由《ゆ》利《り》は、母、影《かげ》崎《さき》多美子のマンションに来て、戸惑った。
玄関のドアが、開いている。——誰が入ったのだろう。
用心しながら、まさか空巣ということはないだろうが——玄関へ入ると、男ものの靴が脱いであり、室内も明りが点《つ》いていた。由利には分った。
「お父さん。——いるの?」
と、呼んでみる。
「ああ。——由利か」
居間から、父が顔を覗《のぞ》かせる。
「びっくりした。誰がいるのかと思って」
由利はドアを閉め、反射的にロックしていた。女一人でアパート住いをしていると、ちょっと下までゴミを出しに行くだけでも、しっかり鍵《かぎ》をかけるのが習慣になる。
母のマンションに来るのは久しぶりだ。
「——相変らずひどいもんだな」
と、父、松《まつ》原《ばら》紘《こう》治《じ》が居間のとり散らかしようを眺めている。
「だって、お母さん一人だし……」
と、由利は言った。「Kホールに行ったって?」
「うん」
松原は、少し間を置いて、「どうだ、母さんは」
と訊《き》いた。
「一応落ちついたみたい。小康状態っていうの?」
「そうか。——良かった」
松原が、目を閉じて、息を吐き出す。「いや——あの女の人……。佐《さ》竹《たけ》さんか。一緒に病院へ、と誘われたんだが……。怖くてやめたんだ」
「分るよ」
「ここにいれば、いずれにしろ、お前かそのみが戻って来ると思ってな」
「入院に必要な物、取りに来たの」
と、由利は言った。
「僕が来てたこと、母さんには言うなよ」
と、松原は言った。「心臓に悪いだろ、カッカくると。それとも——」
と、松原は苦笑して、「気にもしないかもしれないな」
由利は、父の老け方に、ショックを受けていた。髪がこんなに白く……。
「もう帰る」
と、松原は言って、息をついた。「お前……。今、何してるんだ」
「OLよ。電話、教えとくね」
由利はメモ用紙を見付けて(母の部屋では、それも容易でない)、勤め先とアパートの電話番号を書いて渡した。
「一人でいるのか。——そのみは?」
「恋人と。音楽家向きのマンションにいる」
「あいつは相変らずか」
と、松原は笑った。「どっちに似たのかな」
「お父さん——」
「由利。長くなるのか、入院」
松原の問いに、由利はちょっと肩をすくめた。
「たぶん……。検査してからでないと、はっきりしたことは……」
「そうか。大丈夫なのか、費用は」
「事務所の方で、当面はみてくれるわ。でも、それだけじゃ足らないでしょ。お母さん、ああいう風だから」
「そうだな」
松原は肯《うなず》いて、「グランドピアノつきの病室にしろ、と言い出さなきゃいいが」
二人は一緒に笑った。——父と笑ったのは何年ぶりだろう、と由利は思った。
「何かあったら、会社へ電話をくれ」
松原は名刺を由利に渡した。
「仕事……大変?」
「まあな。しかし、そんなことも言っておられんよ」
父が玄関へ出て行く。
靴をはくのを見ながら、
「彼女、元気?」
と、訊く。
「ああ。——近所の子にピアノを教えているよ」
「赤ちゃん——何てったっけ」
「早《さ》苗《なえ》だ。もうすぐ三つだ。赤ちゃんでもないさ」
父は確か四十九だ。三歳の娘。三十になるかならずの妻は、ずいぶんと若い。
「頑張んなきゃね」
「ああ」
松原が、ホッとしたような笑みを浮かべて、
「じゃあ……」
と、ちょっと手を上げて見せ、出て行こうとした。
「鍵あけて」
「そうだったな」
と、松原は笑った……。
一人になると、由利は、あまり時間をむだにしなかった。
何といっても、由利はOLで、明日も仕事があるのだ。それに、入院手続で、どうしても遅刻して行かなくてはならない。その分、一日の仕事はきつくなるのである。
久しぶりにこのマンションへ来た感慨にふける余裕もなく、由利は、旅行用のボストンバッグに、母の着がえや寝衣《ねまき》を詰めた。
「——これでいい、と」
病院でもらった紙を取り出して確認すると、由利は肯いて、口に出して言った。
もう、行こう。一《いつ》旦《たん》病院へ行って、容態次第でそばに一晩中いるか、それともアパートへ帰るか、決めることになる。
居間を出ようと明りのスイッチへ手を伸したとき、電話が鳴るのが聞こえた。——どこ?
あわてて捜して、やっと戸棚の中にしまい込んだ電話を見付ける。
「——はい。もしもし?」
「多美子、君か」
男の声が飛び出して来て、由利は面食らった。
「あの……どなたですか」
と由利が言うと、今度は向うがびっくりした様子で、
「影崎さんのお宅では?」
「そうですけど、母は入院しています」
少し間があった。
「娘さん?」
「そうです。どなた様ですか」
向うは答えなかった。プツッと、切れてしまう。由利はムッとして、
「何よ!」
と文句を言うと、ちょっと乱暴に受話器を戻してやったのだった……。
由利は、アパートの階段をそっと上った。
足音を忍ばせて、まるで空巣か何かのように。——何しろもう午前二時を回っているのだ。
ドタドタ足音でもたてようものなら、たちまちアパート中から苦情が殺到するだろう。
由利は、それでも体重をゼロにはできないので、古びた階段や、廊下の床板がギイギイ音をたてる度に、ヒヤリとした。
やっと自分の部屋へ辿《たど》り着く。自分の部屋といっても——六畳一間と台所、そして小さなお風呂……。
部屋へ入り、鍵をかけ、チェーンをかけて、やっと息をつく。
上って畳の上にペタッと座り込むと、急に疲れが出て来た。
色んなことがあったし、それに、母のことで、やはり神経が参っているようだ。一応病状が安定しているというので、一旦帰って来た。
明日の朝、銀行へ行って、少しお金もおろして来なくては、そして病院で手続。
早くすむといいけれど。——会社へ行くのは何時ごろになるだろう?
遅刻や早退に、やかましい会社である。中小企業の常で、
「一番安いのは人間」
というのが、上の方の基本的な考え方である。
こうしていても始まらない。今からお風呂へ入るわけにはいかない——音がうるさいからだ——ので、せめてサッとシャワーだけでも浴びよう。そうでもしないと、眠れそうもない……。
立ち上ったところへ電話が鳴り出し、飛び上るほどびっくりした。
こんな時間に——。母の容態でも急変したのだろうか?
急いで出ると、
「もしもし」
と、意外な声がした。
「工《く》藤《どう》さん。どうしたの、こんな時間に?」
「いや、ごめん」
同じ会社の営業にいる工藤県《けん》一《いち》は、早口に言った。「今、大阪でね。ちょっと課の奴に電話したら、君、お母さんが倒れたって聞いて……」
「それで大阪から、かけて来たの?」
「うん。どうなんだい?」
「今のとこ、大丈夫。心臓がもともと悪かったの。当分入院だと思うけど」
「そうか……。起しちゃったかな」
「いいの。今、帰ったところ」
由利も、少し気持が落ちついて来た。
今、必要なのはこんな心を許せる会話なのかもしれない。
「じゃ、もう寝なきゃ。悪かったね」
と、工藤が気をつかって切ろうとするのを、
「待って」
と、止めた由利は、「あの——出張、どうだったの?」
「仕事? うん、まあ……どうってことはないよ。いつもの調子。少し飲んで、十二時ごろ、ホテルに戻って来た」
「そう。——体、こわさないで」
何か他に話すことがあるはずだ。そう思うのだが、何も出て来ない。
「いつ、帰るんだっけ」
「明日。夕方は会社へ顔を出すよ」
と、工藤は言った。
「そう。じゃあ……明日会えるね」
当り前のことを言って——でも、少なくとも、工藤のとりたてて「いい声」ともいえない声の響きを聞いているのが、快い。
「ともかく、無理するなよ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ……」
「じゃ……おやすみなさい」
向うが切るまで、待っていた。——たっぷり十秒近くもあったろうか。
プツッと音がして、電話が口をつぐむ。
由利は、胸の辺りに重くのしかかっていたものが、少しとれたようで、大きく息をついた……。
手早くシャワーを浴びて(できるだけ音をたてないように)、布団へ潜り込む。
あまり干す暇もないので、冷たい布団だけれど、少なくともそこは自分だけの「小さな世界」である。
——工藤県一とは、一応の付合いはあるにせよ、「恋人」という仲ではなかった。工藤は少々単純だが気のいい青年で、二十五歳。由利より四つも年上だが、由利の方が何となく「姉さん」のようだ。
不器用で、およそ女の子にもてようと努力するタイプではないのが、むしろ爽《さわ》やかである。——恋しているというわけでもなく、由利としては「気をつかわなくてすむ」相手、というところだった。
目を閉じると、疲れのせいか、じきに眠気がさして来る。
チラチラと視界に白い光の破片が踊って……それは父の顔になった。
老け込んで、疲れた父の顔。——三つの子供が、成人したとき、一体いくつになっているのか。
しかし、そんな先のことなど、今の父には考えていられまい。母と別れ、今の妻と再婚したときも、未来など考えている余裕はなかったはずだ。
ふと、由利は、父の家へ行ってみたいと思った。——意地悪でなく、父が、三つの子の相手をしているところを、見てやりたかったのだ。
和《わ》田《だ》宏《ひろ》美《み》。——それが父の今の妻である。
かつて、母の弟子だった、若手のピアニスト。才能の豊かな人で、母も可《か》愛《わい》がっていた。
あの気難しい母が——めったに弟子をとらず、大体、弟子の方で逃げ出してしまうのだったが——ただ一人、家族同然にしていた……。それが、裏目に出た。
いつしか、和田宏美と父は愛し合うようになっていたのだ。
もういい。——すんだことだ。
忘れよう。忘れよう。
由利は力一杯目をつぶって、眠りが訪れるのを待った。
由利が眠ったのは、一時間近くもたってからのことだった……。