演説会でくたびれた私は、その土曜日の夜、いつもより早目にぐっすりと眠ってしまった。
母は帰っていなかったが、ちゃんと鍵《かぎ》は持っているし、何も、子《ヽ》供《ヽ》が《ヽ》親の帰りを待つこともないだろう、と思ったのだ。
そして日曜日……。
目が覚めると、もう時計は十時半を指していた。——やれやれ。
別に、急ぐ用事があったわけではないが、千恵と、もし時間があったら会おうか、ということになっている。
今では久枝よりも、千恵の方がずっと心を許せる存在になっていた……。
ドアを開けると、プンと匂《にお》って来たのは、コーヒーの香りで、大いにこっちの胃袋を刺激してくれた。
私はパジャマのままで、ダイニングの方へと歩いて行き、
「ねえ、お腹空《す》いちゃった、私——」
言葉が止った。——目の前に、黒田が立っていたのだ。
思ってもいないことだった。
分っていれば、ちゃんとそつなく笑顔でも見せられたのに、不意に、四人も人を殺したかもしれない男が現われたら、いくら私でも、ドキッとしてしまう。
「やあ」
黒田は、いつもながらの優しい笑顔を見せて、「起きたのか。悪かったね、突然やって来て。——どうした? 真青だよ」
「いえ……。別に」
と、私は、必死で、いつもの通りにふるまおうとした。
「あら、奈々子。起きたの?」
母が顔を出す。「これから、ホットケーキを作るところよ。食べるでしょ」
「うん……」
と、私は肯《うなず》くのが精一杯だった。
「気分でも悪いの?」
と、黒田が訊《き》く。
「いいえ。——私、低血圧だから。朝の内は何となく元気出ないんです」
私はそう言い逃れると、「着替えてから来るわ」
と、母へ声をかけた。
「じゃ、あなたの分は最後に焼くわよ」
「うん」
自分の部屋へ戻って、ドアを閉め、私は体中から力が抜けて行くのを感じた。
まさか——まさか母が黒田を連れて来ていたなんて!
今日になってやって来たのではない。ゆうべ遅く帰って来て、黒田は泊ったのだろう。
私は、急いで着替えをしながら、どうしようかと迷っていた。
一日、黒田と母に付合わされるのはかなわなかった。といって、父の所へ行くというのも……。
ともかく、千恵と会って、選挙の打ち合せをすることにしよう、と決めた。
それにしても……。今、私は黒田をはっきり、「殺人犯」として見てしまったのだ。
黒田も、気付いたのではないだろうか?
私が、真相を知っている、ということに……。
もし、そうだとすると、黒田にとって、私も「危険人物」の一人に数えられることになるのだ。
でも——もちろん、私を殺したりはしないだろうけど。
本当に?
私は、ダイニングへ顔を出すまでに、かなりの時間が必要だった……。
「——今日はどうするの?」
と、ホットケーキを食べながら、母が訊《き》いた。
「私? ちょっと友だちの家に行くことになってる」
「そう。帰りは?」
「分んないな。選挙も近いし」
と、私は肩をすくめた。
夕ご飯を三人で、とか言われては困ると思ったからだ。
「生徒会長に立候補してるんだって? 大したもんだね」
と、黒田が愛《あい》想《そう》良く笑いながら言った。
その笑顔も、以前見た時には、割合に好感の持てるものだったのだが、今見ると、背筋が寒くなる「殺人鬼」の笑いに見える。
「落選候補です」
と、私は言った。「ただ、やるだけのことはやらないと」
「それはそうだね。頑張ってくれよ」
「ええ。——お母さん、今日は出かけるの?」
「さあ……。ちょっと見ておきたい物もあるから……。もしあなたが遅いんだったら——」
「いいよ、食事して来て。私、竹沢さんの所でごちそうになる」
「まあ、悪いじゃないの」
「様子を見て、決める。二人でどこかへ出るかもしれないし」
「分ったわ。もし何なら、電話してみて」
「うん」
ここは素直に肯《うなず》いておくことにした。
黒田が、また何か話しかけて来そうだったので、私は、テーブルにのっていた新聞を広げて見始めた。
——社会面を開けると、一つの記事が、目に飛び込んで来る。
〈湖の転落車——殺人か?〉
という見出し。
あの事件だ。検死の結果、夫婦は、湖に車が落ちる前に死んでいたとみられる、と出ていた。
やはり……。殺されたのだ!
私は、さり気なく、ページをめくった。
そして——どうしてそんなことをしたのか、よく分らないのだが、私は、元の社会面を、まためくっていた。
「へえ」
と、私は言った。「湖に落ちた車——殺人か、ですって」
「湖って?」
と、母が顔を上げる。
「夫婦で乗ってて、車ごと湖に落ちて死んだの」
「じゃ、溺《おぼ》れたの」
「それが、調べたら、落ちる前に死んでたらしいって。保険金目当ての殺人か、ですってよ」
「いやねえ」
と、母は首を振った。
私は、目を向けないままに、黒田の反応を窺《うかが》っていた。
しかし、黒田は、私の話が耳に入らなかったかのように、黙々とホットケーキを食べている。
私は新聞を閉じた。
「——いや、旨いな、これは」
と、黒田がホッと息をつく。「さすがだね!」
「まあ。もっと他のものでほめてよ」
と、母が笑う。「こんなもの、誰が作っても同じだわ」
「いや、そんなことないさ」
と、黒田は言った。「やっぱり君でなくちゃ!」
私は、黒田が果して本当に、気の弱い男なのかしら、と思った。
自分の犯した殺人の話に、眉《まゆ》一つ動かさないなんて……。
「じゃ、私、出かけて来る」
と、席を立つ。
部屋へ戻って、仕《し》度《たく》をすると、私は千恵の家へと出かけた。
マンションを出て、私は少し歩いて——ふと振り向いた。
四階の、うちの窓が見える。——そこに人影があった。
黒田だ。じっと、私のことを見送っている。
私が振り向いたのを見ても、姿を隠すでもない。私に向って、手を振って見せた。
私はためらったが、怪しまれても困る、と思って、手を上げて見せた……。
——どういうつもりなのだろう?
私は少し足を早めた。
「——芝さん」
呼びかけられて、私は、足を止めた。振り向く前に、もちろん分っていた。
「今日は」
と、矢神貴子は言った。
「どうも」
「お出かけ?」
「ええ、ちょっと」
「竹沢さんと、作戦会議?」
そう言って、矢神貴子は笑った。
「何かご用?」
「お話があるの。うちへ寄って」
そう言って、矢神貴子は、さっさと歩き出す。
相手が自分の思い通りになる、と信じ込んでいる人間なのだ。
私が動かずに立っていると、矢神貴子は少し行って立ち止り、
「どうしたの?」
と、訊《き》いた。
「いいえ、別に」
私は、彼女について歩き出していた。
今の時期に、矢神貴子が何を言いたいのか、興味があったからだ。