「遅くなって……」
と、由《ゆ》利《り》はちょっと頭を下げた。
「いやいや。——さあ、かけて」
西《にし》尾《お》国《くに》治《はる》は微《ほほ》笑《え》んでいた。落ちついた、穏やかな笑顔だ。
「仕事が長引いてしまって」
と、由利は言った。
「先に一杯やってるよ」
西尾が小さなグラスを取り上げて見せる。
「何か飲むかね」
「アルコールはだめなんです。ジュースでも……」
ビルの地下に入ったレストラン。もちろん、由利はフランス料理をこんな店で食べる機会など、めったにない。
「——姉さんは、そのみさんと言ったね」
と、西尾はオーダーをすませてから、言った。
「はい。三つ違いで、今、二十四です」
と、由利は言った。「姉は、その世界の人には知られたピアニストです。私とは違って、才能のある人ですから」
「聞いてみたいね。それに一度ゆっくり話をしておきたい。ともかく、私は君らの父親ということになるわけだ」
「勝手を言って、すみません」
と、由利は言った。「姉は久しぶりのリサイタルを控えています。あと二か月ありません。本番当日に向って、ぴりぴりしてくるのは目に見えていますから。——今、あなたのことを話さない方がいいと思ったんです」
「よく分った」
と、西尾は肯《うなず》いた。「君は若いが、しっかりした娘さんだな。君がいいと思った時に、姉さんを紹介してくれ」
「はい」
由利もホッとした。
西尾国治は、いかにも見た通りの紳士である。白髪はよく手入れされ、「老けこんだ」というより、むしろ「渋い気品」さえ感じさせる。
食事を始めるまで、西尾は由利の身辺のことを、あれこれ訊《き》いた。ともかく、由利の緊張をほぐすのが第一、と思ったのかもしれない。
由利としては、さほど固くなっているわけではなかったが、西尾にしてみれば、「自分の娘」との出会いなのだ。気をつかいすぎるほどつかって当然かもしれない。
TVのCFに出ることになったいきさつを話すと、西尾は面白がった。
「キタキツネ? それはいい。ぜひ見たいもんだね」
「どうせなら、キタキツネにピアノを弾かせればいいんですよね」
と言って、由利は笑った。「そう提案してみようかしら」
「君のイメージにはぴったりじゃないのかな。うまくいくといい」
「絶対に自分じゃ見ません」
由利はスープを飲みながら、「——西尾さん」
もういいだろう。準備はできた。
「母とはどんなお知り合いなんですか」
「来たね」
と、西尾は少しいたずらっ子のような表情になって由利を見た。
「母は何も話してくれませんでした。びっくりしています、正直言って」
「そうだろうね」
と、肯く。「私もだ。いや、こういうと、妙な風に聞こえるかもしれないが、本当なんだ」
西尾はスープ皿を空にすると、ナプキンで口を軽く押えた。
「実は、君のお母さんに初めて会ったのはもう大分前だ。七、八年になるかな」
「そんなに?」
「ウィーンで、初めて会った。私はムジークフェラインの隣にあるホテル・インペリアルに泊っていて、君のお母さんもそうだった」
インペリアル……。またその言葉に出会った。
「インペリアルのロビーで、私は初めて彼女に声をかけたんだ。夕食は一人でね。何しろ向うじゃ、一人で食事というのは格好がつかない」
「母も一人だったんですね」
「そう。——前の晩、コンチェルトハウスで、彼女はベートーヴェンの一番のコンチェルトを弾いていた。私ももちろん聞いていたから、ロビーに一人で座っている彼女のことはすぐに分った。ゆうべの演奏の話になり、大いに賞《ほ》めると、とても嬉《うれ》しがってくれた。そして食事を付合ってもらったんだ」
音楽家は(誰でもそうだろうが)、賞め言葉に弱い。——一+《プラス》一で答えのはっきり出るものはまだいい。演奏などというものは、たとえ不当なけなされ方をしたとしても、明快に反論できないのだ。
特に、ウィーンで日本人がモーツァルトやシューベルトを弾くのは、鬼《き》門《もん》とさえされていて、母、多美子は堂々とそれをやってのけた。聴衆は大《だい》喝《かつ》采《さい》だが、批評は悲惨なものだった。
そんな中で、見知らぬ同国人とはいえ、手ばなしで絶讃してくれたら、嬉しいに決っている。
「そのインペリアルでの出会いから、日本へ戻ってのお付合いになるんですか」
と、由利は訊いた。
「いや……日本で会ったのは、つい何か月か前のことだ。そう……。四か月くらいのものかな」
「母はずっと弾いていませんでした」
「そう。たびたび弾いててくれれば、こっちも消息の調べようがあったがね。結局、Sホールのロビーで、彼女を見かけた。そして話しかけると、向うも私のことをすぐ思い出してくれて……」
「ドラマチックでした?」
西尾は笑って、
「二人で立ってアイスクリームを食べたよ」
と、言った。
そこへ、ウェイターがコードレス電話を持ってくると、
「松《まつ》原《ばら》様、佐《さ》田《だ》様からお電話が」
「すみません」
佐田? あの〈コーディネーター〉の佐田だろうか?
ここへ来ることを、一応佐田のオフィスへ連絡してあった。何か電話が入るかもしれない、と言われていたからである。しかし、まさか食事中にかけてくるとは思わなかった。
「ちょっと失礼します」
と、西尾へ断って、「——もしもし」
そばのテーブルの邪魔にならないように、小声で言った。
「やあ、良かった、捕まって」
佐田の明るい声が聞こえて来た。
「あの——何か?」
「うん、今ね、北海道にいるんだ。いい場所が見付かった。一面花が咲いててね。すばらしく絵になるところだ。今が時期的に盛りなんだよ。君、明日、こっちへ来てくれ」
由利は仰天した。
「明日……ですか?」
「そう。飛行機も全部押えた。後は君が来てくれれば、それでいい。ピアノやドレスはこっちで用意して待ってる」
佐田の言い方は、もう「既定事実」という感じで、押し付けがましくはないが、いやとは言えないものだった。
「はあ……」
「まだ食事中だろ? 悪かったね」
「いえ……」
「今夜中に君の所へ航空券とかを届けさせるよ。——今夜は帰る?」
「は?」
「いや、食事の相手とどこかへ泊るとか」
佐田は少しもからかっているのではないのである。由利はちょっと西尾を見て、頬《ほお》を赤らめた。
「ちゃんと帰ります」
「結構。じゃ、三、四日こっちへ泊るつもりで来てくれ。特別必要なものはないと思う。何か足りなきゃ、こっちで買えばいい」
佐田は早口に言って、「——何だ?——分った」
と、そばの誰かと言葉を交わしてから、
「じゃあ、待ってる。空港に迎えにやるからね、誰か」
「はい——」
何も訊き返す暇はない。さっさと電話を切られてしまって、由利は呆《あき》れていた。
「——仕事の話かね」
と、西尾は訊いた。
「ええ。——明日北海道へ来いって……。せっかちですね」
由利は、電話をウェイターへ返して、言った。
「みんな、あんな風なのかしら」
「広告の世界なんて、それこそ一秒を争うせわしなさだろうね」
と、西尾は肯いた。
「西尾さん……。何のお仕事をなさってるんですか?」
「貿易会社——というと聞こえはいいが、何でも売って、何でも買ってくる。雑貨屋の海外版のようなもんだね」
と言って、西尾は笑った。「さあ、料理が来た」
二人は食事をとることにしばし専念した。——佐田からの電話で、由利は落ちつかない気分ではあったが、料理の味までは変らない。
「——おいしい」
と、由利は言った。「いつもこんな所でお食事してらっしゃるんですか?」
「私の好物が分るかね」
「いいえ」
「お茶漬とのりだ」
と言って、西尾は笑った。
由利もちょっと笑って、
「——西尾さん」
「何だね?」
「母が……ステージで倒れたとき、『インペリアル』と呟《つぶや》いたんです」
西尾の、ナイフとフォークを持つ手が止った。
「——インペリアル?」
訊き返す声は、少しそれまでと違っている。
「そうなんです。何のことなのか、まだ母にも訊いていません。西尾さんは心当り、ありますか」
西尾は、また食事を続けた。柔らかい肉——由利などめったに食べられない——をナイフで切り分け、フォークに刺して口へ運ぶ。肉汁とソースが、数滴、たれた。
その動作が、少しゆっくりのように、由利には感じられた。
「——さあ、何かね」
西尾は、その肉のひと切れを呑《の》み込んでから、言った。
「もちろん、何でもないことかもしれないんです。でも——。何だか気になって」
「そうか」
「母が西尾さんとお会いしたホテルのことかもしれませんね」
と、由利は言った。
「そうだね」
西尾は微笑んだ。「そうだと嬉しいがね」
由利は、西尾の微笑のかげに、何か他の意味を探れそうな気がしたが、今、ここでそこまで言うのは、ためらわれた。この人が何か知っていたら、きっと話してくれるだろう。
「母とは——もう届も出しているんですか」
と、由利は訊いた。
「ああ」
と、西尾は肯いた。「お母さんが君らに黙っていたのは、たぶん私がずっと仕事で海外へ行っていたからだろう。ちゃんと紹介しようにも、本人がいないのではね」
「それに、母も久しぶりのリサイタルを開いたわけですし。終るまで、余計なことには気をつかわない人です」
「そう。——そうだろうね」
西尾は料理を食べ終えて、ナイフとフォークを静かに皿に置いた。
由利の方は、とっくに食べ終ってしまって、いささか恥ずかしい。
「姉さんの——そのみ君のリサイタル、ぜひ聞かせてもらいたいな」
「そうですか。でも——私も弾くんです」
と、由利が少し照れる。
「そりゃすばらしい」
「姉と二人で。ついて行くの大変です」
デザートが、ワゴン一杯に、のせられて来た。
「さあ、好きなものを取って」
と、西尾は言った。
「お腹《なか》一杯! でも、食べちゃいそう」
そう言って、由利は笑った。
確かに、「満腹で、とても入らない」と思った由利だったが、しっかりデザートを三種類も頼んでしまったのだった。
「——北海道へ行ってる間、母のこと、見舞ってくれますか」
「もちろんだ。毎日というわけにはいかないかもしれないが、できるだけ毎日、顔を出すようにする」
「そうしていただけると、安心です。姉はたぶん行かないと思いますし、母も、姉がリサイタルの準備に打ち込んでいる方を喜ぶでしょう」
「そうだね。——きっとそうだろう」
急に西尾の声が、遠くへ向けられたように聞こえて、由利はデザートの皿から顔を上げた。
西尾の表情に、奇妙に苦く、重いものが——遠い日の出来事を、突然思い出した、とでもいったかげりが浮かんだように、由利には思えた。
しかし、それもほんの一瞬のことで、すぐに、
「ここのデザートは定評がある。悪くないだろう?」
と、子供のような表情をとり戻していた。
「はい」
由利は、明日は食事を控えよう、と決心していた。撮影用に用意してくれたドレスが入らなかったら、みっともない!
——北海道か。
確かに、いい季節だろう。
由利は、工《く》藤《どう》へ電話しておこう、と思った……。