千恵を保健室へ連れて行って、何とか代りに着られる物を捜してもらった。
だぶだぶの白衣を着て、照れながら、
「大丈夫。一人で行きます」
と、千恵はすっかり立ち直っている。
「そう?」
保健室を出て、私は、「このこと、どうする?」
と、言った。
「先生に? そんなことしたら、負けです」
「だけど……」
「何もなかったような顔をしてます。勝手に水の中へ飛び込んだ、ってことにして。——みんなには分りますよ、何があったのかってことは」
何だか私より千恵の方が、よほど覚悟を決めているらしい。
「分ったわ」
私は千恵の肩を軽く叩《たた》いて、「無理しないで。今夜はどうする?」
「もちろん行きます。お料理の腕をご覧に入れますからね」
そう言って、ニッコリ笑うと、千恵はパタパタとスリッパの音をたてて、走って行った。
——私は、あの千恵のためにも頑張らなきゃ、と思った。
ちょうど、ベルが鳴って、休み時間に入る。私は、教室へと戻って行った。
——入ったとたんに、妙な雰囲気だと気付いた。
みんなが黙って私の方を見ている。
私は、自分の机のそばに、三年生が二人、立っているのを目に止めた。
私は、足早に近付いて行って、
「ご用ですか」
と、言った。
二人の三年生は顔を見合せ、
「別に」
と、肩をすくめた。「行きましょ」
二人が、教室を出て行く。一人が、出る時に振り向いて、
「もう少し机の中を整理しとくのね」
と、言って行った。
見当はついている。机の中、鞄《かばん》の中……。
めちゃくちゃにかき回されていた。
あのアンケート用紙とカセットを捜しに来たのだ。
「——奈々子」
と、久枝がおずおずとやって来ると、「私は知らなかったのよ」
「いいのよ。分ってる」
私は、机の中を片付け始めた。
教室の中が、やっといつものようにざわつき始める。
「——気が重い」
と、久枝がため息をついた。
「むだな手間をかけさせちゃった」
と、私は気楽に言った。「ロッカーもやられてるかな」
「ロッカーへしまったの?」
「ううん」
と、首を振って、「それほど馬鹿じゃないよ」
「そう。でも——」
「矢神さんが怒るでしょうね。悪いね、久枝。当られるよ」
「私は構わない」
と、久枝は肩をすくめて、「でも、気を付けてよね、奈々子」
「ありがとう。ほんの何日間のことじゃないの」
と、私は微《ほほ》笑《え》んだ。
本当は、もちろん笑うような気分じゃなかったのだ。しかし、千恵のことを考えると、ここでカッとなってはいけない。
問題は、金曜日の昼休みである。
果して無事に済むだろうか?
私は、不安も怒りも、一切顔に出さず、黙々と机の中を片付けていた……。
マンションへ戻ると、母はまだ帰っていない。
今日は、黒田と、式場の下見に行くと言っていた。
——父から、連絡はなかった。
父のマンションで、河井知子が殺された事件も、その後どうなったのか。
気にはなったが、ともかく今の私には、心配することが多すぎた。
着替えながら、何となくシャワーを浴びたくなって、また服を脱ぎ、バスルームへ入った。
気分転換というやつだ。——スッキリして、バスタオルを体に巻いてソファに腰をおろしていると電話が鳴った。
「奈々子。帰ってたの」
「お母さん、今日は帰れるの?」
私は皮肉でなく、言った。
「もちろん帰るわ。でも、色々、手間取っちゃって——」
「いいわよ、晩ご飯は。友だちが来て、一緒に作ろうってことになってるの」
「そう、じゃそうしてね」
母はホッとした様子だ。
「いい所、見付かった?」
「何とかね。でも、空《あ》いてないのよ、なかなか」
「頑張って捜して」
と私は言ってやった……。
服を着て、竹沢千恵が来た時のために、コーヒーでもいれとこうか、と仕度していると、部屋の玄関の方のチャイムが鳴った。
「——はーい」
と、玄関へ出て行くと、
「私だ」
「お父さん!」
急いでドアを開ける。父はインターロックの鍵を持っているのだ。
父は思いの他、元気だった。
「——友だちが来るのか。邪魔しちゃ悪いなあ」
「そんなことないよ。一緒に食べてったら?」
「そりゃいい。若い女の子に挟まれて——」
と、明るく言いかけて、「いかんな……。つい、浮かれてしまう」
「どうなったの、あの後」
と、私は、ソファへかけた。「今、コーヒーが入るから」
「うん。——警察の方は、平田さんの記憶でモンタージュ写真を作った。見せようと思って来たんだ」
「見せて」
父が上衣のポケットから、写真を出す。
もちろん、目、鼻、口……。全部バラバラの寄せ集めだから、不自然ではあるが、一応一つのまとまったイメージが出来ている。
「——どうだ?」
と、父が訊《き》いた。
「分ってるでしょ」
「うん……。お前もそう思うか」
「黒田さんとよく似てる」
「そうなんだ」
父は、ため息をついた。「平田さんの話を聞いた時にもそう思ったんだが……」
「私もよ」
「そうか。しかし、なぜ黒田が……」
「お父さんが、いなくなった奥さんのこと、調べてるのに気が付いたんじゃない?」
「かもしれんな」
「誰もいないと思ってか、それともお父さんが一人でいると思ったのか、あのマンションへ忍び込んで……」
「思いがけず、河井君に出くわした」
「騒がれて夢中で刺しちゃった……。筋は通るわ」
「しかし、私に会ってどうするつもりだったんだろう? 殺すのか?」
「かもね。脅したって、逆効果でしょ」
「そこまでの悪党とも思えないんだが、あの男……」
父は天井を見上げた。
「でも、お父さん……。どうするつもりなの?」
「何を?」
「分ってるでしょ。この写真のこと。あの刑事に、心当りは、って訊《き》かれたら——」
「訊かれたよ」
「どう答えたの?」
「知らない、と言った」
少し間を置いて、父は続けた。「他人の空似ってこともある」
「うん……」
「それに、何とか、母さんを巻き込みたくないんだ」
「分るけど……。無理じゃない?」
「やってみるさ」
と、父は言った。「ああ、それからな、来月から、勤め先が変る」
私はびっくりした。
「お父さん! やっぱりクビ?」
「いや、自主退職だ。まあ、同じ職場の女の子に手を出したんだからな。自業自得さ」
「どこへ移るの?」
「前から誘われていたんだ。心配しなくていいぞ。給料は少し上る」
「別に心配してないよ」
と、私は笑って言った。
「ちょうど、勤め先も変るし、少し休みが取れる。この機会に、黒田の奥さんの実家へも行って来ようと思ってるんだ」
「早くしないと。今日は式場捜しよ」
「そうか。——何もなきゃ、それに越したことはないんだが」
しかし、あのモンタージュ写真といい、奥さんのことといい、黒田に「何もない」とは、とても考えられなかった……。
チャイムが鳴って、急いで出ると、千恵がやって来たのだった。
ドアを開けて待っていると、
「——お邪魔します!」
竹沢千恵が、買物の大きな袋をかかえて、やって来た。