「悪いわね、付合わせて」
もう、松原宏《ひろ》美《み》は同じことを三回も口にしていた。
「いいさ。別に行く所もないし」
今《いま》井《い》も、同じ答えをくり返していた。
「こんなの、どうかしら?」
と、宏美は、鮮やかなオレンジ色のドレスを手にとって、体に当ててみた。
「いいよ。とてもよく似合う」
と、今井は少し離れて眺める。
「何でも賞めてるんじゃない?」
と、宏美は笑って言った。
「そんなことないさ」
「まあ——これで悪くないけど、手がよく動くかどうかね」
宏美は姿見の前に立って、体に当ててみる。
「そうね……。試着してみよう。——今井君、悪いけど、バッグ、持っててくれる?」
「ああ」
宏美は、売場の女性に声をかけて、試着室に入った。
——リハーサルの二日目の日である。
早《さ》苗《なえ》は母の所へ預けて来た。夫、松原紘《こう》治《じ》が会社の帰りに寄って、連れ帰ってくれることになっている。
早苗がいやがらないかと心配だったが、母があれこれ、お菓子やオモチャを用意して待っていたので、早苗もしばらくは遊んでいそうだった。
宏美は、母がこんなに協力的なのを見て、苦笑していた。これが、コンサートのためでなかったら、こうまでしてくれまい。
しかし、前回に時間がずっとのびてしまったことを考えて、今井が問題点を予《あらかじ》め整理しておいてくれたので、今日のリハーサルは、二時間の予定が、一時間ほどですんでしまった。
もちろん、ドヴォルザーク以外の曲もあるわけだが、それには宏美は加わらない。
前回のような熱い討論こそなかったが、ピタリ、ピタリと勘所が決っていく快感は、何とも言えないもので、終ったときには、宙を翔《と》んでいるような気分になったのだった。
そして、今井と一緒に帰りかけ、宏美は、本番用のドレスを、デパートで見て行こうと思い付いたのである。今井に付合せて、こうして〈パーティ用ウェア〉のコーナーへやって来て……。
宏美は、ワンピースを脱ぐと、オレンジ色のドレスを頭からかぶった。——コンサート用の場合は、デザインより何より、手足が自由に動くかどうかである。
演奏家に、自分でドレスを縫ったり、母親に作ってもらったりする人が多いのも、そのせいだ。
フーッと息をついて、乱れた髪を直す。
そして試着室の中の鏡に、自分を映して立った。——まるで、タイムマシンにのって、二十代の初めのころへ飛んで帰ったようだった。
そこには、「将来を大いに期待できる」と言われ、「新人とは思えない音楽性」と賞讃された宏美が——和田宏美がいた。
烈《はげ》しく、宏美の中にふき上げ、燃え立つものがある。このオレンジのドレスが、「パンドラのはこ」を開けたかのようだった。
何を考えてるの?——馬鹿な!
私はもう、プロの道を捨てたんじゃないの。あの人と結婚したときに、そう決めたんじゃないの。
そう。——どうせ不可能なのだ。
子供までいて、二十近くも年上の夫と家庭を持ち、家事と育児に時間をとられながら、プロの演奏家でいようとしても、とても無理なことだ。
そんなことは、よく分っていたのではないか……。
「いかがですか、お客様」
と、カーテン越しに声をかけられて、宏美はハッと我に返った。
「あ、すみません」
と、カーテンを開ける。
「よくお似合いですわ」
と、中年の女店員は肯いて言った。「音楽をなさってるんですか?」
「ええ、まあ……」
「やっぱり。何となく雰囲気がおありですもの」
「そうでしょうか」
と、少し赤くなる。「ちょっと下の丈が……。心もち、長いような気がするんですけど」
「でも、見たところ、ちょうどよろしいですよ」
「あの——ピアノを弾くので、ペダルを踏みますから」
「ああ、さようですか。じゃ、ほんの少し、短くしましょうか?」
「お願いします」
女店員が、足下にしゃがみ込む。——すると、数メートル離れて、今井が立っているのが見えた。
今井は、じっと宏美を見ていた。このドレス、どう、と訊こうとした宏美は、訊くのをやめた。今井が見ているのはドレスではなく、宏美でもなかった。いや宏美には違いないが、現実にここに立っている宏美ではなく、今井が胸の中に描いている宏美だった。
その宏美は、今井の腕の中に抱かれて、火のように燃えていた。今井にすがりつき、汗にしめった肌を、激しくこすり合せていた。
宏美には分った。今井の目に、自分がどう映っているのか、このドレスを見ても、今井の目はドレスを突き抜けて、その下の素肌を見ていた。そして、宏美はその視線で自分の体の奥底に、熱くうごめくものがあるのを、感じていた……。
「これくらいでいかがですか?」
と、女店員が足下で訊いた。
「ええ、結構です」
宏美は下を見ていなかった。目は、今井の目とぶつかり、せめぎ合うように光って、そして絡み合った。
「——ただいま」
と、宏美が上って行くと、
「何だ、早いじゃないか」
と、松原が顔を覗《のぞ》かせた。
「あら、皮肉?」
「そうじゃない」
「何て格好?」
と、宏美は笑い出してしまった。
松原が丸裸で、早苗の体をせっせとバスタオルで拭《ふ》いてやっていたのだ。
松原も笑って、
「仕方ないじゃないか。今、風呂へ入れたところだ」
「私、やるわ。あなた、入ってないんでしょ、ゆっくり」
「ああ。じゃ、頼む。入ったんだか入ってないんだか分らん」
「はいはい。風《か》邪《ぜ》ひくわよ、あったまらないと」
宏美は、バスタオルを受け取ると、早苗の頭をギュッギュッと拭いてやった。
夫が、風呂へつかる音がして、
「君のお母さん、ずいぶんご機嫌だったぜ」
と、声がした。
「そう?」
「ああ。君がステージに立つのが嬉しくて仕方ないらしい。早苗にもピアノを習わせた方がいい、とか言い出してさ。はあはあ、って聞いてたがね」
「放っときゃいいのよ」
と、宏美は言って、早苗にパンツをはかせ、パジャマを着せた。「もうおねんねよ」
早苗も、祖母の所で疲れたのかもしれない。欠伸《あくび》していたと思うと、布団へ入るなり、眠ってしまった。
宏美は、早苗のわきに寝そべって、その寝顔を眺めている。——お風呂では、夫のシャワーを浴びる音が聞こえていた。
宏美はそっと自分の髪へ手をやった。少ししめっている。
信じられなかった。
こうして、夫に笑いかけ、娘に添い寝して、何も感じない自分が。——つい、一時間前には、ホテルのベッドの中で、今井の汗にまみれた体を受けいれていたのに。
帰り道は、気がせいて、胸苦しく、辛《つら》かった。夫や早苗の顔を、まともに見られるだろうか、と思った。
しかし——一《いつ》旦《たん》玄関を入ると、宏美はいつもの通りに、夫と話し、娘を可《か》愛《わい》がって、何らぎくしゃくしたものを感じなかった。まるで、「外と内では別の宏美」だとでもいうように……。
私は夫を裏切った。そう自分に向って言ってみても、何の変りもない。
それどころか、このまま夫が何も知らなければ、その方が結局夫も幸せなのだ、と——そう納得さえしていたのである。
「——眠ったのか」
と、松原が、バスタオルを腰に巻いて、そばへ来た。
「ええ」
宏美は起き上って、「ごめんなさいね。あとはもう、本番の直前にざっと合せるだけだから」
「そうか。俺《おれ》も何とか時間を作って聞きに行こう」
「早苗がいるわ」
「何とかなるさ」
宏美はちょっと笑って、
「じゃ、お風呂、入ってくる」
「ああ。いい湯加減だ」
宏美は、浴室の前で服を脱いだ。
今井は——そう。今井は、宏美を愛しているわけではない。宏美も、それは承知していた。
そのみに追い出され、捨てられた、その屈辱の思いが、宏美への欲望になって爆発しただけだ。
もう、二度と、あんなことはないかもしれない。しかし、宏美にとっては、世界が全く違って見えるような衝撃だった。
自分の、もう一つの顔が、初めて見えたような気がしたのである。
湯舟につかって、じっと目を閉じていると、何もかも忘れられるような気がする。——あんなことは、大したことじゃない。そうなんだわ。
今井だって、もう二度とあんなことはしようとしないだろうし、自分も……。自分も?
渦巻く湯気の中に、宏美は自分が吸い込まれていくような気がしていた……。
——風呂を出ると、
「おい、電話だ」
と、松原が叫んだ。
「え? 今?」
「今、かかってる」
と、松原は言った。「今井って、一緒に弾く人だろ」
「ええ、そうよ」
と、宏美は肯いた。「何かしら」
「後でかけると言おうか」
「いいえ、出るわ」
宏美はバスタオル一つ、体に巻きつけて電話へと急いだ。「——もしもし」
「やあ」
と、今井が言った。
「どうも……」
「風呂へ入ってたのかい?」
「ええ」
「じゃ、まだ裸なんだね」
「ええ……」
「君は後悔してる? 僕はしてない」
「あの——」
「忘れられないんだ。そのみとは違う。あいつと寝ても、こんな気持になったことはないよ。本当だ」
「——ええ」
と、肯く。「私もよ」
「そう? 嬉しいよ。そう言ってくれて」
「ええ」
「また会ってくれ。いいだろ? リハーサルなんかじゃなくて、二人だけで過せるように。いいだろ? ね?」
宏美は、夫が後ろを通るのを感じた。
「そうね。きっと本番はうまく行くわ」
「ご主人がいるんだね、そばに?」
「ええ、そうなの」
「構わない。君が聞いててくれれば。君を離したくない」
「ええ」
「また会おうね。——いつ?」
「ええ」
夫がパジャマを着ている。「そうね。そうしましょう」
「また電話するよ。昼間なら」
「ええ、そうしてくれる?」
「待ち遠しいよ。こんな気持、初めてだ」
「ええ」
宏美は、夫が洗面所へ行くのを目の端で追って、
「私も楽しみだわ」
と、言った。
電話を切ると、宏美は洗面所で歯をみがいている夫の背後に近付いた。
肌がほてっているのは、湯上りのせいか、それともどこか体の奥が燃えているせいか。今井の声を聞いていたからだろうか……。
「何だ?」
鏡の中に妻の顔を見て、松原が歯ブラシを口へ入れたまま言った。
宏美は、後ろから夫に抱きついた。
「おい……。どうしたんだ?——おい」
夫が口をゆすぐ。そして妻の方へ向き直ったとき、バスタオルが外れてハラリと落ちた。