「おやすみ、お父さん」
と、車をおりて、私は手を振った。
「母さんを頼むぞ」
と、父が窓をおろして言った。「お前の方がしっかりしてるからな」
「お父さんも頑張って。娘みたいな恋人でも作れば?」
「お前一人で充分さ」
父は笑って、「じゃ、おやすみ」
と、手を上げて見せ、車を走らせて行った。
十時に近かった。でも、電話の様子じゃまだ母は当分帰りそうもない。
満腹になって、少し眠くなって来ていた。マンションの受付には、もう人がいない。
私はインターロックの鍵《かぎ》を開け、扉を開けて、中へ入ろうとした。
タタタッ、と足音がしたと思うと、
「入って!」
女の声がして、私はぐいと前へ押された。危うく転びそうになって、やっと踏み止まると、私は振り向いた。
「何するんですか!」
「静かにして」
その女が、手に刃物を握っているのに気付いて、私は、ゾッとした。
「芝っていうんでしょ、あなた」
「ええ……」
その声。私は、思い当った。
私のことを、母と間違えて、「夫に手を出さないで」と電話して来た女だ。
「部屋へ上るのよ」
私はエレベーターのボタンを押した。
「母なら、留守です」
「分ってるわ」
と、その女は言った。「私の夫と出かけてるのよ」
「そうですか」
「乗って」
エレベーターに二人で入る。
「四〇二号ね。ボタンを押して」
エレベーターが上り始める。
私は、まだ切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》った危険を感じていなかった。母が戻るまで、当分間があるだろうから。
意外だったのは、その女性が、どう見てもまだ二十代だったことで、緊張で青ざめてはいるものの、公平に見れば美人に違いないだろう。
でも、そんな呑《のん》気《き》なことを言っている場合じゃない。この女性の狙《ねら》いは、母なのだろうから。
「どうするんですか」
と、私は言った。
「決ってるでしょ。あなたのお母さんと話をつけるの」
「でも——」
「帰りを待つわ」
「母を殺すんですか」
「主人のことを、諦《あきら》めてくれれば、何もしないわ」
私のような子供にはよく分らないけれど、一《いつ》旦《たん》こんな状態になって、それでも夫を取り戻したいと思うものなのだろうか?
私なら、さっさと他の男を捜すけど、なんて、いい加減なことを考えていると、エレベーターは四階に着いた。
扉が開くと、目の前に、同じ四階に一人で住んでいるお婆《ばあ》さんが立っていた。
「あら、どうも……」
ゴミの袋を重そうに両手に一つずつ下げている。
このマンションは、地下の部屋に、ゴミを置いておけばいいことになっているのだ。
私は、とっさに、
「重いでしょ。私、持ってあげますよ」
と、パッと手を伸して、一方のゴミの袋を取った。
「でも——」
「いいんです。一緒に持って行きましょ」
「あら、すみませんね。——こちらは?」
と、その女性を見る。
まさか、他人の前で、刃物をチラつかせるわけにもいかず、その女性は、息をつくと、
「分ったわ」
と、言った。「今日は帰るけど、お母さんに伝えておいて。いつまでも我慢してはいませんって」
エレベーターを飛び出して、階段を一気に駆けおりて行く。——私はホッとした。
「どうかしたの?」
と、お婆《ばあ》さんが、キョトンとして、私を眺めている。
母が帰ったのは、もう夜中の二時近かった。
「——あら」
居間に私が座っているのを見て、母はびっくりした。「まだ寝てなかったの?」
「ご挨拶ねえ」
と、私はため息をついた。「こっちの心配も知らないで」
「私のことなら別に——」
「刺されたい? 恋人の奥さんに」
「何ですって?」
母はポカンとしている。
「お母さん。——奥さんのいる人と付合ってるのね」
母は、少しためらってから、肯《うなず》いた。
「そう。——でも、今、離婚の話し合いをしてくれてるのよ」
「その気、ないみたいよ」
「ここへ来たの?」
やっと分ったらしい。
「そう。お母さんとけ《ヽ》り《ヽ》をつけるって、凄《すご》い形相でね。刃物を持ってたよ。大丈夫なの、その男?」
「まあ。——大変だわ」
母は、ソファに腰をおろした。
「食事は?」
「済ませたわよ、もちろん。あなた——」
「おごらせた。お父さんに」
「お父さんに?」
「お母さん、お風《ふ》呂《ろ》は?」
「もう……いいわ」
ということは、どこかでお風呂も済ませて来たってことだ。
「ねえ、奈々子——」
「私は構わないの。でも、その人、本当は離婚話、進めてないんじゃない?」
「そんなこと……」
「ともかくまた来るって。用心してよ。向うは相当カッカ来てるから。——じゃ、寝るわ」
私は手を振って、自分の部屋へ引っ込んだ。
ベッドへ潜り込んで、ウトウトしかけていると、
「——お父さん、元気そうだった?」
と、母の声がした。
「うん……。一人だってね、今」
「そうらしいわ。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私は、目を閉じた。
——忙しい一日だったけど、明日の方が、もしかしたら、もっと……。
私は、矢神貴子のことを、この時には、ほとんど忘れかけていたのだ。