「参ったな」
と、父は言った。
「ちゃんと再婚しなくてはだめよ」
母が父に意見するというのは、珍しいことだった。
しかし、今は父としても、何とも言い返すことができまい。
「もう若い子には手を出さないのよ」
と、母は言ったが、その言い方は少しも皮肉っぽくない。
本当に、心から父のことを心配しているのである。——これが母の人の好さ、なのだ。
「ああ、そうしよう」
と、父は肯《うなず》いた。
私たちは居間に残っていた。——死体は運び出されて、警察の人たちも、大分少なくなっている。
「失礼」
と、あの刑事が戻って来た。
沢《さわ》田《だ》というこの刑事は、なかなか礼儀正しくて、好感が持てる。
「お隣の平田さんをお呼びしたんで、ここでお話をうかがいたいんですがね」
「もちろんです。お通しして下さい」
考えてみれば、平田という隣の人が、逃げて行く犯人を見たおかげで、父は容疑をかけられなくて済んだようなものだ。
「——お邪魔します」
と、平田が入って来て、「いや、大変でしたね」
と、父へ声をかける。
「ご迷惑をかけて——」
「いやいや、いつもご厄《やつ》介《かい》になってますからね」
と、平田は言った。
年代は父と同じようなものだろうか。頭が少し薄くなって、ちょっと疲れた感じのする男だ。
父が、母のことを平田に紹介し、挨拶が続いた。
「——平田さん」
と、沢田刑事が言った。
「はい」
「事件が起った時のことなんですが」
「ええ。いや、私は自宅で仕事をするんですよ」
と、平田は言った。「大したもんじゃありませんが、一応もの書きのはしくれでしてね」
「なるほど」
「で、仕事は夜が多い。朝まで働いて、ベッドへ入る、という具合で。ゆうべもそうでした。ベッドへ入ったのが、ゆうべ——というより今朝《けさ》ですね、六時ぐらいでしたか」
平田は、少し間を置いて、「あの声を聞いた時も、実はまだ少しウトウトしていたんです。本当は少し早く起きて、仕上げておかなきゃいけない原稿もあったんですが」
「声が聞こえたのは——」
「十二時……半ごろだったと思いますね」
沢田刑事が父の方を見た。
「私は、この娘が急に訪ねて来たので、あわてて、彼女を残して表のレストランへ行ったんです。十二時……ちょうどくらいでしたか」
「河井知子さんは、その時は?」
「まだベッドの中で……。起こして、帰った方がいいんじゃないか、と言って、知子も、『そうするわ』と言ったんですが」
「実際には——」
「また眠ってしまったようですね。運が悪かった」
と、父は首を振った。
「聞こえたのは、どんな声でした?」
と、沢田刑事が平田へ訊《き》く。
「二人のようでしたね。女の人の叫び声——これはよく分りません。出てって、とか、そんな風に聞こえましたが」
「なるほど」
「男の声で、『黙れ!』と何度も言うのが聞こえました」
平田は、ゆっくりと思い出している様子だった。
「田中さんの声はよく分っていますしね。それに、あんなに怒鳴ったりする方じゃない」
「もちろんです」
と、急に母が言った。
「で、こっちもびっくりして、起き出したわけです。何事かと思って……。服を着ていると、また叫び声が……。前よりも何かこう——切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》った感じでした。で、私は通路へ出たんです」
「それで?」
「急に、田中さんの部屋のドアがパッと開いて、男が飛び出して来ました。私の方へ走って来たので、こっちはびっくりして——。捕まえてやりゃ良かったんですが」
「いや、それは危険ですよ」
と、沢田が言った。
「ともかく、あわてて何とかよけると、男は、通路の奥へ駆けて行って、非常階段から消えてしまいました」
沢田は肯《うなず》いて、
「河井知子さんは、刃物で胸や腹を刺されていました。かなりあわてて刺した傷のようでしたね」
「可哀《かわい》そうに」
と、父がため息をついた。
「ネグリジェのままでした。——田中さん、出られる時、玄関の鍵《かぎ》は?」
「もちろん、かけて出ました」
「すると、犯人は、開けて入ったのかな。こじ開けた跡はないようでしたが……」
「それは分りません。しかし、かけておいたのは確かです」
沢田は肯いて、
「それで……。平田さんに、犯人らしいその男のことをうかがわなくてはいけないんですがね」
と、言った。
「分っています」
と、平田は肯いた。「よく思い出してみました。いや、相手も、誰かが表にいると思っていなかったようでしてね。私を見て、ギョッとして立ちすくんだんです」
「すると、顔をよく見られたわけですね」
と、沢田刑事が勢い込んで訊《き》く。
「ええ、何秒間か分りませんが、お互い、顔を見合せて、突っ立ってたんですよ」
「どんな男でした?」
「そうですね……」
と、平田は、じっくりと考え込んで、「——年齢はたぶん——三十代の半ばか、前半でしょうね。若い感じでした。三十そこそこかもしれない」
「体つきは——」
「少し太っていて、しかし、そう肥満ってほどではありません。ま、中肉中背で、やや太めってとこかな」
「服装はどうでした?」
「サラリーマンですね。紺《こん》の上下にネクタイで。それもストライプの。よくある安物という感じで」
「なるほど」
「顔は何となく丸顔でしたね。目が小さくて。——笑うと筋になっちゃう、ってやつです」
「メガネは?」
「ありません。ヘアスタイルも、普通に分けていて、長くも短くもなし」
沢田刑事は、肯《うなず》いて、
「いや、これだけ教えて下さると助かりますよ。しかし、あまりはっきりした特徴はないですね」
「そうですね。平凡な男、という感じで」
「どうでしょう。お手数ですが——」
「モンタージュ写真というやつですか。いいですよ」
「いや、ありがたい。ご都合がよろしければ、これからでも——」
「分りました。じゃ、ちょっと、仕度をして来ましょう」
平田が出て行くと、沢田は、ちょっと難しい顔になった。
「どうも、妙ですね」
「分ります」
と、父が言った。「強盗とは思えないですね、今の話では」
「そうです。——服装といい、平田さんと、しばらく顔を見合せていたことといい……。もちろん、押し入るのに慣れていない奴かもしれませんが」
「他の可能性も?」
「当ってみる必要がありそうです」
私は、父に、
「他の可能性って?」
と、訊いた。
「つまり、河井君を知っていた人間の犯行ってことさ」
「モンタージュ写真ができたら、あなたもご覧になって下さい」
と、沢田刑事は言った。
「もちろんです」
「誰か、ご存知の人間かもしれませんからね」
——ご存知の?
三十代前半。中肉中背でやや小太り。丸顔に小さな目……。
私はふと、そんな男を知っているような気がした。誰だろう?
——平田の仕度ができて、沢田刑事は一緒に出て行った。
やっと、三人になった。しかし、もちろん昔の三《ヽ》人《ヽ》とは違う。
「あなた」
と、母が言った。「どうするの、今日から?」
「どうする、って?」
「このマンションにいるつもり?」
「仕方あるまい。行く所もない」
「でも——」
「寝室は使わないよ。——ま、夜中に悪い夢ぐらいは見るかもしれないが、夢で死にゃしないさ」
母は心配そうに、
「でも……。それだったら、他が見付かるまで、うちへ来てたら?」
母の言葉には、私もびっくりした。しかし、考えてみれば、これが「母らしい」ところなのかもしれない。
「そんなわけにはいかんさ」
と、父も苦笑して、「恋人同士の邪魔はできないよ」
その時、私は思わず声を上げてしまいそうになった。
あの平田という人が述べた犯人像。——それは、母の恋人、黒《ヽ》田《ヽ》とそっくりだ……。
でも——もちろん、そんなのは、偶然に決っているけれど。
「——じゃ、帰りましょ、奈々子」
と、母が促す声で、ハッと我に返る。
「うん」
父は、玄関へ出て来て、私に、小さく、
「また連絡する」
と、囁《ささや》いた。
私は肯《うなず》いて見せたが……。父も、黒田を見ている。犯人の特徴が黒田と一致することを、知っているのだろうか?
私は、もう一つ、この事件のせいで、父がどうなるか、心配だった。父が罪を犯したわけでないにせよ、立場というものもある。
それに、母と黒田の問題も、父がこんなことに巻き込まれて、調べていられなくなるかもしれない……。
帰りのタクシーの中で、私はいつになく無口になって、母を心配させた。