「前から……何度か彼女のことは見かけてたんです」
平田は、消え入りそうな声で言った。「それで、……可愛《かわい》い子だな、と……」
平田の部屋の中。——独り住いの部屋は、どことなく侘《わび》しい。
「それで、あの日は?」
と、刑事が事務的な口調で訊《き》く。
「はあ……。私はもの書きですが、大して仕事があるわけでもありません」
と、平田は、すっかり肩を落として、「あの日も、前の晩から、徹夜で書いた原稿を、昼前にやっと仕上げて……。雑誌の編集部へ電話を入れたら、もうその原稿はいらなくなったよ、と言われて……」
平田の額には、大きなこ《ヽ》ぶ《ヽ》ができていた。
「それで?」
「はあ。——腹が立つやら、がっくり来るやら、で……。お隣からは、彼女の明るい声が聞こえて来ます」
平田は、ゆっくりと首を振った。「畜生、と思いました。どうして俺はこんなにツイてないんだ、と……。その内、田中さんが急いで出て行く音がしました。——彼女は中で一人きりだ、と思いました。たぶんまだベッドの中で……。そう思うと——」
平田は、大きく息をついた。
「どうしてあんなことをしたのか……。気が付くと、私は包丁を手にして、廊下へ出ていたんです。チャイムを鳴らすと、彼女がドアを開けたんです。きっと田中さんが戻って来たと思ったんでしょうね」
「それで——」
「私は、甘く考えてました。刃物をつきつければ、女は怖くて声も出ないだろう、と。——何をされても、きっと、恋人には黙ってるだろう、と……。とんでもないことでした」
平田は、ちょっと苦笑して、「彼女は寝室へと逃げて行きました。追って行くと、凄《すご》い勢いで暴れて……。悲鳴を上げ始めたんです」
「それで殺したのか」
「ちょっとけがをさせれば黙るだろう、と……。でも、もみ合っていたし——気が付いたら、深々と刺してしまっていたんです」
父が、顔を両手で覆うのが見えた。
「——とんでもないことになった、と思って、それでも、動かなくなった彼女を見下ろして、ぼんやり立っていたんです。すると、玄関で誰かの声がして」
平田は、ぬるいお茶を一口飲んだ。「びっくりして、私は、洋服ダンスのかげに隠れました。——その男は『誰かいませんか』と、声をかけながら上って来て、寝室を覗《のぞ》いたんです。仰天して、腰を抜かしてしまって……」
平田は、笑い出した。
「あの時の、あいつの顔ったら……。本当に……見られたもんじゃなかった……」
ヒステリックに笑う平田の肩を、刑事が強くつかんで、揺さぶった。
「おい! しっかりしろ!」
平田は、笑うのをやめると、
「すみません。——大丈夫です」
と、肯《うなず》いた。
「そいつが逃げ出すのを待って、この部屋へ戻ったんだな」
「ええ。——その人相は、申し上げた通りです」
「黒田だ」
と、父は言った。「たぶん、私に会いに来たんだろう。死体を見て、怖くて、誰にも言わずに逃げ出したんだ」
「全く……。悪い夢を見てたようです」
と、平田は言った。「殺す気はなかった。本当です」
「そうだとしても」
と、刑事は言った。「すぐ後で、知らん顔をして出て行き、他の人間に罪をなすりつけようとしたのは、許せんな」
平田がうなだれる。
「教えてくれ」
と、父が言った。「なぜ黒田が、妻を殺したとか、知らせたんだ?」
平田は少しためらってから、言った。
「教えてくれた人がいるんです」
「教えた人?」
「はあ。誰だか知りませんが、私が犯人らしいことを知っていて、黒田って奴に、この殺人の容疑もかけてやればいい、と」
「つまり——黒田が妻と、その両親を殺したらしいと、君に教えたんだね」
「そうです」
「で、なぜこの子を車でひこうとした?」
「それも、その男が、いや——男か女かよく分らない声でしたけど」
「私を車ではねろって?」
「そうすれば、黒田が犯人ってことがはっきりする、と……。ともかく、私は自分が疑われてるんじゃないかと怖くて。言われる通りにしてしまったんです」
「その声が誰のものか、見当はつかないのか?」
と、刑事が訊《き》いた。
「全然。——知ってる人間の声じゃなかったと思います」
刑事の一人が、
「凶器を見付けましたよ」
と、顔を出す。
「——よし、行こう」
と、刑事は平田を促して、立ち上った。
「——哀れね」
父の部屋へ戻って、私は言った。
「平田のことか? しかし、殺された彼女が、もっと哀れだ」
「うん、そうだね」
父が、自分を責めているのを、私は分っていたので、何も言わなかった。
父は、息をつくと、
「母さんは、どうしたのかな」
と、言った。
「うん……。マンションにいなきゃ、こっちへかけて来ると思うけど」
もう、夜中の三時に近い。
「——ね、お父さん」
「何だ?」
「河井知子を殺したのは黒田じゃなかったけど、他のことは……」
「うん。——まだ、黒田が妻とその両親を殺したという可能性はある」
「そうね」
「しかし……さっきの平田の話を聞いても、果して黒田にそんなことができたかな、と思えて来るよ」
「それはそうね」
「いずれにしても、早く警察へ出頭した方がいい。母さんが連絡して来れば、そう言ってやるんだが」
父は時計を見て、「——奈々子、どうする?」
「うん。マンションへ戻ってようかな。もしかして、帰って来るかも」
「そうだな。タクシーを呼ぼう」
「学校は休む。それどころじゃないもん」
「それは確かだ」
と、父はため息をつくと、タクシーを呼ぼうと電話へ手をのばした。