秋の学校は行事が多い。
それは、このM女子学院も同様だった。
十月十日は体育祭。要するに運動会だ。そして十一月には文化祭と続く。
編入で、様子のよく分らない私も、あれこれ役を仰《おお》せつかって(何しろ、生徒数が多くないから仕方がないのだ)、忙しかった。
もっとも、前の共学の高校に比べると、女子校の体育祭は、正《まさ》に「祭」で、おっとりしたものである。
共学の時には結構女の子も荒っぽい競技をやったものだが、今度はリズム体操とか、踊りとかが中心。
徒競走なんてものもあるが、本気で走っているのは半分くらいで、あとは、
「くたびれちゃ損」
とばかりに、歩いているのか走っているのか、よく分らないスピードなのである。
——十月十日の当日、私は、進行係を仰せつかって、役員本部とグラウンドの間を、時計の振子よろしく、行ったり来たりしていた。
「ああ、くたびれた!」
と、体を折って、ハアハアいっているのは、山中久枝だ。
クラスから、私と二人、進行係に選ばれたのである。
「少し休もう」
と、私は言った。「この次は別に準備ないから。リズム体操が始まったら、動けばいいわよ」
「そうか」
久枝は、役員本部のテントの裏に置いてある椅《い》子《す》に腰をおろして、息をついた。ひどく汗をかいている。
「大分ばててるみたいね」
と、私は言った。
「もう最悪!——日ごろの運動不足がねえ!」
「何か飲物、持って来てあげようか」
「お願い! 奈々子は優しいのねえ」
「気持悪いこと言わないで」
と、私は笑って言った。「じゃ、待っててね」
小走りに校舎の事務室へと急ぐ。冷たい飲物の自動販売機があるのだ。
「あ、いけない。小銭が……」
いくら何でもタダじゃ、コーラやジュースは出て来ない。財布はロッカーの中だった。
ロッカー室まで行くのも面倒だったが、久枝をがっかりさせるには忍びない。
「これも友情のため!」
と、自分へ言い聞かせて、途中で進路を変更、ロッカールームへと向った。
今、十一時を少し回ったところで、午前の部もほぼプログラムの三分の二を終っていた。九時半の開会の時は、少し寂しかった父母席も、十時を回ると、満員になっていた。
お母さん、来てるのかな……。
父母席の方へ、捜しに行くなんて余裕は、進行係には、とてもない。
ワーッという歓声が、グラウンドの方から聞こえて来る。——早く行って来よう。
ロッカールームの辺りに、もちろん人の姿はなかった。ロッカーの鍵《かぎ》は、数字を合せて外すようになっている。
私は、自分のクラスのロッカーへと歩いて行った。
——運動靴で、足音がしなかったせいもあるだろう。その三人は、私がいることに全く気付いていなかった。
ロッカーが並んだその奥まった場所で、誰かがうずくまって、その子をスポーツ着の子が三人、取り囲んで、けったりこづいたりしていたのだ。
私は愕《がく》然《ぜん》とした。
「——何してるのよ!」
と、声をかける。
スポーツ着の三人が、パッと振り向く。見知った顔じゃなかった。——三年生だ。
三人が一斉に駆け出して、私を突き飛ばして逃げて行った。危うく転びそうになるのを、ロッカーの把《とつ》手《て》につかまって、何とかまぬがれると、
「大丈夫?」
と、まだうずくまったままの女の子の方へ声をかけた。「——ねえ」
駆け寄って、そのセーラー服の女の子が顔を上げたのを見て、びっくりする。
「有恵!」
自殺しかけて入院していた今井有恵なのだ。
「奈々子……」
「大丈夫? どこかけがしてない?」
「うん……。お腹が——けられたから」
「ひどいわね……。今の、三年生?」
「そうらしい」
「先生を呼ぶわ! 有恵、保健室へ——」
「いいえ! やめて!」
有恵が、夢中で私の腕をつかむ。「先生に言わないで、お願い!」
「だって——」
「お願いよ! 私のためを思うんだったら、誰にも言わないで!」
ひどく怯《おび》えている。
私は、有恵の、少し汚れた顔を見ながら、
「分ったわ」
と、肯《うなず》いた。「でもどうして、こんな目に?」
「訊《き》かないで」
と、有恵が言った。「来たのが悪かったのよ」
有恵は一応退院して、自宅で治療しているはずだった。おそらく、この体育祭が終ったら、登校して来るはずで……。
「でも——内出血でもしてたら、危ないわ」
「大丈夫。そうひどくやられたわけじゃないもの」
有恵は、セーラー服の汚れを払って、「手と顔を洗って、帰るわ」
「お母さんは? いらしてるの?」
「いいえ」
「一人で大丈夫?」
「うん。——心配かけて、ごめん」
と、有恵は言うと、急いでロッカールームから出て行った。
まるで、自分が何か悪いことをしていたみたいに、逃げるように、出て行ったのである……。
「——遅くなって、ごめん」
と、私は冷たいコーラの缶を、久枝に手渡した。
「サンキュー。お金、あったの?」
「うん。大分進んだ?」
「先生がね、この後、少し休憩時間を入れるって。体操に出た子が、すぐ次に出るのよ」
「じゃ、良かった。のんびりできるね」
「本当! これでお昼も食べられなかったら、死ぬよ!」
久枝はオーバーにため息をついた。
死ぬ。——有恵は、本気で「死のう」としたのだ……。
「今、今井さんに会ったわ」
と、私は言った。
「有恵? 本当に?」
久枝がびっくりしたように言った。
「ええ。——来てちゃ、おかしいの?」
「そうじゃないけど……」
と、久枝は少し間を置いて、「あの子、学校やめる、って言ってたのに」
「やめる? 本当?」
「知らないけど、そんな話、聞いたわ」
有恵は何も言っていなかった。——やめる、という話も、他《ヽ》の《ヽ》誰かが流しているのではないか。
しかし、なぜ、有恵があんなに目の敵《かたき》にされ、三年生にまで、ああして乱暴されたりするのだろう?
久枝は何か知っているようだった。しかし、今日はそんな話を持ち出すのにふさわしい日じゃない。
「——奈々子」
と、久枝が言った。
「え?」
「その後、矢神さんは何か言って来た?」
「生徒会長のことで? 別に」
と、私は首を振った。「誰か、いい副会長を見付けたんじゃない?」
「それならいいけど」
久枝はホッとした様子だった。「あと十日したら、立候補の締切だもんね」
「あの人、当選するでしょ」
「もちろん!」
と、久枝が缶を空にして、フーッと息をつくと、「でも、無投票ってわけにいかないから、誰かが、『負け役』で立たなきゃいけないのよ」
「どうして?」
と、私は訊《き》いた。「信任投票なら、満票取るんじゃない?」
「そんなの、彼女の趣味じゃないわ」
「矢神さんの?」
「ちゃんと相手がいて、正々堂々と戦って、勝つ。——これが矢神流よ」
「でも、立候補する人、いる?」
「さあ、知らない」
久枝は、大きく伸びをすると、「やっと少し生き返った!」
「コーラで生き返りゃ安いもんね」
と、私は笑った。「——あ、そろそろ行こうよ」
「OK!」
私たちは、次の種目の準備で、足早にグラウンドへと出て行った。
ドン、ドン、と花火が頭上で鳴っている。