「遅くなりまして」
由《ゆ》利《り》は課長の三《み》浦《うら》の机の前へ行って頭を下げた。
「ああ」
三浦は、チラッと見上げただけで、それきり何も言わない。由利も別に何か言ってほしかったわけではなく、一礼して席へ戻って行った。
銀行へ寄り、入院手続をして、担当の医師に話を聞くので、一時間以上待たされて……。
結局、出社は午後になってしまった。
寝不足で少し頭痛がする。——今日も帰りに病院へ寄らなくてはならない。姉が行くとはとても期待できないからである。
たぶん、マネージャーの太《おお》田《た》が寄ってはくれるだろうが、アイドルタレントのマネージャーとは違って、クラシックの演奏家の場合、一人のマネージャーが何人もを受け持っているから、もちろん太田も、影崎多美子一人に係《かかわ》り合っているわけにいかないのである。
ともかく、机の上に積み上げられた仕事を片付け始めると、
「はい、お茶」
と、同じ年齢の後輩、沢《さわ》田《だ》千《ち》加《か》子《こ》が由利の茶《ちや》碗《わん》を置いてくれる。
「ありがとう」
由利はホッとして言った。
「お母さん、倒れたんですって?」
「うん。もともとね、心臓が……」
沢田千加子は、明るく、屈託のない二十一歳である。——何でも重役の親《しん》戚《せき》とかで、もちろんコネの入社だが、気持のいい子だった。
千加子はチラッと三浦の方へ目をやって、
「何だか、三浦課長、ご機嫌良くないのよね」
と、低い声で言った。
「そう?」
「ねえ、私、昨日は休みとってて、知らなかったんだけどさ、凄《すご》かったんだって、由利?」
「何が?」
由利は当惑していた。
「ピアノ。凄い腕前だった、って。その話でもちきり」
「ああ……」
すっかり忘れてしまっていた。「そんなのオーバーよ」
「でも、呆《あつ》気《け》にとられたって。私、悔しかったなあ、聞けなくて」
由利はちょっと笑って、
「お聞かせするほどのもんじゃないわ」
と言った。
「今度、聞かせてよね。じゃ」
沢田千加子がサンダルをカタカタいわせて行ってしまうと、由利は改めて、少し気が重くなった。
ゆうべのカラオケバーでのピアノ……。
思い出すのも辛《つら》い。確かに、お昼休みの話題にはなったかもしれないが、しかし、そんなものは三日と続くまい。早く忘れてしまってほしかった。
「——松原」
と、三浦課長が呼んだ。
「はい」
と、立ち上ると、三浦は席を立って来て、「ちょっと会議室へ来い」
「はい……」
何だろう。——課長に一人だけ呼び出されるというのは、あまり嬉《うれ》しいことじゃないのである……。
空いた会議室に入ると、
「座れ」
と、三浦はぶっきらぼうに言った。
「はい」
椅《い》子《す》をガタつかせて引き、腰をおろす。三浦は立ったままだった。
いつも、酔うとひどく絡む課長である。アルコールのだめな由利にも、無理やり飲ませる。飲むまでそばを離れないのだ。
同年代の中では出世が遅れ、ポストからいっても、あまり先の見込みはない。屈折したものを抱えているのは、由利にも分るのだが、それを下へぶつけるやり方は、好きになれない。
「ゆうべのことだ」
と、三浦は言った。「言わなくても分ってるだろ」
由利は、戸惑った。
「何のことでしょうか」
「決ってるだろ! 歌えと言われて断っといて。お前は何で月給をもらってるか、分ってるのか?」
三浦は、苛《いら》々《いら》と歩き回っていた。
「すみません。でも、歌えないんです。本当に——」
「ピアノは弾けてもか」
と、三浦は顔をしかめた。「自分はあんな低俗なことはやれません、ってわけか」
由利は絶句した。とても大人の言うこととは思えない。
しかし——逆らってもむだなことは、よく分っている。
「そんなつもりじゃありませんでした。すみません」
と、頭を下げる。
「俺《おれ》がな、文句を言われるんだ。どういう教育をしてるんだ、ってな」
三浦は、机の端に腰をかけて、「あの部長から、呼び出されてる。行って来なきゃならん」
「そうですか」
「そうですか、だと? お前のわがままの尻ぬぐいをするんだぞ、こっちは!」
三浦の怒鳴り声は、廊下にもたぶん聞こえているだろう。
由利は顔を伏せた。
「いいか。今度、あんな真《ま》似《ね》をしたら、許さんからな!」
吐き捨てるように言って、三浦は出て行った。——由利は、息を吐いて、机に肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆った。
——何やってるの! この怠け者! またさぼってたのね! 私がコンサートツアーに出てる間、何時間弾いたの? 五時間? 六時間? 素人芸じゃないの、それじゃ! そんなものでピアニストと呼べないわよ!
耳の奥で今も反響するあの声。
あれに比べれば……。そう、三浦に怒鳴られるくらいが何だろう。
ドアがそっと開いた。
「由利……」
「——千加子」
沢田千加子が、そっと顔を覗かせている。
「大丈夫?」
「うん……。聞こえた?」
と、由利は微《ほほ》笑《え》んだ。
「会社中に轟《とどろ》きわたった」
「オーバーね」
と、由利は笑った。
「何なの、一体?」
「何でもないのよ」
と、由利は立ち上った。
「もうちょっと待ってる方がいいわ」
と、千加子が言った。「今、三浦課長、出かけるとこだから」
千加子が入って来て、ドアを閉める。「ね、由利。——新聞で見たけど、ピアニストの影崎多美子って人、演奏中に倒れたって。あれ、もしかして……」
由利は、ちょっとためらったが、
「ええ。母なの」
と言った。
「やっぱりね! 何となく違うと思ってた」
千加子は、椅子にかけると、「影崎って、ステージネーム?」
「ううん。私が、勝手に父の方の姓を名のってるの。父と母、離婚してるから」
「そうだったのか……。ピアノ、うまいわけだね」
と、千加子は言った。「私もピアノ、習ってたのよ。——ハイドンのソナタとか弾くとこまで行って、挫《ざ》折《せつ》したけど」
「そう」
「一度、聞いたことがあるの。あなたのお母さんの演奏。——小さいころで、よく憶《おぼ》えてないけど」
由利は、ちょっと肩をすくめて、
「私も落ちこぼれ。——母に年中怒鳴られてたの」
「でも……。大変ね。重いんでしょ、病気」
「病気もだけど——何しろ、芸術家はわがままで」
と、由利は苦笑した。「もう仕事しなきゃ。残業できないの。母の所へ寄らなきゃいけないからね」
「帰っちゃえばいいのよ。三浦課長の言うことなんか、気にすることない」
「そうもいかないわ」
そう。——母の入院が長びけば、ここの給料だけでは足らなくなる。
姉が弾く気になってくれれば……。
由利は、席に戻ると、仕事を始めた。
オフィス内の目が、こっちをチラチラと見ているのが感じられて、しかし、あえてそれは無視している。
三浦の席は空いていた。——あの得意先の「部長」に呼ばれて出かけて行ったのだ。
何を言われて帰って来るか。それ次第では、また怒鳴られる覚悟をしておいた方が良さそうだ……。
佐竹弓《ゆみ》子《こ》は、ホールへ入って、ホッと息をついた。
ここは「自分の城」だ。この中では、落ちついていられる。音楽のことだけ、考えていればいいのだ。
赤字のことも、支配人の叱《こ》言《ごと》も忘れて。
しかし——いつまでもここが「自分の城」でいられるかどうか。
弓子も少々自信を失いつつあった。
ポーン、ポーン、とピアノを叩《たた》く音。
調律師が、今夜のコンサートに備えて調律している。
「どうも」
と、弓子が客席の間をやって来るのを見て、調律師が顔を上げた。
「ご苦労様」
と、弓子は言った。
「大変でしたね、ゆうべは」
「ええ。今朝もそれで大騒ぎ」
と、弓子は笑ってステージに上った。「でも、今夜もコンサートはあるのよ」
「そうですな。影崎さん、良かったらしいじゃないですか」
「凄かったのよ。あのまま行ってればね……」
と、弓子はため息をつく。「ピアニストも人間だから」
「影崎さんですらね」
と、調律師は笑った。「——今夜はヴァイオリンソナタでしたね」
「そう。ソロはないわ」
「じゃ、そのようにやっときます」
ピアノソロの場合と、ヴァイオリンに合せる場合、調律は微妙に違う。
「——いいピアノだ。当りですよ」
と、調律師が言った。
ピアノも手作り。一台一台、個性を持っている。
「ねえ」
と、弓子が言った。「〈インペリアル〉、知ってるでしょ」
「ベーゼンドルファーの、あの一番でかい奴でしょ?」
「そう。調律したこと、ある?」
「いや、私の受持の人にはね、あれを弾く人、いないんです。どうしてです?」
「いいの」
弓子は首を振った。
〈インペリアル〉は、通常のコンサートグランドピアノより一オクターブ下までのびた、巨大なピアノだ。
あのとき、影崎多美子が言った、
「インペリアル」
とは、その意味なのだろうか?
それとも、何か別のことか。——弓子の知っている限り、彼女が〈インペリアル〉を使ったことはない。
コツコツと靴音がした。
「どなた?」
と、声をかけて、「——まあ! そのみさん!」
弓子はステージからスカートを翻して飛び下りた。
そのみはジーパン姿で、のんびりとやって来ると、
「母が倒れた所を見に来たの」
と、言った。「ごめんなさい。続けて」
「弾きますか」
と、調律師が言った。「ヴァイオリンと合せるようにしてあるけど」
「いえ、結構」
と、そのみは首を振った。
「お母様の具合——」
「知らないわ。妹任せ」
そのみはステージに上った。「このホールに来るの、久しぶり」
ポンと手を打って、反響を聞くと、「良くなったみたいね」
「おかげさまで」
弓子はそのみを追って、またステージに上った。「——そのみさん。ぜひ、ここの自主企画で弾いて下さいな」
即座にはねつけられるかと思っていた弓子は、そのみが返事をしないので、却《かえ》ってびっくりした。
そのみは、ゆっくりとステージの上を歩き回った。——まるで、陸上の選手がトラックを点検している、という様子だ。
弓子は、あえて押さなかった。そのみに、やる気があることは、分ったからだ。
「でもね……」
と、そのみは言った。「いつも私は母と比べられるわ。あんな化物と一緒にされたくないもの」
「あなたはあなたでしょう」
「気楽に言わないで」
と、そのみは苦笑した。「弾くのはこっちよ」
そのみは不安なのだ。
「母親には遠く及ばない」
と言われることが怖い。
弓《ゆみ》子《こ》には意外なことだった。しかし、あんな親を持ったことが、同じピアニストとして、どんなに辛いか……。弓子には想像することしかできない。
「終りました」
と調律師が言った。
「——弾いてもいい?」
と、そのみが言った。
「どうぞ。狂ったら、また直しますよ」
「じゃ……」
そのみはピアノに向った。——一瞬の沈黙。
意外に、そう構えることもなく、そのみの手は鍵《けん》盤《ばん》を捉《とら》えていた。