「奈々子」
と、山中久枝は、こっちの顔色をうかがうようにして、言った。「怒ってんの?」
「怒ってんじゃない!」
と、私は言った。「面白くないの」
「怒ってるんじゃない、やっぱり」
そうじゃないのだ。
怒るのと、不機嫌なのとは、似てはいるかもしれないが、全く別のものだ。でも、今ここで、久枝を相手にそんな解説をする気にもなれなかった。
特にここはマンションの私の部屋で、土曜日の午後、久枝は、
「話したいことがあるの」
と、やって来ていたのである。
「——仕方なかったのよ」
と、久枝は、いささか哀れっぽい声を出した。
「こっちも、そんなこと全然知らなくてさ、前の日に突然よ。——矢神さんに呼ばれて、『あなたと組むことに決めたわ。頑張りましょうね』だもん。いや、なんて言える雰囲気じゃないのよ」
「分ってるわ」
私はベッドに引っくり返った。
「ね、十一月の選挙までのことじゃない。そんなに怒らないでよ」
久枝のように、割と体の大きな子が、こんな口をきくと、何だかおかしい。
「怒ってない、って言ってるでしょ」
と、私は笑いながら、言った。「そうじゃないの。面白くない原因はね」
「本当?」
「しつこいのねえ! 本当に怒るぞ!」
「分った! 信じる!」
と、久枝はあわてて言った。
「演説会はいつだっけ?」
「来週の土曜日よ」
「一週間か。——矢神さんはきっと、しゃべるのも上手なんでしょうね」
「そうね。いい声してるし」
全く。——何《ヽ》も《ヽ》か《ヽ》も《ヽ》揃《そろ》ってるっていう、およそやきもちすらやく気になれない人間ってのが、世の中にはいるものなのだ。
もちろん、矢神貴子が、そういう「天に愛された人」の一人なのかどうか、私は知らない。
少なくとも——矢神貴子には、「思いやり」とか、「優しさ」とか、人に「愛される」ための美徳が欠けているように思えた。
でも、そんなことを、この久枝に言ったりしてはいけない。
大切な友人ではあっても、まだ知り合ってそうたっているわけではない。本当に心を許し合っているとは言えないのだ。
「——何で機嫌が悪いの?」
という久枝の質問に、
「色々あってね」
と、答えておいて、「久枝、そのことで来たの?」
「ううん。実は……そうじゃないの」
久枝は、何となく言いにくそうに、目をそらした。
「なあに? 何か私に悪い噂《うわさ》でも立ってるの?」
「そうじゃないわよ」
と、久枝は急いで言った。「あのね——今井有恵のこと」
「有恵のこと? 何なの?」
有恵は、父が見付けた病院に、おととい移ったばかりである。
まあ、私の注文が全部聞いてもらえたわけではないが(大体、無茶な注文なんだから)、父のよく知っている医師の紹介で、ずいぶん感じ良く受け容《い》れてくれたらしい。有恵の母親から、お礼の電話がかかって来ていた。
「例の火事のことよ」
と、久枝が言った。
「有恵が火をつけた、って言われた?」
「そう。——ひどいもんね。反論できない人間に、押しつけて」
「何か分ったの?」
「三年生の中で、噂《うわさ》になってるの。あれをやったのが誰と誰だ、って」
「分ってるの、それじゃ?」
「噂だからね。証拠は何もないわけじゃない。でも、学校側も知ってるみたいよ。ただもう片付いた事件だし、今さら、またかき回すこともないと思ってるんでしょ」
「でも有恵はどうなるの! ひどいじゃない」
「うん。——同感だけどね。でも、告発するってわけにもいかないじゃない。ただ、奈々子、気にしてたしさ。本当のことが分れば、安心するかと思って」
正直なところ、久枝がなぜ、その話をわざわざ私に知らせに来てくれたのか、今一つ納得できなかったが、私は素直に礼を言っておくことにした。
そして久枝は帰って行ったが……。
——実際、私が、どこか苛《いら》立《だ》っているのは、選挙のせいではなかったのだ。
いくらかはそれもあったとしても、たかが学校での生徒会長ではないか。そんなこと、大したことではない。
私の関心はもちろん母《ヽ》に《ヽ》あった。いや、もっと正確に言えば、母と黒田とのことに……。
今日も、母は出かけている。当然、黒田と会っているはずだ。
母の話では、もう黒田と奥さんの離婚は、ほとんど手続きも終って、後は簡単な事務的処理だけ、ということになっている。
しかし、そんなに「簡単」なら、なぜいつまでも終らないんだろう?
そんなことを訊《き》けば、
「どうしてそんな意地悪を言うの?」
と、母がむくれるに決っているので、私は口に出さなかった。
もともと、子供っぽいというか「世間知らず」のところのある母だが、恋をしていると、その純真なこと、正に十代の乙《おと》女《め》の如しだ。
私の方がよっぽどクール——とは、まだ燃えるような恋を知らないから言えるのかもしれないが。
いずれにしても、母と黒田が無事にゴールインするのは、別にこっちとして何の異議もない。問題は、父の調べで出て来た疑惑である。
あれがもし、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》その通りだとしたら……。
黒田の妻は、どこへ消えたのか。そしてなぜ?
軽々しく結論に飛びついてはいけない。それは分っているのだが、少なくとも可能性としては否定できない。
黒田が、妻《ヽ》を《ヽ》殺《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》しまった、ということを……。
父は、黒田の妻の実家を調べさせているはずだ。その結果はまだ聞いていないが、そこに黒田の妻の無事な姿が見られることを、私は祈っていた。
——チャイムが鳴る音で、我に返った。
インタホンに出てみると、
「今日は!」
相変らず、小気味いいくらい、元気一杯の竹沢千恵の声が聞こえて来た。
「——やあ。上ってよ」
と、私はドアを開けて言った。
「どうも」
と、竹沢千恵は、上って来て、「すみません、眠くて! コーヒー一杯、いただけませんか!」
こういう、はっきりしたものの言い方は、私の好みである。
「——さ、どうぞ」
私も、ちょうどコーヒーがほしいところだった。早《さつ》速《そく》、淹《い》れて、二人で飲むことにする。
「来週、話すこと、考えました?」
と、千恵は言った。「おいしい! いいコーヒーですね」
「どうも。——私、何をしゃべっていいのか、見当もつかないわ」
と、正直に言う。「だって、何しろこの学校に入ったばっかりよ」
「そりゃそうですね。でも、それを逆に強調するしかありませんよ」
と、千恵は言った。
「逆に、って?」
「外から来た人にこそ、我が校の欠点がよく見える、とか」
「そりゃ……。普通の選挙ならそれでもいいわよ。でも、同じ学校の中よ。そんな批判めいたことを——」
「でも、個人攻撃でなきゃ構わないと思いますけど」
「そうかしら……」
「それぐらいやらなきゃ。向うは絶対に油断してます」
「そりゃそうでしょ。負けるわけないんだから」
「だから、今度の演説会で、向うの思ってもいないようなことをしゃべれば、びっくりしますよ。みんなだって、これは、と考えると思うんです」
千恵の言うことはよく分るし、明快だった。私は、一年生の千恵に叱《しか》られているような気がして、少々恥ずかしくなった。
——有恵のことに怒っていながら、一方では、つい今の学校の問題点を指摘したりして、みんなにどう思われるか、と不安だったのである。
「私、来週中に、二、三回、話し合いの会を持ったらどうかと思うんですけど」
と、千恵は言い出した。
「話し合いって?」
「ですから、今の学校について、何か意見はないか、っていうことで、昼休みとかに声をかけて集まってもらうんです」
「へえ……。でも集まる?」
「やってみなきゃ分りません」
そりゃそうだ。
私は、いつもなら自分が言っているようなセリフを千恵に聞かされて反省した。
私だって、この千恵だって、好きで立候補したわけではない。押し付けられただけのことだ。
しかし、千恵は、それが断れないとなったら、精一杯、考えて何かやろうとしている。それなのに私の方と来たら……。
「分ったわ」
と、私は肯《うなず》いた。「じゃ、その旨を、どこかに掲示しましょうか」
「もちろん、生徒会用の掲示板に貼《は》り出します。でも、その他にビラを作って配りましょう」
「ビラを?」
「ええ。大した数じゃないですもん」
「そうか。コピー取れば早いしね。よし、じゃ、これから作るか」
「ええ!」
二人して盛り上った。——早速、二人で買い出しに行って、白い紙とサインペンなどを買い込み(ついでにお菓子も)、戻って来て、ビラ作りを始める。
——電話が鳴った時、十枚目ぐらいのやり直しが終ったところだった。
「誰だろ。——待っててね」
私は、急いで電話へと走って行った。
「奈々子か」
と、父の声。
「お父さん。今、どこから?」
「うん。外だ。仕事でな」
「そう。お母さん、出かけてる」
「そうか」
父の口調はやや重苦しかった。
「何か——分った?」
「うん。調べさせてみたんだが……。黒田の妻は実家へ戻っていない」
私は、思わず受話器を握り直した。
「それ、確かなの?」
「うん。——もちろん、知人の所、友だちの家、色々身を寄せる所はあるだろう。軽々しく結論は出せない」
「そりゃそうだけど、もし……」
「お前の心配は分る。私だって、心配だからな」
「そ《ヽ》の《ヽ》男《ヽ》と、母さん、いつもデートしてるのよ! もし——」
「まあ待て。もっと、はっきりした証拠がつかみたい」
と、父は言った。「その上で、私が直接黒田に会って話すつもりだ」
「そうね。——その方がいいかも」
「奈々子、お前はしっかり者だ。母さんのことをよく見てやってくれ」
「うん……」
「じゃ、またかけるからな」
——父の電話が切れて、受話器を戻してからも、私はしばらく立ちつくしていた。
黒田は本当に妻を殺したのだろうか?
たった今、母はその殺人犯に抱かれているのかもしれない……。
「——どうかしました?」
と、千恵に声をかけられて、私は飛び上りそうになった。