、私は笑った。「ちっともおしゃべりしないし、いつものお母さんとは全然違うじゃないの」
「そう?」
「いつもの通りに振る舞ってるつもりだったの、それでも?」
私は、食後のコーヒーを飲んでいた。
食後にコーヒー、という習慣は、父譲りで、小学生の高学年のころから、父に頼まれてコーヒーをいれるのを憶《おぼ》えて、その内、自分でも飲むようになってしまっていた。
母はいつも渋い顔で、
「あなたみたいな子供には悪いわ」
と言っていたが、さすがに高校生になってからは、何も言わなくなった。
「あなたこそ」
と、母が言い返して、「何だか考え込んでたじゃないの、今日帰って来た時には」
「へえ。たまには娘のことも心配してるんだ!」
「何ですか、親をからかって」
母は苦笑いした。「——学校で、何かあったの?」
「ちょっとね」
私は、母に話すべきかどうか、迷った。
——何も確かな事情を知らずに、勝手に話すのは、無責任なようにも思えたし。
「ね、奈々子」
と、母が言った。「ちょっとあなたに話しておきたいことがあるんだけど……」
「待って」
私はコーヒーを飲み干すと、立ち上った。
「一本電話をかけて来る」
私は、部屋へ行って、学生名簿を取って来ると、リビングの電話で、今井有恵の家へかけた。
「——はい」
と、何だかいやに遠い感じの声が聞こえて来る。
こわごわ電話に出た、という感じだ。
「あの、同じクラスの芝といいますが、有恵さん、いらっしゃいますか」
「芝さん?」
「はい。芝奈々子といいます」
少し間があってから、
「ああ。新しく転校されて来た方ね」
母親らしいその人は、なぜかホッとしたような声を出した。「待って下さい。今、呼びますから」
「すみません」
実際、向うの口調はガラッと変って、明るくなっていた。どうして初めはあんなにためらいがちに電話に出たのだろう?
——大分、間が空いた。出られないのかしら? またかけ直そうか。
電話の向うが、何だか騒がしくなった。大声で怒鳴っているような声も聞こえる。
「もしもし!」
さっきの母親の声が、飛び出して来た。
「すみません、娘が——あの——」
「有恵さん、どうかしたんですか? もしもし!」
「あの——けがを——手首を切って——」
「分りました。切りますから、すぐ一一九番にかけて下さい」
「ええ。ええ——そうしますわ」
私は、受話器を置いた。ショックで手が震えている。
「どうしたの?」
母が、顔を出した。私の話を聞くと、
「こっちでも一一九番してあげた方がいいわよ」
と、母は言った。「家の人は混乱してるから。二重になっても、謝れば済むことなんだから」
「そうね」
私は、即座に一一九番を回して、今井有恵の住所を知らせた。
私が母の意見にすぐ従うのは、全く珍しいことだった……。
病院の廊下に、突っ立ったまま、ハンカチを口に押し当てているのが、きっと今井有恵のお母さんだろう、と私は思った。
「今井さんですか」
声をかけると、当惑した様子で、
「ええ。——あの——」
「芝です。さっきお電話した」
「ああ、あの——救急車を呼んで下さったのね」
「はい。勝手なことをして、すみません」
「いいえ。助かりました。もう私——気が動転して、娘の血を止めるのに夢中で……。この病院へ着いてから、一一九番へかけなかったのに気付いたんです。本当にありがとう」
「いいえ」
これは、母の得《ヽ》点《ヽ》だわ、と私は思った。
「有恵、今は注射で眠っています。心配はないということでしたけど……」
「良かった。——どうしても気になって」
「こんな時間に。申し訳ありませんね」
「とんでもない」
とは言ったものの、確かに、夜中の十二時に近い。
病院の廊下も、人の姿はもちろんなく、話も小声でなければできなかった。
「芝奈々子さんでしたね。私、有恵の母で、今井由《ゆ》樹《き》といいます」
電話で声を聞いていた時より、大分若い印象を受けた。
「——かけましょう」
落ちついて来た様子の、有恵の母親は、私を促して、廊下の一角に作られた休憩所のような、椅《い》子《す》の並んだ場所へ行って、一緒に腰をおろした。
「娘と二人なものですから、私も、何かあるとすっかりあわててしまってね」
そう。今井有恵の家庭も、母一人娘一人。我が家と同様、父親のいない家なのだ。
「うちも同じですから」
「そうですってね。有恵から聞きました」
「有恵さん——どうしたんですか? 何かわけでも……」
もちろんないはずはない。
「よく分りませんわ」
と、今井由樹は首を振って、「母親としては本当に情ない話ですけど、仕事に出ているものですから、なかなか話す機会もなくて。あなた、何かご存知?」
私にしても、何も知っているわけではないのだ。今日の昼休みに、有恵が泣いていたことにしても、その理由は知らない。
「このところ、何だか考え込んではいたようですけど……」
と、今井由樹は言った。「でも、いつも大体がおとなしい、無口な子なので」
「でも——」
と、私が言いかけた時、廊下をやって来る足音がした。
「あ、先生」
と、私は言った。
「担任の先生に、さっきお電話したの。——先生、わざわざどうも」
有恵の(ということはもちろん私の、ということでもあるが)担任の吉《よし》田《だ》浩《ひろ》代《よ》は、五十歳ぐらいだろうか、年齢のよく分らない、若い印象の女性である。
少し冷たい感じはするが、いかにも教師然とした風格のようなものを見せていた。
「いかがですか、有恵さん?」
と、吉田浩代は訊《き》いた。
そんな口調にも、親身になって心配しているというところは聞き取れなかった。
「おかげさまで——」
今井由樹が説明するのを、吉田浩代はじっと聞いていたが、
「——大事に至らなくて結構でした」
と、肯《うなず》いた。「もう少しお母様がそばにいて、気を付けてあげると良かったと思いますけどね」
「本当に……」
と、今井由樹が顔を伏せる。
私は、ちょっと吉田先生の言い方に引っかかるものを感じていた。今日の昼休みの出来事が、有恵が手首を切る直接のきっかけになったことは、まず間違いないだろう。
そうなれば、原因はむしろ「学校の中」にある。
「——芝さん」
と、吉田先生は私に気付いて、「どうしてここに?」
今井由樹が説明すると、吉田先生は、
「そう。それはよくやったわね」
と、無表情な声で言った。
「ちょっと心配だったものですから」
と、私は言った。
「有恵さんのことが?」
「お昼で早退したので、気になって、電話してみたんです」
「有恵が早退?」
今井由樹が、びっくりした様子で言った。
「ご存知なかったんですか」
と、私は言った。
「ええ。——あの子は何も言わなかったので」
妙な話だった。
あの女子校は、用心のため、生徒が早退すると、必ず保護者にその旨を連絡することになっているのだ。
もちろん、母親が働いている場合でも、その勤め先に連絡が行くはずである。それを、今井由樹が知らなかったというのは、担任の吉田先生が連絡を忘れていた、ということになる。
「有恵さんは早退じゃありません」
と、吉田先生は言った。「お昼にちょっと気分が悪くなったので、保健室で横になっていたんです。結局、午後の授業は出られなかったようですが、帰りはみんなと一緒だったんです」
なぜそんなでたらめを?——私は、よっぽどそう訊《き》いてやりたかったが、何とかこらえた。
有恵の持物は、午後の授業の間に、見えなくなっていたのだ。
「芝さん」
と、吉田先生が言った。「ご苦労様。明日は学校があるわ。もう帰ったら?」
「本当だわ。すっかり引き止めてしまって、ごめんなさい」
と、今井由樹が言った。
「いいえ。タクシー、表に待たせてありますから」
と、私は言って、「じゃあ、有恵さんによろしく」
そして吉田先生に頭を下げ、私は病院を出た。
まだ、夜だからといって寒いような陽気ではなかったが、この夜は何だか妙に肌寒いものを、私は感じていた……。