エコーのかかった歌が、いつ果てるともなく続く。
カラオケバーの一隅で、由利は、ジュースを飲みながら、じっと頭痛に堪えていた。
その頭痛の原因がはっきりしていて、しかも、それを取り除くことができないのが分っている。——その思いが、さらに頭痛をひどくした。
「ウォーッ!」
犬の遠《とお》吠《ぼ》えみたいな歓声が上り、拍手が起る。由利も手を叩《たた》いた。
仕方ない。——これが仕事なのだ。
手を叩く。こんな簡単なことが、どんなに難しいことか。
歌っているのは、由利の勤め先のお得意で、五十歳くらいの部長なのだが、もう五曲も一人で歌い続けている。
「やあ! もうくたびれた! 誰か代れよ」
と言いながら、一向にステージから下りようとしない。
「アンコール!」
と、声のかかるのを待っているのだ。
しかし——さすがに、五曲もその歌を聞かされると、「もう一曲」と声をかける勇気のある人間はいないようだった。
「さ、誰だ、次は?」
とマイクを握ったまま言って、店の中を見回す。
自分から名のり出たら嫌われる。それが分っているので、誰も口を開かないのである。
「——よし。俺《おれ》が指すぞ」
と、その部長は言った。「いやとは言わせないぞ」
アンコールの声がかからないので、意地悪になっている。
——お願い。お願いですから、ここへ来ませんように。
由利は祈った。そして、同時に自分が当てられそうな、いやな予感を覚えている。
いやな予感は、当るものなのである。
しかし——大丈夫だろう。
あの部長は、単なるお茶くみの名前など、知りはしない。当てたくとも、名前が分らなくては……。
由利は目を閉じた。頭が痛いのは、空気が悪いせいでもあったが、それだけではなかったのだ。
自分でもよく分っている。音程の外れた歌や音に、敏感に反応する。これは、由利の身につけてしまった「特技」である。
あのひどい歌。エコーをかけて、何だか歌詞の全く聞きとれない歌。
よくみんな、あの歌を聞いていられるものだ……。
目を閉じて、指でギュッと目の間を押す。そんなもので、少しも頭痛は良くならないのだが——。
「おい、松原」
と、課長の三《み》浦《うら》が呼んだ。
違う。あれは空耳だ。じっと目をつぶっていれば通り過ぎて行く嵐《あらし》だ。
「松原! 聞こえないのか」
由利は、無理に目を開けた。
「何だ、眠ってたのか」
と、あの部長が不愉快さを隠そうとせずに言った。「俺の歌は退屈か」
由利は、答える気になれなかった。
「いや、聞き惚《ほ》れてたんですよ! なあ、松原?」
と、三浦が大げさに笑って言った。「ほら、ご指名だ。次はお前だぞ」
そんな……。やめて。やめて。
どうしてそっとしておいてくれないのだろう? 他にこんなに大勢の人がいるのに。
「松原、早く出て来い」
由利は、そろそろと立ち上った。
拍手が起る。——馬鹿げてる! こんなことって……。
由利は、のろのろとテーブルの間を進んで行った。
「初舞台だ!」
「そうよ。聞いたことないものね」
と、声が上る。
「ほら、ステージに出ろ」
三浦がマイクを由利へ押し付ける。
「課長……。頭痛がして……具合悪いんです。勘弁して下さい」
と、低い声で言うと、
「馬鹿! 断れると思ってるのか。何でもいい。一曲歌って引っ込みゃそれですむんだ」
三浦に押し上げられるように、由利はステージに上った。ライトがまぶしく目を射る。
「拍手、拍手!」
と、誰かが叫んだ。
由利は、自分がひどく惨めに思えた。
こんな場所で歌うような歌は、全く知らない。——といって、ここへ立って、何もせずには戻れそうになかった。
「あの……」
と、マイクを口もとへ近付けて、「私、歌は下手なんです、本当に……」
「ストリップでもいいぞ!」
と、課の若い男が叫んだので、みんながドッと笑った。
由利は当惑し、店の中を見回していたが……。その目が、ふと、フロアの隅に置かれたピアノに止る。
セミグランドだ。白塗りで、もちろん、ジャズやポピュラーを弾くように置いてあるのだろうが……。
「おい、早くしろ!」
と、あの「部長」が怒鳴った。
三浦が、気が気でない様子で、由利を見ている。
由利は、ちょっと唇をなめて、
「あの——歌の代りに、ピアノを弾いてもいいでしょうか」
と、かすれた声で言った。
一瞬、戸惑いがあった。
「ピアノ? 弾けるのか」
と、「部長」が言った。
「少し、ですけど……」
「〈猫ふんじゃった〉か」
と、誰かが笑った。
「よし、ピアノだ」
と、「部長」が言った。「おい、そっちへライトを当てろ」
由利は、マイクを置いて、ステージから下りると、白いピアノへと歩いて行った。
ライトが向きを変え、白いピアノを照らす。
反射光が目に入って、由利はちょっと手で遮った。
「——お借りします」
と、店の人に言って、椅子にかける。
高さを調節して、鍵盤に向った。
「本格的だ!」
「〈猫ふんじゃった〉協奏曲!」
笑いが起る。
白と黒の音が、由利を待っている。——何を弾くか、考えていなかった。
ちゃんと調律してあるのだろうか? もちろん、そんなことを要求してもむだなことは分っている。
いくつかの鍵《キー》に指を滑らせると、思いの外、狂ってはいないことが分った。
しかし——弾くのなら、本当に〈猫ふんじゃった〉でもいいのだ。こんな所で、〈ペトルーシュカ〉を弾いても仕方ない。
だが、すでに遅かった。
ピアノは弾かれたがっていた。
私の中の曲をとり出して、と叫んでいた。
そう……。弾くんじゃない。私は、扉を開けるだけだ。
そっと両手が鍵盤にのびた。——何の曲を弾く?
考えない内に、ショパンの〈プレリュード〉を弾き始めていた。
もう、ずいぶん長いことピアノには触っていない。それなのに、指は次の鍵を探り当てる間もなく、目指す鍵へ吸いつけられて行く。
誰もが、度肝を抜かれていた。
その腕前もともかく、音の大きさが……。店内を一杯に満たすほどの音量。
叩いているのではない。ただ、なでているようにしか見えないのに、ピアノは全体が震動するほどに鳴った。
いけない! 抑えて。抑えて。ピアノを壊してしまう……。そう。そうよ。力を抜いて……。
オクターブの跳躍、左右の手の交差、指が目に止らないほどのスピードで動く。
ペダルを踏む足は、たぶんこのピアノが経験する初めてのデリケートなコントロールを加えている。
由利は、じっと天井の方を見上げていた。鍵盤を見る必要は全くない。どこに指があるか、次はどこを叩くか。——考えなくても、指が記憶していた。
低音が轟《とどろ》くように鳴る。床が震えた。
何をしてるんだろう、私は?
——これでみんなが感心してくれるか?
とんでもない!
みんなは許してくれないだろう。たどたどしく〈エリーゼ〉でも弾けば良かったのだ。しかし、由利はそれにはうますぎる。
——カラオケで突然、シューベルトの〈冬の旅〉でも歌ったらどうなるか。感心される代りに、いやな目で見られるに違いない。
今、自分がしているのも、それと同じことである。
何か適当なポピュラー曲でも弾いておけば良かった。しかし、指がそれを許さなかったろう……。
最後の和音を鳴らしたとき、いくつかの鍵が狂ったことに気付いた。たぶん、こんな風に弾かれたことがなかったのだろう。
余韻が消えて——店の中は静まり返っていた。
「失礼しました」
立ち上って、一礼すると、急いで席へ戻った。——誰もが呆《あつ》気《け》にとられて、由利を眺めている。
「いや、大したもんだ」
あの「部長」が、酔いの覚めた様子で、「うちの娘もピアノをやるが……。桁《けた》が違ってる」
拍手が起った。そして店内の客は全員拍手をした。
やめて! やめて……。
もういらない。拍手はいらない。
「——松原さん?」
と、店の女性がそばに来ていた。
「はい」
「お電話」
由利は戸惑った。
「私に……ですか」
「太田さんって方」
と、その女性は言った。「急用ですって」
「由利さん」
と、声がして、太田が廊下をやって来る。
「太田さん。母は?」
と、由利は訊いた。
「今、意識不明だ」
太田は、由利を促して、夜の病院の薄暗い廊下を歩いて行った。「悪かったね、あんな所にまで」
「いいの。早く出たかったし」
と、由利は言った。「リサイタルの途中で?」
「〈展覧会の絵〉を弾いてた」
「そう」
「やらせるんじゃなかったよ」
「でも……。言うことを聞く人じゃないわ」
由利は、病室へ入って行った。
母が、ビニールで顔の辺りを囲われて、眠っている。
「久しぶりだろ、お母さんと会うのは」
「そうね」
由利は、椅子を引いて、座った。
「今夜がやまだと言ってた」
「ついてるわ、私。太田さん、もし用があるなら——」
「僕は帰れないよ」
太田は首を振って、「これが仕事だ。それに——」
と言いかけてやめる。
「それに……何?」
「いや、後でゆっくり」
太田は腕を組んで、「カムバックしてほしいと思ってた。裏目に出たかな」
「仕方ないわ。こんなこと、お医者さんでも分らないわよ」
と、由利は言って、「ねえ、——お姉さんには?」
「連絡がとれないんだ。マンションへ電話しても、誰も出ない」
「いても出ないのかも」
と、由利は言って、「ここから近いわ。私、行ってみる」
「そう? 僕が行っても——」
「私の方がいいわ」
由利は立ち上って、「母をお願いね」
と言うと、病室を出た。
——本当は、太田に行ってもらっても良かったのだ。
しかし、今、由利は一人になりたかった。
母から、離れたかったのである。
表に出て、少し迷ってから、歩くことにする。寒いという気候ではなかった。姉のマンションまで、歩いても二十分とはかからないだろう。
母が倒れた。——そしてそのとき、自分がピアノを弾いていたこと。
それが、由利を動揺させていた。もちろん偶然ではあるけれども、暗示的にも思える。
何を? 何を暗示しているのか。
——母は助かるだろうか。
由利は、夜の道を急いだ。姉に会うのは気が重かったが、仕方ない。
いや、むしろ会っても話すことがあるのは、安心だった。
足を早めた。母の病気が、やっと実感として、感じられて来ていた。