さすがに、午後三時、あとはハイライトのリレーを残すだけ、というところになると、いい加減、私もばてて来た。
自分も出ながら裏方をやるというのだから、楽じゃない。
「奈々子! もう、だめ、私」
と、久枝は、本部の裏で、引っくり返っている。
「しっかりしてよ。閉会式のために、台を出さなきゃいけないんだから」
「分っているけど……。大体、何で三年生はさぼってばっかしいるわけ?」
「しっ、聞こえるよ」
と、私は言った。
「聞こえたっていい!」
「そう言っても、しょうがないじゃない」
確かに、三年生は、大変なことを全部二年生にやらせて、自分たちは楽な仕事ばかりやっていた。先輩だから仕方ないとはいっても、やはり、面白いものではない。
一年生は、直接先生の下で働いているので、結局、二年生が、一番いいようにこき使われているのである。
「ともかく、リレーの間は休めるわよ」
と、私も椅《い》子《す》に腰をおろした。
本当なら、リレーは見たかったのだが、もうそんな気も失せてしまった。
「——おい」
と、先生の一人が飛んで来た。
「はい!」
私はピョンと立ち上った。久枝の方は、て《ヽ》こ《ヽ》でも動かない、という感じで、座り込んでいる。
「マイクが調子悪いんだ。閉会式で使うから、他のを持って来てくれ」
「どこにあるんですか?」
「備品室だ。保健室の裏側の」
「分りました」
仕方ない。久枝には期待できなかったので、私は、重い足を引きずりながら、校舎へと歩いて行った。
保健室の裏、と……。
外から回った方が近いのかもしれなかったが、どこから入るのかよく分らなかったので、急がば回れで、中から行くことにした。
保健室は、今日は結構忙しいはずだ。転んでけがをしたり、目に砂が入ったり、色々な子が出る。
保健室の前を通りかかると、気のいいおばさんという感じの保健の先生が、
「あら、芝さん。どこか悪いの?」
と、声をかけた。
「頭以外は別に」
と、答えると、先生は楽しげに笑った。
「備品室って、この先から入れるんですよね?」
「そうよ。準備の係? ご苦労さん」
私は、小走りに廊下を急いだ。左へ曲って、もう一つ左……。
足を止めた。
バシン、という音が、廊下に響きわたるようだった。
「何するんだ!」
と、殴られた永倉が、矢神貴子に詰《つ》め寄った。
「卑《ひ》怯《きよう》者《もの》!」
と、貴子が、言葉を投げつけた。「分ってるんだから!」
「そうか。——気の毒だけど、君のそのプライドの高さが、鼻もちならないんだ」
「帰ってよ!」
貴子は、怒りで顔を真赤にしている。
私はびっくりした。——きっと、永倉が他の女と結婚することを、怒っているのだろうが、貴子がこんなに怒りを見せるなんて、思ってもみなかったのだ。
「帰るとも」
永倉の方が、今は冷ややかだった。「僕のことなんか、何とも思ってないくせに」
「そうよ」
「なぜ怒るんだ?——そうか。僕《ヽ》の《ヽ》方《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》断るっていうのは、君のプライドが許さないんだな。そうなんだろう」
永倉の言葉は当っていただろう。
「帰って、と言ったわよ。二度と顔を出さないで!」
「喜んでそうするよ」
貴子が、私に気付いた。
「あの——」
と、私は言った。「備品を取りに来たの……」
「どうぞ」
貴子は、いつもの冷ややかな口調に戻っていた。そして、足早に立ち去った。
「やれやれ」
永倉は、殴られた頬《ほお》を押えて、「君……この間、彼女の家で」
「ええ」
「あいつと友だち?」
「というほどでも……」
「その方がいいよ。——苦労するぜ」
永倉は、頬をさすって、「おお、いてえ……」
と、呟《つぶや》きながら、歩いて行った。
私は肩をすくめて、備品室の中へ入った。のんびりしちゃいられない。
マイクの箱をいくつか開けたが、どれも空っぽだった。困っていると、ふと何かが匂《にお》った。
こげくさい匂い。——何だろう?
備品室から出ると、匂いは強くなった。
廊下を戻って行くと……。うっすらと煙が漂っている。
まさか……。まさか……。
体育館の方へ目をやると、白い煙が、カーテンのように、視界を遮っていた。
「火事だわ。——大変だ!」
私は、保健室へと走った。大声で、
「火事です! 火事よ!」
と、叫びながら。
「——くたくたよ」
家へ帰った私は、そのままソファにドサッと引っくり返った。
「大変だったわね」
母が、熱いタオルを持って来てくれた。
「サンキュー」
私はタオルで顔を拭《ふ》いて、ホーッと息をついた。「こんなにくたびれた日って初めてだ!」
「火事、でも大したことなくて、良かったわね」
「うん」
体育館の入口辺りを焼いただけで、火は消し止められた。
「あなたが発見したから、早く消し止めたんでしょ。偉かったじゃない」
「そんなこと……。偶然よ」
と、私は言った。
「運動会も、最後が大騒ぎになっちゃったわね」
「本当。——でも、一応、済んだわ」
「早くお風《ふ》呂《ろ》へ入って寝るのよ」
「その前に、ご飯!」
「分ってるわよ」
と、母は笑って言った。
元気をふるい起こして、私は食堂へと足を引きずって行った。
「——ねえ、奈々子」
「うん?」
「ありがとう」
「何が?」
「黒田さんのこと」
「ああ。——礼なんて、変よ」
「だけど……」
「お父さんも、カッコ良かったよ」
「そうね」
母は、ニッコリ笑った。
夕食を、母が呆《あき》れるくらい食べると、大分元気が戻って来た。
「じゃ、お風呂に入ろうかな」
と、立ち上りかけると、電話が鳴り出した。
「出るわ」
急いで、電話へと駆けつける。
「はい。——あ、久枝。無事に帰り着いたの?」
「死ぬ一歩手前」
と、久枝が言った。「——ね、奈々子」
「うん?」
「今日の火事ね、放火らしいって」
「本当?」
びっくりしたが、しかし、考えてみれば、あんな所に火の気はないのだし、充分に考えられる結論だろう。
「でも、誰がやったんだろ?」
と、私は言った。
「ちょっと噂《うわさ》で聞いたんだけど」
「え?」
「見た人がいるんだって」
「犯人を?」
「犯人かどうか分らないけど、あの辺から、走って行くのを」
「誰なんだろ?」
「それが……有恵だっていうのよ」
私は、言葉もなく、突っ立っていた。