「だめ……。ねえ……」
由利は、工藤の手を押し戻した。「約束でしょ」
工藤県一が、ため息をついて、そっぽを向く。——気まずい沈黙。
こうなるだろうという予感はあった。
工藤は決して由利に無理を言っているわけではない。——一緒に食事をして、二人で夜の道を歩いて……。
通りすがりのホテルへ、押し込まれるように入ってしまった。道でもみ合うのもみっともないと思ったのだが、一《いつ》旦《たん》中へ入ったからには、由利がOKしたと工藤に受け取られても、仕方のないところがある。
「ごめんなさい」
と、由利はベッドに腰をおろしたまま、言った。
「そんな気分じゃないの。——本当はここへ入る前にそう言うべきだったけど、でも、あなたが——」
「分ってる」
工藤は、ドサッと仰《あお》向《む》けに寝て、「だめだろうと思ってたんだ」
「そう?」
「だめでもともと」
二人は顔を見合せ、一緒に笑い出してしまった。
「——じゃ、せっかくだ、すぐ出るのも馬鹿らしいだろ」
「私、母の病院へ寄りたいの」
「そう。じゃ、送るよ」
「ごめんね、むだづかいさせて」
「いいさ。将来のための投資」
工藤がさっぱりとした表情なので、由利はホッとした。
「しかし、びっくりしたなあ。それで三浦課長、ご機嫌斜めだったのか」
「斜め、なんてもんじゃないわ」
「来週から、もう?」
「ええ。——でも、会えるわよ。却《かえ》って時間が作れるかもしれない」
どうだろうか。由利にも見当がつかない。
「どこへ連絡すりゃいいんだい?」
「そうね。私のアパートか、姉のマンション。電話番号、メモしとくわ、姉の所」
「ありがとう。——そのCFって、いつごろ出来るんだい?」
「まだ分らない。あんまり期待しないでね。結局、没になるなんてこと、充分あり得るんだから」
由利は、いつもこうなのだ。——実際に出来上って、TVでの放映日が決っても、まだ「もしかしたら……」と言っているだろう。そのみとは違う。「プロ意識」に欠けているのである。
「でも、うまく行くといいよね」
と、工藤は言った。「ねえ……。僕もちょっと話があったんだ」
「何?」
少しためらってから工藤は、
「友だちの会社から誘われてる。今の所にいても、あんまり先行き、明るくないしね。君もいないとなると……」
「何のお仕事?」
「営業は営業さ。それには向いてるからね、僕は。ただ……」
「迷ってるわけね」
「しばらく九州へ行くことになりそうだ」
由利も、一瞬言葉に詰った。
「しばらくって……。どのくらい?」
「たぶん、一年か二年。向うで落ちついたら、君を連れに戻ろうかと思ってる」
由利は、しばらく無言だった。——これは工藤からのプロポーズだろう。
しかし、突然だから、というのではなく、時期が悪い。母の入院も、この先どれくらいつづくか分らないし、姉のリサイタルも控えている。
それに、仕事を変って、どの程度忙しいものやら、あるいは暇ができるのか、由利にも全く分らないのである。
「今、返事してくれなくてもいいんだよ」
と、工藤は言った。
「ごめんなさい。少し時間がほしい」
と、由利は言った。「——お詫《わ》びのしるし」
由利は顔を近づけて、そっと工藤にキスしたのだった。
病院の〈夜間受付〉に、時間外の面会というので、何度も謝って、通してもらう。
あまり足音をたてないように……。もう病院は寝静まっている。
母の病室のドアをそっと開ける。——母は少し落ちついた状態で、二人部屋に入っていた。とても個室では払い切れない。
もう一人の患者が目ざとく由利を見た。
「すみません、いつも遅くに」
と、小声で言って、由利は母のベッドへ目をやったが——。
ベッドは空だった。どこかへ行っているというのではない。すっかり片付けられてしまっている。
由利の顔から血の気がひいた。——まさか!
「大丈夫よ」
と、向い側のベッドの患者が言った。「病室、移ったの」
由利は、胸をなで下ろした。
「すみません、知らなくて」
と、由利は礼を言った。
まだ心臓が高鳴っている。——びっくりしたわ、本当に!
「ついさっきよ」
と、その患者が言った。
「こんな夜中にですか?」
「ええ。何だかもめてたけどね」
六十過ぎのその女性は、面白がっているような口調だった。
もめて?——母が、もしかして、意識をとり戻したのだろうか。
「当直のお医者さんに訊いてごらんなさい」
「そうします。お騒がせして」
「いいえ。——お母様、ピアニストなのね」
「はい」
「眠ってらしても、指が動いてるの。何してるのかしら、って見てたんだけど。ピアニストって聞いて、ああ、と思ったわ。お元気になるといいわね」
「ありがとうございます」
その女性の親切が身にしみた。
病室を出て、看護婦に訊くと、
「ああ、影崎さんね。一階上です。特別室へ移ったの」
「特別室?」
「ええ。高いけど、個室で、電話もついてるわ。——待ってね」
特別室? しかし、そんな部屋へ、なぜ移ったのだろう。
「〈1206〉だわ」
と、調べて来てくれる。
「どうも……」
わけが分らなかった。ともかくその〈1206〉へ行ってみるしかない。
階段を上って行くと、そこは廊下も広く、静かで、どことなくマンションの中といった雰囲気を漂わせたフロアだった。
一日何万円もとられるだろう。——誰が母をこんな所へ移したのか。
〈1206〉のドアのわきに、確かに〈影崎多美子〉の名札が入っている。
中に明りが点《とも》っていた。——ドアを開けようとして、由利はためらった。
すると、いきなりドアが中から開いたのである。びっくりして立ちすくんでいると、
「——どなた?」
と、その男が言った。
がっしりした体格、大柄で、由利を見下ろすような長身だが、髪が白く、年齢はもう五十を超えていよう。背広にネクタイ。どう見ても音楽家ではない。
「あの……どちら様ですか」
と、由利は訊き返して、「娘ですが、影崎の——」
「ああ」
と、よく通る声で、男は肯いた。「電話に出たのは君か」
そう。この声だ。由利も、すぐに思い出していた。耳がいいせいか、人の声も憶えている。
「次女の由利です」
「私は西《にし》尾《お》国《くに》治《はる》。君のことは色々聞いてる。お母さんから」
「あの——」
「今は眠っている。興奮させない方がいいだろう」
由利は、個室のベッドで静かに眠っている母を見やって、少しホッとした。いずれにしても、悪くはなっていないようだ。
西尾という男は、由利を促して、休憩所へ連れて行った。
「——ずっと海外へ行っていてね」
と、西尾はソファに座ると、「見舞にも来られなかった。やっと今夜やって来たんだが……。君のお母さんはユニークな人だ。他の人と同室じゃ、とてもやっていけない。それで特別室へ移してもらったんだよ」
話し方に、妙に高飛車なところはなかった。しかし、由利としてはまずこの男が何者か、知る必要がある。
「西尾さん、とおっしゃるんですか」
と、由利は言った。「失礼ですけど、母とはどういう……」
西尾は、ちょっと由利を見つめていたが、「聞いたことがない? 全然?——そうか。じゃ、面食らったろうね」
と、微笑んだ。
「ともかく——母のことを助けて下さってるんですね」
たぶん、音楽家には珍しくない、「パトロン」という存在なのだろう。母はそういうものに頼るのをいやがる人間だが、西尾を気に入ったのかもしれない。
「助ける、というかね……。まあ当然のことだろう。夫が妻を助けるのはね」
由利は、耳を疑った。
「——夫?」
「そうだよ。僕と多美子は二か月ほど前に結婚したばかりだ」
と、西尾国治は言った。
「あなた」
と、宏美は言った。「ごめんなさい」
松原紘《こう》治《じ》は、新聞を見たまま、
「もういいさ」
と、言った。
「でも……」
「君も、ほとんど外へ出てないからな」
と、松原はゆっくり新聞をたたんだ。「少しは出るようにした方がいい。——そうだろ?」
宏美は、黙って、夫のそばに座った。
「——今度から、僕が早苗をみるよ。その方がいい」
穏やかな言い方だが、松原がすっかり機嫌を直しているわけでないことは、宏美にもよく分っていた。
「——早苗、寝てるか」
「ええ」
宏美はそう答えたが、「もう一回、見てくるわ」
と、奥へ入って行った。
早苗は、よく眠っている。そっとかがみ込んで、布団を直しながら、宏美の胸は痛んだ……。
約束の四時を、はるかに過ぎて、結局宏美が家へ帰って来たのは八時近くになってしまった。
預かってくれていたご近所で、早苗は泣き叫んでいて、そこの夫婦を閉口させていたのである。もちろん宏美は平謝りに謝って、早苗を連れ帰ったが、昼寝をしそびれた早苗のご機嫌は一向に直らなかった。
そして、夫が帰ってから、早苗を預かってくれていた家のご主人から電話があり、もう二度と預からない、と言われてしまった。宏美が夫に隠そうとしていたのも、良くなかったのだ。
松原は珍しく怒って、宏美を怒鳴りつけた……。
もちろん、自分が悪かったのだということは、宏美にも分っている。しかし、夫に詫びながら、宏美の内にはそれに抵抗する「何か」があった。
——分らないのだ。この気持は。あのときの、あの燃え立つような気持は。
リハーサルが、白熱し、時のたつのを宏美に忘れさせてしまった。今井以外は全く見知らぬメンバーだったのに、「ドヴォルザーク」を軸に、一瞬の内に同志になった。
テンポ、ダイナミック、休符のとり方……。
一つ一つについて、激しいやりとりがあった。おそらくはた目にはほとんど「喧《けん》嘩《か》」にしか見えなかっただろう。
しかし、宏美の中には久々に炎が燃え上ったのだ。もう消えて行くだけかと思っていた、小さなくすぶりが、まるで二十代の初めのころのように、烈《はげ》しく新しい炎をふき上げて来たのだ。
「もう二度と、こんなことしないから」
と、宏美は夫の肩にそっと頭をもたせかけた。
「ごめんなさい」
この人には分らない。——いくら説明しても、分ってくれるはずがない。
「ここまででやめて、後はこの次にしよう」
と言えるものではないのだ。音楽というものは。
今、燃え立ったら、その火がとことん燃え広がるまで、止《や》めてはならない。それが音楽というものなのである。
しかし——分らないだろう。この人には。
たぶん、影崎多美子なら、あの先生なら分ってくれる。でも、この人には無理だ。
分る人には、話す必要などない。そして分らない人には、いくら話しても分りはしないのである……。
今井も、時間に気付いてあわてていた。
「ご主人に電話しようか」
とも言ってくれたが、断った。
もちろん、あんなことになっているとは、思ってもいなかったのだ。
松原は、宏美の肩に腕を回した。
「——もういい。怒っちゃいない」
「そう?」
「ああ。ただ……」
と、松原は少しためらってから、言った。「今日、早苗が泣いてるのを見て、後で事情を聞いて……。思い出したんだ。多美子がよく娘たちを放り出して、練習練習に明けくれていたことをね。娘たちは可《か》哀《わい》そうだった。あんな親を持ったことを恨んだとしても責められない」
松原は淡々とした調子で、続けた。
「なあ。——うちだけはあんな風にしたくない。君には、多美子のようになってほしくないんだ」
宏美は、胸をつかれる思いだった。
夫の言葉は、正しい。あの「家庭」とも言えない家庭から、松原は逃げ出したのだし、宏美も、松原に同情したのがきっかけで、愛し合うようになった。
その宏美が、多美子と同じことをくり返したら、松原としては、やり切れないだろう。
「心配しないで」
と、宏美は言った。「私、影崎先生のようにはならないし、なれっこないわ。今日はたまたま……。久しぶりで、時間の感覚が狂ったの。それだけよ」
「分った」
松原は、軽く宏美の肩を叩いて、「もう忘れよう」
と、笑顔になった。
「お風呂、入るでしょ? 熱くしてくる」
宏美はホッとして夫から離れると、浴室へ行った。
——もう二度としない、か。
次のリハーサルは? どうなるだろうか。まだまだ、練り上げなくてはならない点はいくらもある。
そして、宏美は、この仕事をやめる、とは頭から考えなくなっていたのだ……。