「ただいま。——お母さん」
マンションの部屋へ帰ると、ホッとした。もっとも、今日は矢神貴子の家から歩いて来たのだから、大分楽はしている。
「お母さん……。いないのかな」
今日は出かけるようなこと、言ってなかったけど。
「ま、いいや」
ともかく、セーラー服を早く脱ごう!
何だか、スッキリしないので、シャワーを浴びることにした。そう汗をかいているというわけじゃないのだけれど、気分的に汗をかいたようだった(?)からだ。
シャワーの下に、頭から突っ込んで、ギュッと目をつぶる。
それにしても——びっくりしたこと。まさか、矢神貴子からあんな話を聞こうとは思わなかった!
全く、妙な暗合という他はなかった。あの奇妙な電話は、一か月先のことを、まるで予告していたかのようだ。
生徒会長に立候補するのはやめなさい、か……。もちろん、矢神貴子の申し出は、丁重にお断り申し上げたのだ。
貴子の方も、そう強くは言わなかった。
「そうね。まだ入って二か月もたってないんですものね。無理言ったかな」
と、アッサリ引っ込んだ。
正直、私はホッとしたが、同時に、あんまり簡単に向うが引きさがったので、却《かえ》って気味が悪いようでもあった。
山中久枝にでも、ちょっと電話してみようかな、と思った。
シャワーから出て、バスタオルで体を拭《ふ》いていると、電話の鳴っているのが聞こえる。
あわてて、バスタオルを体に巻きつけて飛んで行く。
「——奈々子?」
と、母の声。
「お母さん。出かけたの?」
「急にお友だちに誘われて。奈々子、今、帰ったの?」
「うん。今、どこ? 声が遠いよ」
「鎌倉の方なのよ。帰りが大分遅くなりそうだから。あなた、どこかで夕ご飯食べてくれない」
「あ。娘を放っておいて! 非行に走っても知らないわよ」
そう言って、自分で笑ってしまう。「どうぞごゆっくり」
ふと思い付く。——母は大体、知らない場所へ、ノコノコ出かけて行くタイプじゃないのだ。
「お母さん。正直に答えてね」
「何よ、急に」
「例の彼氏と一緒。図星でしょ」
「え——ええ……。まあ……そうなの」
口ごもったりするところは、四十過ぎとは思えないね。
「今夜、帰って来るんでしょうね」
「当り前よ。どんなに遅くなっても、帰るから」
裏返せば、相当遅くなるのは間違いない、ってことだ。
「いいわ。先に寝てるかもね」
「チェーンは外しといてね」
と、母は真剣に言った……。
夜中になるってことは、これからどこかで食事。——でも、食事だけで、そんなに遅くなるだろうか?
まあ、いいや。お母さんはお母さん。大人なんだから、その生活に干渉するのはやめましょう。それより、今夜のエサをどうするかだけど……。
「そうだ。もしかしたら……」
私には、ちょっと思い付いたことがあったのだ。
一本電話をかけただけで、夕食はタダで上げられることになった。それから、山中久枝に電話をする。
「——矢神貴子の所に行ってたの?」
と、久枝は、興味津《しん》々《しん》ってところで、
「凄《すご》い家なんですってね。評判よ」
「屋敷ね。大邸宅。ま、大したもんよ。それでね——」
生徒会長のことを、久枝に話すと、向うはしばらく黙っていた。
「久枝。——どうしたの?」
と、少々不安になって訊《き》くと、
「断ったのね、矢神さんの申し出を」
「だって、当然でしょ。まだ新入生よ」
「大変なことになるかもしれないわよ」
「おどかさないで」
「本当よ。どうして、ちょっと考えさせて、って逃げなかったのよ。私に相談してくれれば……」
正直なところ、久枝の言い方は少しオーバーに思えた。
「でも、向うもすぐに納得してくれたわよ。そんな、いやな顔しなかったし」
「あの人の言うことには、すぐOKしなきゃ。そうされることに慣れてる人なのよ。断られたら……。そりゃ、プライドの高い人だから、顔には出さないわ。でも、きっと心の中じゃ……」
「でも——じゃ、どうするの? 今さら、考え直すってわけにもいかないわ。それに、何と言われたって、やる気ないし」
「そうね」
久枝はため息をついて、「分ったわ。——彼女が、いつになく上機嫌だったことを、祈るしかないわね」
電話を切って、何だか憂《ゆう》鬱《うつ》になってしまった。——そんなこと言われたってね。
「いびるなら、いびってみろって!」
と、私は呟《つぶや》いた。
「——学校、どうだ?」
と、訊《き》いたのは、髪に白いものが目立ち始めた紳士。
どことなく私に似たところがあるとしても当然で、これが(といっても見えないでしょうけど)私の父親である。
母と別れはしたけれど、私とは会いたくて仕方ないのだから、こうして電話一本かけりゃ、ご飯くらいは当然おごってくれるのだ。
父は田中という。だから、三年前までは、私も田中の姓になっていたわけだ。
私は、父に、
「学校はどうだ?」
と訊かれて、つい笑い出していた。
といっても、ここは、かなり高級なフランス料理店である。みっともないほどの声で笑ったわけではない。
「何がおかしい?」
と、父は不思議そうに私を眺めた。
「だって——いかにも、別れた父親ってセリフじゃない。TVドラマでも見てるみたいよ」
「そうか」
父は笑って、「その分なら、うまくやってるようだな」
私は鴨《かも》料理にして、少し甘いソースを味わった。
「——お父さん、ずっとこっちの勤務なの?」
「うん。もうこの年齢《とし》だ。そう外国へ出ることもないと思う。もちろん、仕事で短期間の出張はあってもね」
「ふーん。じゃ、ずっとマンション暮し?」
「まあな。忙しい時はホテルに泊ったりもするよ」
「じゃ、奥さんは?」
「今は独りさ」
と、父は言った。「聞かなかったのか、母さんから?」
「初耳。じゃ——あ《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》は?」
父が浮気した、相手の女性のことだ。
「正式に再婚する前に別れたよ。やっぱり、子供を置いて来たことで、不満も募るんだな」
「そう」
私は、肯《うなず》いた。「じゃあ、あちらは——」
「復縁した。つまり元のご主人とまた一緒になったってわけだ」
「へえ、そうなのか。じゃ、お父さん、振られたわけだ」
「はっきり言えば、そうだ」
と、父は苦笑して、「馬鹿なことをしたものさ」
「全くだね」
と、私は言ってやった。
しばらく、私たちは黙って食事をしていた。父の訊《き》きたいことは見当がついたが、こっちから話し出すことでもないだろう。
「——母さん、どうしてる?」
料理を平らげ、デザートになってから、父は言った。
「うん。元気だよ」
と、私は言った。「何か——好きな人ができたみたい」
「そうか。そりゃ良かった」
本音かどうか、父はアッサリとした口調で言った。「再婚するって?」
「まだ、決めてないみたいよ。でも、そうなるんじゃないかな、と思う」
「お前はどうだ?」
「私? 女子校よ。チャンスもないもん」
「いい男を選べよ」
と、父は言って、「——何だ、君か」
知った顔を見付けたらしく、私の後ろへ目をやる。
「あ、部長。どうも——」
振り向いて、その声の主を見た私は面食らった。
矢神貴子の家で会った、永倉重夫だったのだ。しかも、二十歳ぐらいの、ちょっと派手な感じの女性を連れている。
「今日見た報告書はなかなか良くできていたよ」
と、父が言った。
「ありがとうございます」
永倉重夫は、私のことに気付いていない。セーラー服と、このワンピースじゃ、別人のように見えるのだろう。
父も私を紹介しようとはしなかった。
永倉はその女性と、少し離れたテーブルについた。
「あの人は?」
「部下だよ。——頭はいいが、どうも、少し頼りない」
「そんな感じね」
と、私は肯《うなず》いて、「一緒にいた女の人は誰?」
「さあ。恋人かな。しかし、職場でも、二、三人、噂《うわさ》になってる娘がいる。もてそうだろ?」
「私の好みじゃないけど」
と、言ってやった。
矢神貴子は知ってるのかしら? 知っているから、昼間、あんな態度を取ったのだろうか。
「さて、コーヒーにするか」
と、父は、ウエイターを呼んだ。