マンションの前は、大変な人だかりだった。
まあ、殺人事件というものが、いくらTVドラマで年中起っていても、現実に身近で起るってことは、あまりない。
近所の人たちが見物に来るのも、当事者としては腹が立つが、仕方のないことではあるだろう。
私だって、すぐ近所で殺人事件があったと聞いたら、怖さ半分、駆けつけるだろうから。
でも——直接それに父が関っていた、となると、やはり気は重いものだ。
私は、父に、
「お前は下に行っていなさい」
と言われて、マンションのロビーにいた。
もちろん、他の住人も出入りするし、私がロビーの椅《い》子《す》に腰かけていても、別に誰も見とがめはしない。
「——どうなってるんだろう」
と、私は呟《つぶや》いた。
もちろん、マンションの前にはパトカーが何台か停って、警官も立っている。
父の部屋では、いわゆる検死というのが行なわれているのだろう。まだ死体は運び出されていなかった。
私は表を見ていて、タクシーから母が出て来たのを見て、びっくりした。
「——お母さん?」
「奈々子」
ロビーへ入って来た母は、何だかわけの分らない様子だった。「どうしたの、一体?」
「どうしたの、って……。お母さんこそ、どうして来たの?」
「電話をもらったのよ、お父さんから」
「そうか」
「あなたを迎えに来てやってくれって。どうしてお父さんの所へ行く、って言わなかったの?」
私は、ちょっと迷った。
母に、父との相談の内容を打ちあけるわけにはいかないのだ。
「うん……。ちょっと、おこづかいをね」
「だったら、お母さんに言えばいいでしょ」
「だって、何だか悪くて。——いけなかった?」
「悪くはないわよ。だけど……。ね、何があったの?」
仕方ない。事件のことを隠しておくわけにもいかないので、
「女の人がね、お父さんの部屋で殺されたのよ」
と、最も簡単な説明をした。
「殺された……」
母が唖《あ》然《ぜん》としたのも、まあ無理はない。
「もちろん、お父さんが殺したんじゃないのよ」
「当り前よ」
と、母が即座に言ったので、私は少しホッとした。
「お父さんの会社の女性だって。恋人ってわけじゃないみたいだけど……」
「お父さんはどこ?」
と、母は訊《き》いた。
「部屋よ。警察が今、現場を調べてる」
「会いに行きましょ」
と、母がエレベーターの方へ歩いて行くのを、私はあわてて追いかけた。
「でも——お父さん、下にいろ、って」
「上だって下だって、一キロも離れてないでしょ」
ま、そりゃ言えてる。
私は改めて、母のユニークさを再認識したのだった。
エレベーターがおりて来るのを待っていると、夫婦らしい男女が、ロビーをせかせかとやって来た。
どっちも五十代の初めぐらいか。青ざめて、ひどく興奮している様子だ。
「あ、あの——失礼ですが」
と、その男の方が、母へ、「あの——事件のあった部屋というのは……」
「七階だと思いますよ」
と、母が言った。「そうよね、確か?」
「うん」
と、私は肯《うなず》いた。
「そうですか」
と、その男の人は、エレベーターの扉が開くと、「これで七階へ行きますね」
「ええ、もちろん」
「じゃ——おい、乗って」
と、奥さんらしい女性を促す。
エレベーターが上り出すと、急に女性の方がハンカチを取り出して、泣き出した。
「おい……。まだ、あの子と決ったわけじゃないよ。しっかりしろ」
と、元気づけている夫の方も、声が弱々しい。
そうか。——私にも、もちろん分った。
父の部屋で殺された女性の両親だ。
母にも分ったらしい。私は母とチラッと目を見交わした。
七階に、やっとエレベーターが着く。
目の前に警官が立っていて、
「ここにお住いの方?」
と、訊《き》く。
「いえ……。呼ばれまして。うちの娘が——」
「ああ、ええと、お名前は」
「河《かわ》井《い》です」
「そうだ。娘さんは——」
「河井知《とも》子《こ》です」
「こちらへ」
と、警官は、その夫婦を案内して行ってしまった。
「——お母さん。まずいね」
と、私は言った。「お父さん、殴られるかも」
「仕方ないわよ。若い女の子を泊めるなら、殴られるぐらい覚悟しなきゃ」
と、母は言った……。
私たちは、父の部屋まで行って、開けたままの玄関から中へ入った。
「——どなた?」
と、刑事らしい男が、顔を出す。「今、入られちゃ困ります」
「田中の元、妻と娘です」
と、母が言った。「主人に会ってもよろしいでしょ?」
返事も待たずに、リビングルームに入って行く。
見ていた私は、母の思いもよらない度胸に呆《あつ》気《け》に取られていた……。
父はソファに座っていたが、母と私を見ると、びっくりして立ち上った。
「千代子……。お前——」
「心配で。放っておけないわよ」
と、母は言った。「会社の人ですって?」
「うん。——可哀《かわい》そうなことをした」
と、父は、ソファにまた腰をおろした。
「いくつだったの?」
「二十四だと思う」
「二十四……」
「早く帰しておくんだった」
と、父は息をついた。
「——失礼」
と、あの刑事がやって来た。「こちらは元の奥さん?」
「そうです」
と、父が肯《うなず》くと、母が何を思ったのか、パッと立ち上って、
「主人は人を殺したりしませんわ」
と、言った。
「は?」
「犯人が誰か知りませんが、少なくとも主人——いえ、元の主人は、人を殺したりする人じゃありません」
刑事の方は、すっかり母に呑《の》まれている格好で、
「いや……。よく分ります」
と、答えた。
「それでしたら結構ですけど」
私は、いつもの母とは別人のような、ものの言い方にびっくりして言葉も出なかった。
「おい、千代子」
と、父が言った。「別に、僕が疑われてるわけじゃない。心配するな」
「あら、そうなの? てっきり私——」
「強盗が、お留守と思って、忍び込み、河井知子さんに見られて、焦って殺害してしまったのだと見ているんですがね」
と、刑事が言ったので、母は少しホッとした様子だった。
「じゃ、早く犯人を捕まえて下さいな」
母の注文は全く……。私は少々汗をかいたのである。
すると——寝室のドアから、さっきの夫婦が、出て来た。
二人とも青ざめて、何だか空中を歩いているような足取りである。
「——間違いなく、お嬢さんですか」
と、刑事が念を押す。
父親の方が、コックリと肯《うなず》いた。母親の方は、涙も出ない様子。
「お気の毒です。強盗のしわざと思われますが……。必ず犯人を見付けます」
刑事の言葉は、気休めでしかないのだろうが、それでもショック状態の両親には、いくらか効果があったようだ。
「娘は……知子は……今日、お見合いだったんですよ」
と、母親が、涙声で、「まさかこんなことに……」
父が立ち上って、河井知子の両親の前に歩いて行くと、
「上司の田中です」
と、言った。「知子さんのことは、全く申し訳ないと思っています」
「はあ……」
私は、父親が怒って、殴りかかるんじゃないかと、気が気ではなかった。
しかし、まだショックの方が大き過ぎて、怒る余裕もない様子だ。
「どうも娘がお世話に——」
と、礼まで言って、却《かえ》って父に辛《つら》い思いをさせたのだった……。