「奈々子!」
母の入院した翌日、学校へ出た私は、校舎へ入ったところで、いきなり山中久枝に腕をつかまれた。
「久枝。どうしたの?——びっくりさせないでよ。そうでなくても参ってるのに」
「それどころじゃないわよ」
と、久枝は真顔で言った。「ね、奈々子、あなた、矢神さんのお父さんに、選挙のこと訴えたの?」
「訴えた?——大げさね。向うが話してくれ、って言うから、事実を説明しただけよ。それがどうしたの?」
と、私は言った。
「じゃ、会ったのね、本当に」
「あっちが、私に声をかけて来たの。話を聞きたい、って。——ね、一体どうしたっていうのよ?」
久枝は、私を人目につかない隅へ引張って行って、
「矢神さん、父親に相当ひどく言われたみたい。本気で怒ってるわ。用心して」
「そう言われてもね……。私は何も——」
「分ってる。でも、矢神さんにしてみれば、プライドを傷つけられたのよ。今まで、父親の前じゃ、『いい子』で通してたんだから」
私は、ため息をついた。
「もう疲れたわ。母は入院するし、選挙のことまで、頭が回らない」
「大変ね」
久枝は、私の肩を叩《たた》いて、「何かあったら、知らせるわ。——でも、気を付けて」
「ありがとう」
久枝の気持は、嬉《うれ》しかった。
「それにね、噂《うわさ》が流れてるの」
「噂って?」
「一年生の、竹沢千恵。あなたと組んでる」
「彼女がどうしたの?」
「今日、休んでるの。——ゆうべ家へ帰らなかったって、お家から電話が入ったらしいわ」
「千恵が、帰らなかった?」
「もちろん、それが矢神さんと関係あるかどうかは分らないけど……」
——私は、教室へ入って、クラスの子たちの視線に、何かを感じた。
誰もが、何《ヽ》か《ヽ》知っている。——前にも時々感じた、そんな印象が、この日は特に強かった。
私自身は——もちろん、母を、何とか元のように元気な母に戻さなくては、ということはあったものの——そう大きな問題をかかえているわけではなかった。むしろ、心配なのは、竹沢千恵のことだ。
授業にも、一向に身が入らない。昼休みになったら、千恵の家へ電話してみよう、と私は思った……。
昼休み、パンの昼食を手早く済ませた私は、事務室まで行って、千恵の家へ電話してみた。——しかし、誰も出ず、虚《むな》しく鳴り続けているばかり。
諦《あきら》めて、事務室を出ると、生徒会の掲示板に生徒が集まっている。
何だろう? 近づいて行くと、誰かが私に気付いた。——そして、スッとみんなが散ってしまう。
私は、掲示板を見た。自分の目が、信じられなかった。
そこには、まるで写真週刊誌のゴシップ記事みたいに、母の大きな写真——それも、黒田と一緒に、マンションの前で車に乗ろうとしている写真が貼《は》ってあった。
そして、大きな字で、〈生徒会長候補芝奈々子さんの母親、心中未遂!〉と書かれていたのだ。その下に〈相手の殺人容疑者の男は死亡〉と付け加えて、さらに細かい字で、母と、黒田の名を出して、新聞記事風に、今度の出来事のいきさつを、簡単にまとめていた。
しかも、父の若い恋人が、父の住むマンションで殺された事件まで、触れてある。
私は、膝が震えた。——矢神貴子が、プロを使って調べさせたのに違いない。
そうでもなければ、こんな写真まで、とれるわけがない。
私は、掲示板の、その写真と「記事」を、引っぱがし、手の中で握り潰《つぶ》した。
周囲からその様子を眺めていた生徒たちは、私と目が合うのをさけるように、歩いて行ってしまった。
私は、掲示板の前に、一人で立っていた。——急に、校舎の中が寒々と感じられて来た……。
「——芝さん」
と呼ばれて、我に返る。
事務室の女性だった。
「何か?」
「電話が。竹沢さんって方」
私は、事務室へと駆け込んで行った。
「——もしもし!」
「竹沢千恵の母です」
「あ、芝です。あの——千恵さんのこと、今日、学校で聞いて。何か——」
「あなたのせいよ」
と、千恵の母親の声は、震えていた。「千恵が、あんなひどい目にあって……。あなたが、千恵のことを……」
泣いている。——私は、受話器を握りしめた。
「もしもし! 何かあったんですか?——今、千恵さんは?」
長く、重苦しい間があった。
「病院にいます」
千恵の母親の声は、涙で濡《ぬ》れていた。「自分の目で見てみなさい……」
「病院に?」
私は、まさか、と思った。——いくら何でも、そんなことが……。
「あの子、憶《おぼ》えてる? お父さんに、ご飯作ってくれた、メガネの子。——あの子がね、男たちに連れ出されて、乱暴されたの。一晩中……。今、ショックで入院してる。以前、付合ってた男の子に、車で送ってやるって言われて、気軽に乗ったらしいのね。そしたら、途中で他の男が何人も乗って来て、逆らうこともできなくて、そのまま車で郊外へ連れ出されて……。体中、打ち身やすり傷だらけだって……。私のせいなの。私が悪かったんだわ!」
——父のマンション。
一気にしゃべってしまうと、私は、父の肩に顔を埋《うず》めて、思い切り泣いた。
——何十分、泣いていただろう?
「ごめん……。もう、どうしていいか分らなくなって」
と、私は息をついた。
「やった奴らは捕まったのか」
「ううん。親が、表《おもて》沙《ざ》汰《た》にしたくないって」
「そうか」
と、父は肯《うなず》いた。
「でも、分ってる。——あの人が仕組んだのよ。矢神貴子が。お母さんのことだってそうだわ」
あの平田を、黒田のことを密告するようにそそのかしたり、私を車で狙わせた電話も、おそらく矢神貴子に頼まれて、母と黒田のことを調べていた人間だろう。
父がコーヒーをいれてくれる。
「ありがとう」
思い切り砂糖を入れて甘くして飲むと、ホッと息をついた。「お父さん」
「何だ?」
「私、学校やめる。とてもいられない」
「そうか。——分った」
父は、私の手を、優しく、包むように握って、「しばらく、母さんのことを見ててやってくれ」
と、言った。
「うん」
私は肯《うなず》いた。「お母さん、立ち直ってくれるといいね」
「立ち直るさ。大丈夫だ。お前と、それに私もいる」
「そうだね」
私は微《ほほ》笑《え》んだ。そして、父の手を、しっかりと握り返した。
——退学届を、その夜、父のマンションで書いた。もちろん、父の印も必要だったからだ。
「今夜はマンションへ帰るのか」
と、父が言った。
「泊ってっていい?」
「ああ、もちろんだ」
と、父は笑顔になって、「明日は、朝から母さんのそばについててやる。——先に風《ふ》呂《ろ》へ入るか?」
「うん」
私は、まだ涙のあとの目立つ顔で、笑って見せると、父の額にチュッとキスしてやった……。
「——奈々子」
久枝が、校舎の前で待っていた。
「久枝。もう午後の授業、始まってるよ」
と、私は言った。
「いいよ。さぼるから」
「そう?」
私たちは、校門の方へと歩き出した。
「——短かいけれど、長かった」
と、私は言った。「色々、大変だったね」
「うん……」
久枝は、目を伏せたまま、「恨まないでね」
と、言った。
「まさか」
久枝の腕を、私は取って、「また、手紙でもちょうだいね」
と、言った。
「うん。——その内、ここも変るかもしれない」
「そうね。そうなるといいけど……。ともかく、私の力じゃ、どうにもならなかったわ」
「そんなことないよ。みんな、少しは考えてると思う」
「考えてるだけじゃだめよ。何《ヽ》か《ヽ》しなくちゃ。自分にできる範囲でいいから、何かできることを」
私は、久枝の手を軽く握って、「じゃ、さよなら」
と、言うと、校門を出て、歩き出した。