「タクシー拾う?」
と、外へ出て、そのみが言った。
「私は歩いて来たけど」
「じゃ、歩きながら、空車が来たら、拾うか」
「うん」
二人は夜の道を歩き出した。
何年ぶりだろう、姉妹、こうして歩くのは——。
「雨が降るね」
と、そのみが言ったので、由利は、ちょっとドキッとした。
「お母さん、何弾いてたの、倒れたとき」
と、そのみが訊《き》いた。
「〈展覧会の絵〉だって。どの辺だったか知らない」
そう言ってから、由利はふと気付いた。母がステージで倒れた、とは姉には言っていない。
「知ってたの?」
「え? 誰が?」
「お姉さん。母さんが——」
「今日、弾くのは知ってたよ。お節介に教えてくれる奴もいたしね」
「行ってたわけじゃないのね」
「まさか」
と、そのみは笑った。「あんただって、行かなかったんでしょ」
「忙しいの。——会社のお付合いでね、カラオケ」
「へえ、あんたが? 何歌うの?」
と、そのみが愉快そうに訊く。
「歌わないわよ。私は座ってるだけ」
「何だ。相変らずね」
「あ、タクシー……」
由利がパッと車道へ出て手を上げる。タクシーがスッと寄せて来て停《とま》った。
「近くてごめんなさい、T病院へ。母が倒れて」
「どうぞどうぞ。急ぎましょう」
気のいい運転手だった。
「やるね」
と、そのみが小声で言った。
タクシーが走り出す。
近くへ気持良く行ってもらうには、それなりのやり方がある。姉なら、文句を言われたら、すぐ怒って降りてしまうだろう。
少なくとも、その辺は、由利のOL生活も役に立っているようだ。
「——今井さんとは、どうなってるの? 近所の人から苦情聞かされた」
「みんな暇なのよ。放っときなさい」
「凄《すご》いケンカしてたって」
「レクリエーション」
と、そのみは涼しい顔をしている。「人のことは放っといてほしい」
「せっかく防音室があるんでしょ。ケンカはそこでやることにしたら?」
「そういう手があったか」
と、そのみが苦笑した。
タクシーは間もなく病院へ着いた。
「ありがとう。おつり、結構です」
「こりゃどうも。——お大事に」
「どうも」
由利が会釈する。タクシーを見送って、
「あんた愛想いいのね、あんなのに」
「気持ちいいでしょ、その方が」
「私は怒鳴りつけた後の方がスッとするけどね」
「こっちよ。夜間出入口があるから」
と、由利は姉を手招きして言った……。
「ごぶさたして」
と、太田が、そのみへ頭を下げる。
「また太った?」
「お姉さん!」
「ご苦労さま」
と、そのみは妹を無視して、「どう、母の具合?」
「心臓が——。何しろ持病で、ろくに医者にも診《み》せてない。これで、持ち直せば、却《かえ》っていい休養なんですがね」
太田は、ちょっと息をついて、「待って下さい、当直の医者を呼んで来ましょう」
廊下は暗く、陰気だった。
「いやね、こういうのって」
と、そのみは顔をしかめた。
「心臓……。かなり悪かったのね」
と、由利が少しうつむいて、「私のせいかも……」
「よしなさい。誰だって、親のマリオネットじゃないのよ。好きに生きていいはずじゃない」
そのみの強い口調。——由利は聞き慣れている。
以前なら、その姉の「強さ」が羨《うらやま》しかったろう。しかし、今はそれも一面では「強がり」にすぎないと分っている。
自分自身、どこかに後ろめたさを持っているから、こうして強く出るのである。
中年の医師が眠そうにやって来た。
「どうも」
と、二人に向って、「ピアニストの影崎さんですね。いや、びっくりした。何度か聞いてるんですよ」
「そうですか」
「心臓が前から?」
「ええ。——何度か入院を勧められたんですけど、当人がいやがって」
「分りますが、今度ばかりはね。——しばらく絶対安静です。当面、危いところは何とか脱しましたが」
「そうですか……」
ともかく、由利はホッと胸をなでおろした。
「検査をします。少し落ちついてからですが。その結果で、考えましょう」
「はい」
「もし、本人が退院したいとおっしゃっても、何とか説得して下さい。もちろん、私が話しますが、そちらも力を貸していただきたい」
「もちろんです」
と、由利は言った。「よろしくお願いします」
「入院の手続を。明日、九時から事務室が開きますから、そちらでお願いします」
「分りました……」
入院のために必要な物の一覧を書いた紙をもらって、由利は、何度も医師に礼を言った……。
「——ともかく良かった」
と、太田が言った。「しばらくは静養するしかないな」
「そんなお金、あるの?」
と、そのみが言った。
由利にも、その点は気になっていた。ともかく三年近く、リサイタルも開いていないのである。
「現実的に言うと、むずかしい状況です」
と、太田が言った。「もちろん、ある程度はうちが面倒をみます。しかし、無期限というわけにはいかない」
「私、何か働きますから」
と、由利が言った。
「しかし、今でも——」
「OLの仕事は大して辛《つら》くないんです。日曜日とか、パートで出られれば」
「あんたまで病気になるよ」
と、そのみが言った。
「そう。無理しても、長くは続きませんよ」
と、太田は肯《うなず》いて、それから少し間を置いて、
「——もっといい方法があります」
「え?」
「そのみさんに弾いていただくこと。こっちでお膳《ぜん》立《だ》てはします」
「いやよ」
と、そのみは顔を紅潮させた。「絶対にいや!」
「しかし——」
「待って下さい」
と、由利が太田を抑えて、「話し合ってみます。任せて下さい」
姉のことは、よく分っている。こんな風に強制されるのを、一番嫌う人である。
「何と言われても——」
と、そのみが言いかけたとき、
「まあ、そのみさん?」
と、足音がして、「由利さんも。——佐竹弓子です」
「どうも」
と、由利は頭を下げて、「Kホールだったんでしょ、母が倒れたの」
「ええ、びっくりしました」
と、弓子は言って、「容態は?」
太田の説明を聞いて、弓子も一安心したようだ。
「——うまく行けば、すばらしいリサイタルでしたわ」
と、弓子は言ってから、「あ……。そうだわ。あの方——松原さん、ここへみえませんでした?」
由利は、戸惑って、
「父が、ですか」
「会場へみえたので、ここを教えたんですけど」
「いえ……。見ていません」
「そうですか。でも——心配なさってる様子でした」
由利とそのみは、チラッと目を見交わした……。
太田と弓子が、中止になったリサイタルの後始末のことで話している間、由利とそのみは、自動販売機で、ジュースを買った。
「——お姉さん」
「私はいやよ」
と、そのみは言った。「あんた、やればいいじゃない」
「私じゃお金はとれないわ。お姉さんなら、お客が呼べる」
「もう昔の話よ、腕も落ちたし」
そんなことはない。由利は、そのみの腕や肩の肉のつき方で、充分に修練を重ねているのを見抜いていた。
「お願い。太田さんに任せて、引き受けてよ」
と、由利は言った。「お母さんはぜいたくだわ。きっと入院費用もかさむだろうし」
「自分でそうすると決めた結果でしょ」
「でも……見殺しにできないわ」
「私だって、そうは言ってない。でもね、今さら、そんな……」
「お父さんが来たって……。どういうつもりだったんだろ」
「さあね」
二人は、遠くを見つめるような目で、空を見ていた。
思い出していたのだ。父と母のいたころ、母だけと暮していたころ。
どっちも、姉妹にとっては、正に刑務所だった……。
「——そうそう」
と、太田がやって来て、「多《た》美《み》子《こ》さんがね、倒れたとき、一言言ったんだ。その意味が分るか、訊こうと思ってた」
「何と言ったんですか」
「うん……。一言。『インペリアル』と言ってね」
「インペリアル?」
由利とそのみが低い声で言った。
忘れたくて、やっと忘れかけていたものを思い出させられたような、そんな気がしていたのである……。