「紅茶でいい?」
と、矢神貴子は、訊《き》いた。
「ええ。でもお構いなく」
と、私は言った。
「そう言わないでよ」
矢神貴子は笑って、「お客様にお茶の一杯も出さないんじゃ、M女子学院の名がすたるわ」
「いただくわ」
と、私も微《ほほ》笑《え》んで見せた。
確かに凄《すご》い家だ。——私と母の住んでいる〈Sフラット〉から、歩いて四、五分とかからないだろう。
旧家とはいえ、今、こんな場所にこれだけの屋敷を構えているのは、相当の資産家ということになる。
「矢神さんも、今井さんのお見舞に?」
と、私は出された紅茶を一口飲んで言った。
「そう。——A組代表で、様子を見て来てって。別に公式の使《ヽ》節《ヽ》ってわけじゃないから、元気そうとか、様子さえ分ればいいのよ」
「ずいぶん元気そうだったわ、有恵さん」
と、言ってから、「あ、今井さんね。つい名前の方が出ちゃう」
「いいじゃない」
と、矢神貴子は肩をすくめて、「学校の中だけでいいわよ、規則に縛られるのは」
学校からの帰りに病院へ寄ったので、私は制服姿だった。矢神貴子も制服のままで紅茶をいれてくれたのだが、
「窮屈でしょうがない。——ちょっと待っててね。着替えて来るわ」
と、居間を出て行った。
私は紅茶をゆっくり味わいながら、広い居間の中を見回していた。母と住んでいるマンションだって、普通の家に比べれば広い造りだろうが、こういう古い「お屋敷」は、桁《けた》が違う。
それにしても静かだ。——一体何人で住んでいるんだろう?
私は、立ち上ると、広い窓の所まで歩いて行って、庭を眺めた。
そこから目に入るのはほんの一角で、庭の広さも、ため息が出るほどだ。
ただ——不思議に、陽射しの下の、よく手入れされた庭園は、人間らしい暖かさを感じさせなかった。のんびりと歩くためでなく、こうしてガラス越しに眺めるための庭だ、という気がした。
でもこういう所に住んでりゃ、正に「お嬢様」ね、などと考えていると、ドアが開いた。
「貴子!」
いきなり鋭い声が飛んで来て、私はびっくりした。
「どういうことなんだ! はっきり説明して——」
振り向いた私を見て、その男は、初めて、人違いに気付いたらしい。とっさには言葉も出ない様子で、
「いや……ごめん。ちょっと、あの……」
「貴子さんは、今着替えに行かれてます」
怒鳴られてびっくりしたことで、まだ心臓が高鳴っていた。
「失礼」
やっと気を取り直したのか、その男は——いや、若者と言った方が正しいだろう——髪をかき上げた。
二十二、三歳か、社会人になって、そう間のない感じだ。背広にネクタイのスタイルはビジネスマンだが、少し派手めの色の組合せから見て、銀行員やお役人ではないだろうという気がする。
「君は……」
「同じ学校の生徒です。芝奈々子といいます」
「芝奈々子……。可愛《かわい》い名前だね」
「ありがとう」
エリート、という印象である。でも、笑顔になると、坊ちゃんくさい人の好さがにじむようだった。
「いや、人違いでごめん。同じ制服だったもんだから」
どうやら急いで来たらしく、額に汗を浮かべている。ハンカチを取り出して拭いていると、開いたドアから、Tシャツとジーパンという、およそいつもとイメージの違う矢神貴子が入って来た。
「お待たせ。——あら」
と、若者に気付いて、「何しに来たのよ?」
「話したくてね、ゆっくり」
と、若者は言った。「でも、今はお客のようだから」
矢神貴子は、少し小馬鹿にしたような目で、その若者を見てから、私の方へ、
「あなたも寛《くつろ》いで。ここじゃ貴子と呼んでね、私も奈々子って呼ぶから」
と、思いがけない笑顔を見せた。
「そうさせてもらうと助かるわ。もう、息苦しくて」
「何なら、制服脱いだら? 私の服を貸してあげるわ」
「いえ、それはご遠慮するわ。ここは涼しいから、この格好でも苦にならないし」
「そう」
貴子は、若者のことなど忘れたかのようにソファに寝そべって、足をクッションの上にのせた。
「——僕は、失礼するよ」
と、若者が言った。
「あら、話があるんじゃないの?」
「そうだけど——」
と、チラッと私の方を見る。
「私、失礼しようかしら」
と、私が腰を浮かしかけると、
「いいの。座ってて。奈々子は親友だから、構わないのよ、何でも話して」
私は、戸惑った。貴子は続けて、
「この人、永《なが》倉《くら》っていうの。いつも重《しげ》夫《お》さんって呼ぶんだけどね。K大出のお坊ちゃん。——いかにも、でしょう?」
「よろしく」
と、永倉重夫というその若者は、私の方に会釈した。
「私のいいなずけなの。もう十歳ぐらいのころから決ってるのよ、話が」
「へえ。——じゃ、学校出るのを待って?」
「どうなるか、分らないわ」
貴子は、愉快そうに、「ねえ、重夫さん」
貴子の言い方は、明らかに当てつけがましいもので、相手はムッとした様子だった。
「帰るよ」
「そう? でも、母に挨拶して行ってね。そうしないと後で分った時、うるさいわよ」
「分った。——じゃ、芝君、だったね。またいずれ」
永倉重夫は足早に居間を出る。貴子はその背中へ、
「ドアを閉めてってね!」
と、声をかけた。「——苛《いら》々《いら》するの。鈍いんだから、あの人」
私は、何とも言えなかった。男性に対する口のきき方など、完全に大人の女である。
まだ純情な十七歳としては(?)圧倒されてしまった。
貴子は、自分の紅茶が、もうさめかけていたのを、一気に飲んだ。
「——今井さんには困ったわ」
と、唐突に言った。「自殺しかけたっていうのは知ってるわね。公式にはけがをしたってことになってるけど」
「ええ」
「あ《ヽ》て《ヽ》にしてたのよ、あの人を」
「何のことで?」
「生徒会長の選挙でね」
私は、その一言で、このところあまり思い出すこともなかった、あの奇妙な電話のことを、頭に浮かべていた。
「選挙って——」
「十一月なのよ、この。二年生の三学期から三年の二学期まで、つとめる生徒会長を選ぶわけ」
そういう制度のことは、私も知っていた。
「じゃ、今井さんが——」
「副会長になってもらうつもりだったのよ。私が会長に立候補して」
「そうだったの」
「ところが彼女は失恋して自殺未遂」
「失恋だったの?」
「知らない? ちょっと不良っぽい子に惚《ほ》れちゃってね。学校でも問題になってたんだから」
「知らなかったわ」
果して本当だろうか、と思った。もちろん疑う理由があったわけではないが……。しかし、それならなぜ、学校の中《ヽ》で《ヽ》、泣き出したのだろうか?
「ともかく、立候補の届出は十月二十日なの。もう間がないわ。——立候補は、会長、副会長、ペアでしなきゃいけないから、誰か見付けないとね」
「いつも、どれくらい立候補が?」
「二組か三組ね。それ以上だと、先生の方で調整するのよ。ちゃんと、十一月の投票日まで、選挙運動をして、演説をして、大変なんだから」
「へえ。でも、あの学校のイメージと合わないみたい」
「そりゃ、普通の選挙みたいに、車で回るなんてことはしないけど」
と、貴子は笑って言った。
矢神貴子なら、たとえ誰と組んでも勝つだろう、と思った。彼女には、それだけの「スター性」がある。
「ねえ」
と、貴子が、起き上って、言った。
「あなた、私と組んで立候補しない?」