やっと、Kホールは空になった。
佐《さ》竹《たけ》弓《ゆみ》子《こ》は、汗を拭《ふ》く気にもなれずにいた。——もうホールの中はひんやりとして、聴衆の熱気も消えているが、それでも汗がひかない。
仕方のないことだ。もちろん弓子にも分っている。
アーティストだって人間だ。病気で倒れることだってある。直前のキャンセルなど、珍しいことじゃないので、いちいち気に病んでいたら、いくつ体があってももたない。
しかし今夜のように、演奏の途中で倒れるというのは、めったにないことである。
しかも、一時的な貧血とかでなく、救急車で入院。聴衆は、二十分ほど待たされて、コンサートの中止を知らされた。
まあ、アーティストのわがままというわけではなく、目の前で倒れるところを見ているので、それほど苦情は出なかった。そういう点、日本のクラシック音楽ファンは行儀がいいとも言える。
問題は今夜のチケットを払い戻すかどうかで……。何しろ一曲目の途中で倒れたのだ。払い戻さないわけにもいくまい。
ステージの照明が消える。コンサートグランドの蓋《ふた》が閉じられた。
あれが、影《かげ》崎《さき》多《た》美《み》子《こ》の弾いた最後のピアノだということにならなければいいが。
弓子は、通路ぎわの席に腰をおろすと、息をついた。
「やれやれだわ……」
このホールのプランナーとして、弓子はここで企画したコンサートについては、全部の責任を負っている。
もちろん、Kホールは貸しホールでもあるから、内容的には弓子が一切タッチしていないコンサートも、ずいぶんあるわけだ。
今夜の、〈影崎多美子リサイタル〉は、弓子が自ら望んで通した企画だった。マネージャーの太《おお》田《た》から何度も頼まれていたのは事実だが、それで決めたわけではない。
弓子自身、影崎多美子のファンであり、何度もその演奏を聞いている。——三年間のブランクの後、彼女がカムバックするなら、何とかこのホールで、と思っていた。
実現するにはしたが……。結果はこういうことだ。
ホールの事務局の中でも、
「今さら影崎多美子でも」
という声はあった。
それを弓子が押し切って、このホールのスポンサーとも交渉し、やっと実現にこぎつけたのである。
それがこういう結果に終ると、当然、弓子への風当りが強くなる。一つのコンサート分の入場料を払い戻すと、大変な損害になるからだ。
「——くよくよしたって、始まらない」
と、弓子は肩をすくめて呟《つぶや》いた。
そう。言われる前にパッと謝って、次の仕事にとりかかる。——これが弓子の「元気法」なのである。
コツ、コツ……。
靴音がした。ホールの係の人間とは違うようだ。
振り返ると、中年の、背広姿の男性が薄暗くなったホールの中を見回しながら歩いて来る。
「何かご用ですか?」
と、弓子は立ち上って、言った。「もう、ホールを閉めるところなんです」
「あの……」
髪が半分白くなったその男は、おずおずと、
「今夜、ここで影崎多美子さんの——」
「ええ、やったんですけどね、ご本人が演奏中に倒れられて中止になったんです」
「倒れた?」
男が目をみはった。「多美子が倒れたんですか」
弓子は、改めてその男を見直した。——そう。どこかで会ったことがある……。
「松《まつ》原《ばら》さんですね」
と、弓子は言った。「影崎さんのご主人だった——」
「え、ええ……。まあそんなところです」
と、その男は申しわけなさそうに、「あなたは……」
「憶《おぼ》えてらっしゃらないでしょうけど、以前、TVの音楽番組をやっていたことがあって。そのときお目にかかりました。佐竹弓子といいます」
「佐竹さん……。ああ! 思い出した。以前は髪を短くしてましたね」
「はい。遠い昔のことですけど」
と、弓子は照れて言った。
「今はこのホールで?」
「ここのチーフプランナーをやっています」
つい反射的に名刺を出していた。「それより、影崎さんが——」
「ああ……。いや、本当はチケットも買ってあったんですが、仕事で遅くなって。——八時過ぎに来たら、何だかもう人がゾロゾロ出て来るし、どうしたんだろうと……」
「弾いている最中にステージで。マネージャーの太田さんが付添って病院へ救急車で——」
「どこの病院か分りますか?」
「T病院です。ここから十分くらいですし、このホールの館長の顔がきくので」
「知っています、T病院なら。あそこは悪くない……」
弓子は改めて、松原紘《こう》治《じ》を見直した。——前に会ってから、七、八年はたっているだろうが、それにしても、そのころから二十も年《と》齢《し》をとったように見える。
「ロビーへ出ましょう」
段々照明を落としていくホールの客席から弓子は松原紘治を促してロビーへと出た。
「心臓ですか、やはり」
と、松原が言った。
「だと思います。——これから病院へ行くつもりでした。ご一緒にいかがですか。私の車でよろしければ」
「それはまあ……ありがたい話ですが」
と、松原はためらった。「ご迷惑では?」
「とんでもありません。ここでちょっとお待ちになっていて下さい。ちょっとバッグを取って来ます」
「ああ、どうぞ。もちろん——」
と、松原は口の中で呟くように言った。
弓子は楽屋の奥の事務室へ戻ると、急いで靴をはきかえ、バッグと薄いコートを手に、そこを出た。
明りを消し、鍵《かぎ》をかけなくてはならない。走ることは苦にならなかった。いつも走っているようなものだ。
ロビーへ出て——弓子は戸惑った。
松原の姿が見えないのだ。
「松原さん。——松原さん!」
ロビーに、自分の声が反響する。
しかし、松原はどこにも見当らなかった。
雨が降りそうだ、と由《ゆ》利《り》は思った。
姉のマンションまで、あと数分。たぶん降られずにすむだろう。
音楽家は湿度に敏感である。雨が降って、客席に沢山、濡《ぬ》れた傘とかがあると、ホール全体の空気が湿って重くなる。
フォルテの音のぬけが悪くなるのだ。
もちろん、それに負けないくらいピアノを鳴らす腕を持っていなかったら、プロのピアニストとしてやってはいけない。
まだ、腕や指に軽い「しびれ」が残っている。久しぶりにピアノに触れたせいだ。
コピーをとったり、お茶を出したり、おつかいに出たり……。結構、雑用は雑用なりに忙しく駆け回っているのだが、あの厳しい練習をこなしたころのことを考えれば楽なものだ。
久々に、指先とペダルを踏む足に神経を集中して、ひどく疲れた。このしびれは、精神的なものだったかもしれない。
ただ……由利は怖かった。この腕のしびれを、決していやなものと思っていない自分に気付いていたから……。
「あれだ」
白いマンションが見えて来て、ホッと息をついた。
新しくはないが、防音設備のついた部屋があるというので、姉はここを買ったのだ。
十二階建だったか。姉の部屋は、確か五階だった。
一階のロビーで、郵便受を見る。
〈影崎・今井〉というプレート。今《いま》井《い》? 前は確か違ったはずだ。
ともかく、〈506〉の部屋には違いない。エレベーターで、五階へ上った。
五階で降りて廊下を歩いて行くと——何やら、住んでいる人たちらしい五、六人が、廊下に出て、ひそひそ話している。
姉の部屋の辺りだ。
「あの……」
と、声をかけると、ピタリと話が止《や》んだ。
「影崎の所へ行くんですけど」
「ここよ」
と、中年の主婦らしい女性が言った。「あんた、知り合い?」
「ええ。——どうかしたんですか」
由利の言葉に、集まった人たちは、顔を見合せている。
「あのね……」
と、一人が言った。「ひどいのよ、ここんとこ。毎晩ケンカでさ。もう、やかましくって……」
「はあ」
「怒鳴り合うわ、物は壊すわ……。夜中の二時三時にそれをやられちゃうから、かなわないの」
「そうですか」
「で、今夜はえらく早くから始まって」
「ケンカが、ですか」
「そうなの。で、さっきは『殺してやる!』『そっちこそ死んじまえ!』って……。穏やかでないのよ。それっきり静かになっちまったから、もし何かあったら、迷惑でしょ。一一〇番しようかどうしようかって、相談してたとこなの」
「そうですか。——ご迷惑かけて」
と、由利は言った。「でも、大丈夫だと思います。私、呼んでみますから。どうぞ、お帰りになって下さい」
「そう……。気を付けた方がいいわよ。まともじゃないからね、ここの人は」
「よく知ってます。大丈夫ですから」
と、くり返して、由利はやっと集まった人たちを部屋へ引き取らせたのだった。
「本当にもう……」
とため息をつくと、由利は玄関のチャイムを鳴らした。
もちろん、一度や二度で出て来るわけがない。根気良く押しつづけていると、
「誰? 水ぶっかけるわよ!」
と、インタホンからヒステリックな声が飛び出して来た。
「お姉さん! 私よ。開けて。急用なの」
と、急いで言うと、少し間があって、
「——由利?」
「そう」
「待ってて」
それきり五分以上は待たされただろう。
やっと玄関のロックが開く。
「——何しに来たの?」
ガウンを少々だらしなくはおった姉のそのみが顔を出す。「ともかく入って」
「うん」
由利は、玄関を上った。
埃《ほこり》っぽい匂《にお》いがした。ろくに掃除していないのだろう。
「コーヒーでも飲む?」
と、ボサボサの頭をかいている。
「それどころじゃないわ。出る仕度して」
「どこへ?」
「T病院。お母さん、倒れたの」
そのみは、ちょっとの間、ポカンとしていたが、
「——死んだの?」
「病院よ。まだ生きてる。——たぶんね」
「そう」
「行くでしょ?」
「一応、まずいか、行かないと」
と、そのみは肩を揺すった。
「誰だい?」
と、声がして、若そうなわりには太った男がトランクス一つの格好で出て来た。
「ちょっと! 何か着て来なさいよ」
と、そのみがにらむ。
由利は、その色白で腹の出た男を見ていたが——。
「今井さんって……。ああ! 音大のときの——」
「由利ちゃんか! 何だ、びっくりした」
びっくりしたのはこっち、と由利は思った。
今井は音楽大学でそのみの一年先輩だったヴァイオリニストである。——ソロで活動するには力不足で、時たま臨時編成のカルテットとかに名前を見ることはあったが……。
しかし、学生のころはこの半分くらいだったような気がする!
「お母さん、倒れたって?」
と、今井がバスローブをはおりながら、「大変じゃないか」
「仕度して出かけるわ。寝てていいわよ」
「うん……。明日、昼すぎに出かける」
「分ったわ」
そのみは、ろくに聞いてもいない。「由利、待ってて。シャワー浴びる」
「うん」
由利は、ソファに座り直した。どう少なくみても三十分はかかる。
アルコールの匂いもしたし、汗の匂いも。——今まで今井とベッドにいたのだろう。
影崎そのみは二十四歳。妹の由利は二十一である。もちろん、どちらも小さいころから、母に厳しくピアノを叩《たた》き込まれた。
そのみは、小さいころから、プライドが高く、負けん気で、一年中、誰かとケンカしていたものだ。気性の烈《はげ》しさをうかがわせる顔立ちは、美人と言って良かった。
由利はいつも、姉が太陽なら月の役回りで、影が薄い存在だった。人と争うことが嫌いで、ピアノは好きだったが、コンクールへ出ようといった気持にはなれない。
見たところも、由利は地味だし、格別、目立つところもなかった。
「——どこで倒れたの、お母さん」
と、今井がソファに座って、タバコに火を点《つ》けた。
「ステージで。〈展覧会の絵〉を弾いてたんですって」
「そうか……。お母さんらしいな。良くなるといいね」
「どうも」
と、由利は言って、「いつから姉と?」
「うん……。この半年ぐらいかな」
「姉といて、良くやせませんね」
由利の言葉に、今井は苦笑した。
「つい食べちまうんだ。——分ってる。ストレスなんだよ。どこかのオケにでも入ろうかとも思うが……。妙なプライドがある。といって、今さらコンクールに出て、って根気もないしね」
「姉といると、ずっとそんな風になっちゃいますよ」
と、由利は言った。
そうなのだ。——そのみはその気性の烈しさで、相手を疲れさせてしまうのである。
「うん……。君はもうピアノは……」
「きっぱり手を切りました」
と、由利は言った。
「え。もったいない。巧《うま》いのに」
「惜しまれるほどの腕じゃないわ」
と、由利は首を振った。「お姉さん、早かったじゃない」
そのみが、ジーパンをはいてやって来た。
「行こう」
と、促して、「出るとき、鍵かけるの、忘れないでよ」
と、今井に向って言った。