「すぐに寝る?」
家へ帰ると、母が起きて待っていた。
「どうせここまで夜ふかししたんだもの」
私はソファに引っくり返って、「もう一杯コーヒーを飲んで、おしゃべりしたい」
「いいわ」
と、母は笑って、「でも、ちゃんと寝るのよ」
「うん」
——私はコーヒーを飲みながら、今日の(厳密にはもう『昨日の』だったが)、昼休みの出来事と、病院での様子を、母に話して聞かせた。
「何かあるのよ、裏で。——いやだわ、何だか陰険な感じ」
「そう。でも、あんまりかみつかないのよ、先生に」
「失礼ねえ。いつ私が先生にかみついたのよ!」
「ほら、それがいけないのよ」
と、母は笑って言った。
「そうか」
と、私もちょっと笑って、「——でも、もし今井さんが助からなかったら、こんな風に笑っちゃいられなかったわ」
「そうね。人一人の命ですものね、問題は」
と、母はゆっくりと肯《うなず》いたのだった……。
「お母さんの方の話って、何だったの?」
「え?——ああ、そうだったわね。別に今でなくてもいいのよ」
「今、話してよ。却《かえ》って気になる」
「そう?」
母は、ちょっと目を伏せたまま、照れたようにもじもじしている。本当に可愛いんだから!
「好きな人ができたんでしょ」
と言ってやると、母はびっくりして、
「どうして知ってるの?」
と来た。
「顔にそう書いてある」
「嘘《うそ》。——そんなに顔に出る?」
「出ないと思ってたの?」
私はからかってやった。「相手はどんな人? 二十歳の大学生?」
「奈々子!」
「冗談よ。再婚するつもり?」
母は、ちょっとためらって、
「その——つ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》だけどね」
と、言った。「どう思う?」
「いいじゃない」
「簡単に言わないでよ」
「じゃ、絶対いや! お母さんが再婚するなら、私、家を出て不良になる」
「極端ねえ」
「私が反対する理由、ないじゃない。だって、お母さんの旦《だん》那《な》さんなんだもん」
「でも——」
「私、もう十七よ。あと五、六年すりゃ結婚していなくなるんだから」
「アッサリ言うのね」
「本決り?」
「それが、まだそうでもないの」
と、母は言った。「こっちだけそのつもりでもね」
「じゃ、これから頑張るわけね」
「そうね」
——あの電話を思い出す。
「人の夫に手を出さないで」
と、私を母と間違えて、食ってかかって来た女の電話……。
その男が果して今の奥さんと別れてくれるのかどうか。——それが母にとっては気がかりなのだ。
「ま、しっかりやって」
と、私は母の肩をポンと叩《たた》いた。「じゃ、寝るわ」
「シャワーだけ浴びたら?」
「朝、浴びる。今じゃ、目が覚めちゃうから」
と、私は言って、部屋へ入って行った。
さすがに、私も眠くなっていた……。
「——どう?」
私は、ベッドの今井有恵に笑いかけた。
「いいなあ、テスト、さぼれて」
有恵は、少し青ざめてはいたが、思ったより元気そうだった。
病室は二人部屋だが、もう一つのベッドは空いていた。
「昨日まで、いたのよ、そこ」
と、有恵は空いたベッドの方へ目をやって言った。
「退院しちゃったの?」
「亡くなったの。ゆうべ」
「——へえ」
「まだ二十歳ぐらいの女の人でね。凄《すご》くきれいな人だった」
「そう」
「私、何だか恥ずかしかった」
と、有恵が言った。「健康なくせに、こんなことして」
手首の包帯へ目をやる。
「それなりの事情はあるんだから。もうやらなきゃいいのよ」
「うん」
「これ。——クラスみんなの寄せ書き」
と、私はノートを渡した。「お花とね。何かほしいものはない?」
「別に」
有恵は首を振った。「——ね、芝さん」
「奈々子って呼んで。学校じゃないんだから、ここ」
「そうね。私がどうしてこんなことしたのか、知ってる?」
「知らない」
「聞きたい?」
「まあね。——野次馬根性からだけど」
有恵は、少し考えていたが、
「少し考えさせて。却《かえ》って、知らない方がいいかもしれないわ」
「奈々子、有恵って呼ぶ仲になったのに、それはないじゃないの」
と、私は言った。
「そうね。でも……」
有恵が何か言いかけた時、有恵の母親が入って来た。
結局、私はあと十分ほど有恵のそばにいて、病院を出て来てしまったのだ。
出た所で、足を止めた。
「芝さん」
と、矢神貴子が言った。「今井さんのお見舞に?」
「ええ。クラスの代表ってことで」
「あなたが助けたんですってね。凄《すご》いじゃない」
「ただの偶然よ」
「ちょっとお話があるんだけど」
と、矢神貴子は言った。
「私に? 何かしら?」
「良かったらうちへ来て」
矢神貴子は私の腕を取って言った。「前から、ゆっくり一度話してみたかったの」
何となく、私は刑事に連行されて行く犯人みたいな気分だった。