その夜、私はせっせと明日の演説会の原稿を作っていた。
母は珍しく——というと皮肉に聞こえるかもしれないが——家にいて、色々と電話をかけまくった挙句、
「もう遅くなっちゃったわね」
と、私の所へやって来た。「晩ご飯はどうする?」
私は目をパチクリさせて、
「お母さん……何も用意してないの?」
「だって忙しかったのよ」
全く! どういう母親だ?
でも、私も、演説の原稿作りに夢中で、お腹が空《す》いていることも忘れてしまっていたのだ。
言われると、急にお腹が空いて来た。
「一時間くらい待ってくれたら、何か作るけど……」
「いい! どこかこの近くで食べよう」
と、私はあわてて言った。
私はまだ死にたくなかった!
二人でマンションを出て、さてどこへ行こうかと歩き出すと、
「おい、奈々子」
と、呼ぶ声。
「——お父さん!」
父が、タクシーから降りて、手を振っている。
「あなた。何かご用だったの?」
と、母が訊《き》いた。
「いや、近くへ来たんでな。——出かけるところか」
「お母さんが、晩ご飯作るの忘れたの」
「いやねえ。忘れてないわ。うっかりしてただけよ」
「どこが違うの?」
「三人で食事か? 黒田君と」
「そうじゃないわ。今日はあの人、出張ですって」
と、母が言った。
「そうか。じゃ、一緒に六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》辺りへ出て食べるか」
「わあ! やった!」
と、私は跳びはねた。
とたんにお腹の方がグーッと音をたてたのだった……。
「あ、ねえ、あそこにいるの、TVスターの……」
といった声が聞こえたりするところが、いかにも六本木。
夜中の二時までやっているというイタリア料理の店は、まだこの時間は割合に静かである。
普通なら、一番混み合う夕食時間なのだが、ここが混むのは十二時過ぎだということだった。
スパゲティだの何だの、色々頼んで、まずはオードブルでお腹を取りあえずなだめておく。
「——そうか十二月二十七日にしたのか」
と、父は母から聞いて、肯《うなず》いた。「いいじゃないか。奈々子ももう子供じゃない」
父が、黒田のことをどう思っているにせよ、その口調に、そんな気配は全くなかった。
「——それで、あなたにお願いがあるんですけど」
と、母は言った。
「何だ? お前と黒田君の仲人《なこうど》をしてくれと言われても断るぞ」
「まさか!」
と、母は笑って、「大体あなたは独身じゃありませんか」
「冗談だよ。何だ、頼みって?」
「奈々子のこと。私がハネムーンに行ってる間、みててやってほしいの」
「ああ、そりゃ構わないとも。——ただ、奈々子の方でいやだと言うんじゃないか?」
「そんなことないわ」
と、私は言った。「でも、その間はお父さん、一人で寝てよ」
「もうこりたよ」
と、父は苦笑した。「一生、女ぬきの人生を送ろうと決心した」
「怪しいもんだ」
と、私は言ってやった。
「じゃ、いいのね」
母はホッとした様子。「それで——あの事件、何か分ったの?」
「いや、今、警察で調べてくれてる。今のところ、連絡はないな」
「すぐに犯人、捕まらないね」
と、私は言った。
「うん……。早く捕まってほしいが……。おい、千代子、ワインでも飲むか?」
父は、ワインリストをもらって、眺め始めた。
「——ちょっと失礼」
私は、席を立って、トイレに行った。
店の奥の廊下の突き当りがトイレである。私が戻ろうとすると、やって来る若い男が一人。
狭い廊下なので、体を横にして、すれ違おうとすると、
「おい」
と、その若い男が突然私の腕をつかんだ。
「何するんですか」
私はその男をにらんだ。「声出しますよ」
「出せよ」
二十歳ぐらいらしい、その男は、私をにらんでいる。——その目には、怒っている色があった。
「あんた、誰?」
「俺はな、河井知子の弟だ」
と、男は言った。
河井知子の弟?——父のマンションで殺された、あのOLの弟か。
「親父と一緒だな」
「ええ……」
「ここでお前のこと、半殺しにしてやりたいぜ。俺やお袋《ふくろ》の気持が、少しは分るだろうからな」
その声は、震えていた。
「お気の毒だったと思うわ」
と、私は言った。「殴って気が済むのなら、殴って下さい」
その男は、じっと私を見ていたが、やがて息をつくと、
「その内、親父に会いに行くからな!」
と、言うと、店の方へと戻って行った。
私は、ホッと息をついた……。
席に戻りながら、店の中を見回すと、あの若い男が、出て行くところだった。
「——トイレはあの奥?」
と、母が立ち上る。
「そう。突き当りよ」
私は席に着いた。——父と二人になると、あの弟のことを言い出そうと思って——。
「どうかしたのか?」
と、父が訊《き》く。
「ううん。別に」
私は首を振った。「何か用だったの、お母さんに?」
「いや、お前に話しておこうと思ったんだ。それと、確かめたくてな」
「何を?」
「母さんが黒田と会ってるんじゃないってことだ」
「今日? だって出張って——」
「そうじゃない」
と、父は言った。「会社へ問い合せた。黒田は今日、休みを取ってる」
「じゃ、どうして、嘘《うそ》ついたんだろ?」
「分らん。——まあ、大して理由のないことかもしれんが……」
「何か分ったの?」
「どうやら、黒田の妻の両親が、こっちへ出て来るらしい」
「じゃ、黒田と会いに?」
「いや。私とさ」
と、父は言った。「心配になったんだろうな。娘のことで問い合せをしたし、向うも黒田の所へ、連絡を入れてるだろう。娘が電話に出なかったりすれば、心配するはずだ」
「そうだね。いよいよ大詰めか」
と、私は言った。「でも——ねえ、もしかして」
と、ハッとして、
「黒田、逃げちゃったんじゃない?」
「うむ。——その可能性はある」
と、父は肯《うなず》いた。「それきり姿を消してくれれば、罪を認めるようなもんだからな。しかし、母さんがどう思うかは別だ……」
私と父の話は、それきりになった。母が戻って来たからだ。
——母は大いに食欲を発揮した。私や父がびっくりするくらい、沢山食べたのである。
幸せ一杯、というその様子に、私と父は、複雑な思いで、目を見交わしたのだった……。