まずまずの進行だ。——昼休みは一時十分まで、とアナウンスがあって、進行係は、最後の競技の片付けを終えると、
「一時には持場に戻るように」
と、ありがたい(?)お達しがあった。
「昼休みが三十分もないじゃないの」
と、久枝は文句を言っていたが、
「いい方よ」
と、私はなだめた。「前の学校の時は、お昼抜きだったのよ」
「やってらんない!」
と、久枝はオーバーに天を仰いだ。
いいお天気で、少し暑いくらい。
「陽に焼けちゃう」
と、気にして、ハンカチをかぶる子も沢《たく》山《さん》いた。
乙女心の微妙な季節である。
「奈々子、お母さんは?」
と、久枝が言った。
「うん、来てるはず」
私は歩き出しながら、「じゃ、また後でね!」
と、手を振った。
本当に来てるんだろうね、お母さん。
いくらかは不安だった。彼氏とデートしてて、忘れちゃった、とか。——ありえないことじゃないのだ。うちのお母さんなら!
——あの夜以来、刃物を持った物騒な訪問者は現われていない。
母と、その恋の相手との間も、どうなっているのか、こっちも忙しいので、訊《き》かなかった。
有恵のこと。矢神貴子のこと。母のこと。——気にかかることはいくつもある。
でも、学生の身では、その前に、やらなくちゃならないことが、山ほどあるのだった……。
「——やだ。お母さん、本当に来てないのかな」
と、私は周囲を見回して、呟《つぶや》いた。
進行係で、昼休みになるのが少し遅れるから、この辺りで待ってて、と言っておいたのだけど。
「奈々子!」
思いがけない声に、びっくりして振り向く。
「お父さん!」
父が、大《おお》股《また》にやって来る。——背広姿だが、上衣を腕にかけて、ネクタイは外してしまっている。
「頑張ってるな」
「来たの?」
「ここに来てる」
「サンキュー!」
嬉《うれ》しかった。——ま、娘は父親になつく、とか。私も、いくらかは、ファザコンなのかもしれない。
「午前中から来てたの?」
「十一時半ごろかな。母さんは、どこにいるんだろう?」
「私も捜してるの。この辺で待ち合せたんだけど」
「そりゃ無理だ」
と、父は笑って、「母さんは、場所を間違える天才だからな」
そりゃ、私もよく分っていた。しかし、だからって、あの混雑した父母席を捜す気にはなれない。
「ここにいろ。見て来てやろう」
「でも——」
「ざっと見れば分るさ」
と、父はグラウンドの方へ足早に歩き出したが、その時、私は母がやって来るのに気付いていた。
「お父さん!」
と、呼び止めて……。
でも——呼び止めない方が良かったのかしら?
「ごめんね、遅れて!」
母が、走って来る。「フルーツ買うのに手間取っちゃって」
母は、一人じゃなかったのだ……。
「あら」
と、母は、父に気付いた。「あなた」
「やあ」
父は、すでに、母の後からやって来る男に気付いているはずだった。
「みえてたの……」
「うん。奈々子を見物したくてな」
と、父は言った。「元気そうだ」
「ええ……。あなたも」
母は、どうしていいか分らない様子だった。
「おい、紹介してくれよ、こちらの人を」
と、父がアッサリ言って、その場の気《き》詰《づま》りなムードが消えた。
「ええ……。あの——黒《くろ》田《だ》さん。こちら、私の——」
「千代子の、も《ヽ》と《ヽ》亭主です。田中といいます」
父は、黒田という男の手を握った。「お若いですな。失礼ですが、おいくつです?」
「三十五になります」
「そうですか。もっとお若いのかと思いました。千代子もずいぶん若返ったと思った」
「何よ、あなた」
母が照れて赤くなっている。
「ねえ、お昼を食べようよ」
と、私は言った。「一時には進行の仕事に戻るんだから」
「そうだ。じゃ、どこかその木の下辺《あた》りで」
と、父が指さす。
「四人で食べよ。——お母さん、いいでしょ?」
「え、ええ」
母は、黒田という男に気がねしている。
しかし、黒田も、
「ぜひ、そうしよう。大勢の方が楽しいよ」
と、笑って言った。
ホッとした。
ここで、母を挟んで乱闘にでもなったら、私、学校へ来られなくなっちゃうもんね!
それにしても——私は、母の作って来てくれたサンドイッチをパクつきながら、思った——よく、こんな若い男と!
でも、心配していたような、きざったらしい男ではなかったので、安心していた。
黒田は、確かに三十五といっても、三十二、三にしか見えない。二枚目じゃないが、丈夫そうで、丸顔と小さな目は、お人よし、という印象を与えた。
せっせと母や私にサービスし、父に対しても、妙な対抗意識を出さず、年下の人間として、ごく自然に接していた。
「——飛び入りが入って、悪かったな」
と、父もサンドイッチをつまんで、「しかし、ずいぶん沢山作ったじゃないか」
「間違えちゃったの。ハムを倍も買い込んじゃって」
「相変らずだな」
と、父は笑った。「——おや」
「どうしたの、お父さん?」
「永倉の奴だ」
永倉重夫だった。きざな赤のシャツなど着て、矢神貴子と歩いている。
「何してるんだ、あいつ?」
「知らないの? フィアンセ同士なのよ」
と、私は言った。
「何だって?」
父は目をみはった。「永倉が?」
「そう聞いてるわ。あの子、矢神貴子っていうの。同じ二年生」
「まさか」
「どうして?」
「永倉は、今度結婚するんだぞ、同じ部の女の子と」
「本当?」
「ああ。馬鹿な奴で、俺の所に仲人《なこうど》を頼みに来た」
母が笑い出してしまった。父の言い方が、いかにもおかしかったのだ。
いいムードだ。——私は、改めて、父のことを、すてきだな、と思った。
いや、だからって、別れたのは母のせい、なんて言うつもりはない。夫婦の間のことは、分らないものだから。
でも、少なくとも今の父は、私にとって、理想的男性だった……。
気になるのは矢神貴子と、永倉の様子だった。
二人とも、かなり大っぴらに、肩など抱き合って歩いている。——生徒たち、先生たちの目にふれるのは、承知の上だろう。
しかし、永倉は、他の女性と結婚する。
矢神貴子は、それを知っているのだろうか?
——楽しいランチはアッという間に終ってしまった。
「もう行かないと」
私は、手を濡《ぬ》れタオルで拭《ふ》くと、立ち上った。「じゃ、お父さん、またね」
「ああ。適当に帰るよ。お前、どれに出るんだ?」
「二番目のゲーム」
「それだけ見て行く」
「うん。じゃあね」
黒田という男にちょっと頭を下げて、私は役員本部の方へと戻って行った。