「——どうした」
と、喫茶室へ入って来た父は、私の前の席に座って、言った。「何かあったのか」
私は制服姿で、父の職場へやって来たのだった。
「頭痛で、早退」
「さぼりか?」
「これも、人のためよ」
「何か注文したか?」
「その辺はぬかりない」
と言ったとたん、ドサッと山盛りのフルーツパフェが置かれた。
父は笑って、
「その元気なら大丈夫だな。——僕はコーヒーだ。何の話だい?」
「一つはね、いい病院、知らない? ノイローゼとかの」
「お前が入るのか」
「それはその内。今は友だちなの」
私は、有恵のことを、説明した。
「——そんなことがあったのか」
父は眉《まゆ》を寄せて、「あの学校でもか」
「どこも同じじゃない? ただ目立つか、目立たないかの違いで」
「お前はクールだな」
と、父は苦笑した。「今、入院してるんだろ?」
「専門病院じゃないの。だから、そういつまでも置いてくれないんですって」
「なるほど」
父は肯《うなず》いた。「——父さんの大学の時の友だちが、確かよく知ってるはずだ。訊《き》いてやるよ」
「お願い! ちゃんと治してくれて、きれいで、近くにあって、看護婦さんが親切で」
「おいおい」
「それで安い所ね。何しろ、お母さんが働いてるんだから、あんまり高い病院じゃ、入れておけないわ」
「難しい注文だな」
と、父は笑った。「ま、お前の頼みだ。それに何とか近い条件の所を捜してみよう」
「よろしく」
私は、フルーツパフェを食べながら、「もう一つは、お母さんのことなの」
「母さんがどうした?」
「この間、黒田って人に会ったでしょ。どう思った?」
「うん……。まあ、真面目そうだし、優しそうじゃないか」
「同感。でもね、心配なの。お母さんに嘘《うそ》ついてんじゃないかと思って」
「嘘」
「離婚に、奥さんも同意したって言ってるのよ。でも、私、そうは思えない」
私が、あの夜の印象を説明すると、父は目を丸くして、
「お前、いつの間に心理学者になったんだ?」
と、言った。
「からかわないでよ。真剣なんだから!」
「分ってる。からかってるんじゃないよ。感心してるんだ」
「お父さん、どう思う?」
「うむ。——お前の印象が正しい可能性は、充分ある」
と、父は肯いた。「黒田って男が、悪い奴だとは思わん。しかし、優しい人間ってのは、どっちも傷つけまいとして、結局、自分で自分を困った立場に追い込んで行くことが多いからな」
「うん、分る」
「母さんは、年齢《とし》は取っても子供みたいなもんだ。あの黒田を、信じ切ってるだろう」
「お父さん、馬鹿らしいと思うでしょうけど、黒田って男のこと、調べてよ」
「いいとも。馬鹿らしいことなんてあるもんか」
父は即座に言った。「母さんにも、お前にも幸せになってほしいんだ」
「話が分るね!」
私は父の肩をポンと叩《たた》いてやった。
「しかし、いいか、このことは母さんには内緒だぞ」
「もちろんよ。——また私から電話かけるわ」
「分った」
——私は、フルーツパフェを平らげて、喫茶室を出た。
大分、気持が軽くなっていた。
正直、有恵を見舞うのは、気の重くなる仕事だったのだ。
有恵は、一応私のことも分っているようだし、会えば少しはしゃぐのだが、その内、何だか私に借りた物を返していないと言い始めて、いくらなだめても、納得せず、しまいには泣き出してしまうのだった。
——こういう病気は、気長に接するしかない。医者にはそう言われたが、有恵をあそこまで追い込んだ人たち——乱暴していた三年生も含めて——を許す気には、とてもなれなかった。
「——君、芝君だろ」
地下鉄の駅への通路を歩いて行くと、声をかけられた。
「あ——永倉さんですね」
矢神貴子にひっぱたかれた永倉重夫である。
「君、どうしてこんな所に?」
「父が、おたくの部長でして」
「え? 君、田中部長の?」
と、永倉は目を丸くした。「知らなかった! 参ったな!」
「別にいいじゃないですか」
と、私は笑った。
「それは失礼したね。——君、貴子から僕のことを……」
「別に聞いてません。もう、矢神さんとは別れたんでしょ」
「うん。結婚祝にって、凄《すご》いカーペットが届いた。あいつらしいよ」
「矢神さんが?」
「電話で話した時は、至って冷静だったよ。それに、当人も忙しいと言ってた」
「選挙でしょ。生徒会長の」
「そうそう。そんなこと言ってたな。——そういえば君の話が出たよ」
「私の?」
「うん。『この間、うちでも会った芝さんって子が、対立候補なの。強敵よ』と言ってたよ」
「そんなの冗談ですよ」
と、私は笑って言った。「当人が立候補しないのに」
「そうか。ま、あれと争わない方が賢明だと思うよ。——じゃ、また」
「どうも」
永倉も、矢神貴子との間がスッキリしたせいか、それともやはり仕事中だからだろうか、こうして見ていると、なかなか切れる二枚目って感じがする。
——それにしても、あの人もしつこい。
誰が立候補なんか!
地下鉄に乗った私は、時計を見た。
ちょうど今から帰れば、いつも通り学校を出たのと同じくらいだ。いちいち母に早退した、と話すのも面倒だったのである。
——秋になり、学校生活も忙しくなって来る。
色々、気にかかることはあっても、それなりに学校は楽しかった。
しかし——それも長くは続かなかった。
早退したこの日、私の知らない内に、誰かが、私の「生徒会長選挙、立候補届」を出していたのだ……。