その日、母が帰って来たのは、もう九時近くだった。
「——ごめんね、奈々子!」
と、母は息を切らして上って来ると、「何か食べた?」
「ちっとも連絡してくれないんだもん」
と、私はソファに引っくり返ったまま、
「お腹空いて、死にそう」
「ごめんね。——電話できなくて。こんなに遅くなると思わなかったのよ」
「時間のたつのを忘れてたんでしょ」
と、私は言ってやった。「カップラーメン食べたし、おやつも食べたから、何とか大丈夫」
「何か作るわ」
「いいわよ。そこのホットドッグでも買って来るから」
「そう?——ごめんね本当に」
母は、頭を振って、「車が混んでて……。でも、途中で事故があったの。黒田さんのせいじゃないのよ」
「分ってるって」
私も少々苛《いら》々《いら》していた。
母があんまり黒田のことをかばうので、頭に来たのだった。
「私が、ちょっと休んで行きたい、って言ったもんだからね。それですっかりラッシュに巻き込まれちゃったのよ」
「もう分ったってば!」
私は叫ぶように言った。母は、びっくりしたように私を見て、
「奈々子……」
「どうなってるの? 離婚の話は? もう届を出したの?」
と、私はつい、つっかかるように、言っていた。
「それは……もう、ほとんど終ったも同じだって——」
「もう何週間も同じことばっかり言ってるじゃないの。別れる気なら、とっくに別れてるんじゃない?」
「それは——」
「奥さんに会ってみれば? 直接訊《き》いた方が早いわよ。いつ別れてくれるのかって」
「そんなこと……」
母は、どうしていいか分らない様子で、ただ突っ立っていた。
「どうなの? 一度でも奥さんに会ったの?」
「いいえ……。だって、私のことを憎んでるだろうし……」
「会ってみなきゃ分らないでしょ。彼に頼めばいいじゃない。今度、三人でゆっくり話し合いましょうって。——そう、言ってみれば?」
母に、そんなことが言えるわけはない。そう分っていて、こんなことを言う私も、ひどいものだと思った。
「奈々子——」
母は、悲しげな目で、私を見ながら、「私のことを……怒ってるのね」
「お母さんのことじゃないわ。黒田さんのことよ」
私は、息をついて、「ごめんなさい」
と、首を振った。
「お腹空くと、私、機嫌悪くなるから。——ホットドッグ、買って来る!」
私は、財布を握って、玄関から飛び出して行った……。
「ねえ、奈々子」
夜、十二時を回って、母はもうてっきり寝たものだと思っていた私は、のんびりTVなど見ていて、声をかけられ、びっくりした。
「——起きてたの?」
「うん」
母は、ネグリジェ姿で入って来ると、「何を見てるの?」
「TV」
「TVは分ってるけど……」
「TVを見てるだけ。中の番組は知らないのよ」
「——変ってるわね」
と、母は笑った。
「何か用事?」
「ちょっと……お話があって」
私は、肩をすくめて、
「いいけど……。でも、別に怒ってないわよ、私」
「ええ、それは分ってるわ。そのことじゃないの」
母は、ソファに腰をおろすと、ぼんやりとTVを眺めていた。
私は、リモコンでチャンネルを変えて行ったが、どこも面白くない。それでも、TVを消せないのが、土曜日の夜というものかもしれない。
母は、しばらくたってから、
「あなた、弟か妹ができたら、どう?」
と、言った。
私は、しばらく何のことやら分らなかった……。
プツッ、と音をたてて、TVが消えた。いつの間にか、リモコンのオン・オフスイッチを押していたらしい。
起き上って、
「お母さん……妊娠してるの?」
と言った。
もちろん、私だって、男と女がそういうことをすりゃそうなるってことは知ってるが……。でも、お母さんが!
「そうじゃないわよ」
と、母は顔を赤らめて、急いで言った。「もしも、ってこと」
「——そうか。びっくりさせないでよ」
私は、胸をなでおろした。
「ただ……黒田さんがね、ぜひ子供を作ろうって言ってるの。私はもうこの年齢《とし》だしね……。できるかどうかも分らないけど。あなたの気持も訊《き》いてみたくてね」
私は、ためらっていた。
もし、黒田が、本当に妻と別れて母と一緒になるのなら、子供を作ったって別に——多少は複雑な気持ではあるが——構わないのだ。
しかし、もし、黒田が妻を殺していたとしたら?
それがばれたら、当然、母との結婚どころではない。その時、もし母のお腹に黒田の子がいたら……。
「別に——反対はしないけど」
と、私は言った。
「そう」
母はホッとした様子だった。
「でも、結婚式、あげてから、作ってくれる? 式の最中につわりじゃ、いくら何でも私の方が照れちゃうわ」
「もちろんよ」
と、母は笑った。
私は精一杯、明るく言ったのだが……。
でも、このことは父に話しておかなくちゃ、と私は思った。
「——生徒会長の方は、どうなったの?」
と、母が訊《き》いた。
「うん。来週から、選挙運動よ」
と、私は答えて、もう一度、TVをつけていた……。