母の背中が見えた。
まるで壁か断《だん》崖《がい》のように、そそり立ち、由利を見下ろしている。ピアノに向っているのは姉のそのみで、母はその後ろに立って、じっと身じろぎもせずに、娘の指の動きと、譜面とを見つめているのだった。
「——そう! 良くできたわ」
母の上機嫌な声が響くと、由利の身がすくむ。次に自分の番が来ることを知っているからである。
「由利! あんたの番よ」
そのみがピアノの椅《い》子《す》からスルッとすべり下りて、由利を勝ち誇ったように見る。
「由利。早く座って」
母の声に、由利は従う。そうするしかないと知っているからである。
逃げ出したい。本当に逃げ出したい。
ピアノなんて、大っ嫌い!
そう叫んで逃げ出せたら……。毎日、毎日、由利は起きる度にそう決心する。——今日こそ逃げ出すのだ。
母の手の中から、何とかして——。そして、もう二度とここへ帰れなくてもいい。
どこかで親切なおじさんにでも拾ってもらって、皿洗いでも、お掃除でも、お洗濯でも、何でもする。ともかく、母の所へ追い返さずに、置いてさえくれれば……。
でも——だめなのだ。
母の視線は由利を標本の蝶《ちよう》々《ちよう》のようにピンでピタリと止めてしまう。どんなにもがこうと、やってくる運命を逃れることは、とてもできない……。
「さあ、弾いて」
——大丈夫。きっと今日は大丈夫。
練習で、あれだけちゃんと弾けたんだもの、今、弾けないはずがない。そう自分へ言い聞かせて、ピアノに向う。
でも……だめなのだ。母に見られている、と思うだけで、とたんに由利の指はこわばって言うことを聞かなくなってしまう。そしてたちまち、もつれて妙な具合になって、収拾がつかなくなる……。
「——もう一度!」
母の声に苛《いら》立《だ》ちが混る。
そして、やり直してみても同じことだ。一旦、道を見失うと、歩けば歩くほど正しい道から外れてしまうように、由利の指はとんでもない所を叩《たた》いてしまう。
「何やってるの!」
母の叱《しつ》声《せい》が飛ぶ。「お姉ちゃんはあんなに上手にできるのに、どうしてあんたにはできないの!」
首をすぼめ、由利は嵐《あらし》をやり過そうとする。でも、その嵐は由利一人を狙《ねら》いうちしてくるのだから、とても避けるわけにはいかないのである。
「始めから、もう一度!」
と、母が怒鳴る。「手の形が悪い! 何度も言ったでしょ!」
ピシッと手の甲を叩かれる。何度も叩かれて、由利の手の甲は、練習が終るころには真赤になってしまった。
「——もう一度!」
お願い。もうできない。もう弾けないよ……。
「もう一度!」
お母さん、やめて! もう勘弁して! もう……。
「もう一度!」
もう一度!——もう一度!
お母さん……。許して。もういや。もういやだ……。
「もう一度!」
「——いやよ」
激しく頭を振って、由利はハッと目を覚ます。
窓から、爽《さわ》やかな風が入ってくる。
東京の風じゃない。ガソリンの匂《にお》いも、どこかのBGMも含まれていない。透明な、きれいな風。
——北海道なのだ。
「大丈夫?」
スタイリストの女性が、マイクロバスの中を覗き込んでいる。
「私……眠っちゃったんですね」
由利は、息をついた。「すみません」
「いいのよ。出番が来るまでは何してたって」
と、スタイリストの女性が首を振る。
「もう一度!」
と、外で声がしている。
佐田裕《ひろ》士《し》の声である。由利は、立ち上って、
「どんな具合ですか?」
「今、ピアノをね……」
マイクロバスを降りると、風が由利の全身をやさしく包む。青空が、信じられないほど高い。
まぶしさに手をかざして見上げる、深海のように青い空の中を、真白なグランドピアノが漂っている。
それは不思議な光景だった。
「もっと奥だ!——そう、その辺へ下ろせ!」
と、佐田が怒鳴る。
クレーンでピアノを吊《つ》り上げて、目の前の一面の草原の真中へ下ろそうとしているのだ。
時計を見ると、一時間ほど眠っていたことが分る。しかし、状況は一時間前とあまり変っていないようだ。
ともかく野外にグランドピアノのような何百キロもある物を置こうというのだ。下の足場をしっかりさせなくては、水平に置くことすらむずかしい。位置を決めても、そこへ置いたときには、もう太陽の位置が動いている。
「そっと下ろせ!——そっとだ!」
ピアノは、何とか無事に着地した。
「——目が覚めた?」
と、佐田は汗を拭《ぬぐ》った。
「はい。——すみません」
「いいんだ。君はピアノを弾くんで、運ぶんじゃない」
と、佐田は息をつく。「カメラはもう用意がすんでる。——ドレスに着がえといてくれないか」
「はい」
「ともかく、君のカットだけでも撮っておきたい」
佐田は、スタッフの方へ、「おい! 回すぞ!」
と声をかけた。
由利は、バスの中へ戻って、カーテンで仕切られた一角に、スタイリストと二人で入った。
「——さあ、こいつを着て」
「はい」
「頭は大丈夫。後でちゃんと直すから。——どう? きつくない?」
「大丈夫です」
と、由利は肯いた。「佐田さん、何だか苛《いら》々《いら》してるみたい」
「キツネよ」
「キツネ?」
「例のキタキツネがね、手違いで来てないのよ」
「じゃあどうするんですか?」
「だから、あなただけでも撮っとこうっていうんでしょ。後でつなげても、光の具合とかね、うまく行かないのよ」
「そうですか……」
カーテンをシュッと開け、由利は椅子にかけて、ヘアスタイルとメイクを直してもらう。
気恥ずかしいような、可愛いドレスである。姉が見たら、何と言うか……。
「——はい、OK」
スタイリストの女性がポンと肩を叩く。
由利はバスを下りた。
「やあ、すてきだ」
と、佐田がやって来る。「クレーンにのせたカメラで、何度も回すからね。君は、できるだけ表情豊かに弾いてくれ」
「表情豊かに、ですか」
「しかつめらしい顔でじっとピアノをにらみつけてちゃ、絵にならない。分るだろ?」
「ええ」
「ともかく、光の具合がいいのは、そう何時間もないんだ。早速弾き始めてくれ」
「はい」
これも仕事。——契約の内なのだ。
由利は、ドレスの裾《すそ》を持ち上げながら、草原の中へと入って行った。
ビデオカメラではなく、35ミリのフィルムを使う。普通の劇場用の映画と同じだ。TVで見ると、16ミリフィルムでもそう違わないのだが、微妙なところで「高級感」が出るのだという。
それにしても、スタッフの人数の多いことにはびっくりした。——ビデオどりでは何分の一かの人手で充分なのだそうだが、フィルムというだけで、こんなに手間のかかるものなのである。
北海道へやって来て三日目。
明日には、もう戻る予定になっていた。動物業者の手違いで肝心の「聴衆」がいないのでは、佐田が苛立つのも分る。
「——さっきの電話じゃ、もうこっちへ着くってことだったんだけどね」
由利にくっついて来たスタイリストの女性が言った。「この分じゃ、怪しいわね」
「残念ですね」
「そう。——さ、座ってみて、高さはどう?」
椅子の下には、ちゃんと板が敷いてある。
由利は椅子の高さを調節した。
「これくらいですね」
と、由利は言って、「あ、ピアノの蓋《ふた》、どうします?」
「開けるんでしょ。——あなたはいいの。ちょっと! ピアノの蓋!」
由利は、何となく妙な気分だった。
何もやらなくてもいい。周りが全部やってくれる。——もちろんそれは、由利がスターだからではなくて、せっかくのドレスが汚れたりしたら、この撮影が台なしになってしまうからである。
それにしても、こんな風に周囲が何でもやってくれて、ただピアノさえ弾いていればいいという経験は、由利にとって初めてのことだ。——確かに少々「いい気分」になれるものではあった。
「——OK、何か弾いててくれ」
と、佐田がカメラの向うで声をかけた。
少し指をならした方がいい。由利は、とりあえずモーツァルトのソナタを弾き始めた。
音はピアノの胴体から果しない広がりの中へと広がって行って、もちろんホールのように戻っては来ない。不思議な音だった。
モーツァルトがモーツァルトでなくなるような……。ショパンを弾く。
ショパンはいわば超高級な「サロン音楽」である。こういう開放された空間には一番似つかわしくない音楽かもしれないが、それでも乾いた空気と、草花をなでて行く風にのって、美しい響きを感じさせた。
「——大したもんだ」
と、スタッフの一人が言うのが聞こえた。
「本当に弾けるんだ」
などと呆れているのもいる。
どうやら、由利を駆け出しのタレントで、ピアノを弾くふりをしに来ただけ、とでも思っていたらしい。佐田の方へチラッと目をやると、得意げに笑っている。
——ショパンのエチュード、スケルツォを何曲か弾いて、サティの〈ジムノペディ〉にした。この風のゆるやかな動きに、よく似合う。
「——同録でとるぞ」
と、佐田が言った。
大きなマイクが、カメラの視野ぎりぎりの所までピアノに近付く。
カメラは一旦地面に据えられて、いくつか位置を変えてフィルムを回した。
「——すてきだ! よし、クレーンにのせろ」
と、佐田が指示する。
「どうします、キツネ?」
「仕方ない。いざとなりゃ、彼女だけでやるさ」
佐田がクレーン車の方へ手を振った。
クレーンの先の台へカメラを据えつけ、それを上昇させたり斜めに動かしたりして撮ろうというのだ。
「——ちょっと髪を」
と、スタイリストの女性がやって来て、いじる。
「これでいい」
「少し風が冷たい」
「そうね、午後になると」
「弾いてた方がいいわ。手が少しこわばってくる」
由利は、鍵《けん》盤《ばん》に指を置いて、何を弾こうか、と考えながら、ふと目を上げたが——。
「——見て」
と、由利は言った。
忙しく動き回っていたスタッフたちが、スッと静かになり、動きを止める。
ピアノの斜め前、ほんの三、四メートルの所に、茶色い動物が、ちょこんと座って、由利の方を眺めていた。
「——驚いた」
と、スタイリストの女性が言った。「キタキツネよ」
佐田が、我に返ったように、由利に向って手を振っている。——弾いていろ、ということだと察しがついた。
由利が再び弾き始める。スタイリストの女性は、ゆっくりとピアノを離れた。
誰もが無言だった。一言でも発すれば、キタキツネが逃げ出すとでもいうように。
カメラをそっとクレーンに据えつけ、カメラマンと佐田が、小さな椅子に腰かける。——静かにクレーンが上昇し始めた。
由利は、目の前の光景が、信じられなかった。
キタキツネの親子だ。首をかしげるようにして、この不思議な音を発する大きなものを見上げている。
何とも可愛い。由利はごく自然に、その小さな動物に微笑みかけていた。
何を弾こう?——まさかキタキツネに「リクエストは?」と訊くわけにはいかない。
野原で弾く。——野原か。
とっさの連想で、ジョン・フィールドの〈ノクターン〉を弾き始めた。アイルランドの作曲家で、それほど知られてはいないが、ショパンより以前、〈ノクターン(夜想曲)〉という名称の曲を、初めて作曲したのだ。
ショパンに比べれば単純だが、メランコリックで、やさしい曲想を持っている。
由利は、記憶に頼って、弾きつづけた。カメラをのせたクレーンが、空高く上って、ピアノと由利を見下ろしている。
すると——キタキツネの子供が、トットッと歩き出し、ピアノの下へ入って行く。音の鳴る箱を、じっと見上げている。親がやって来て、子を追い立てようとする。
子は素早く逃げて、ピアノの足の周囲をクルクルと回りながら、遊び出した。
カメラは低く下って、その光景をフィルムに収めていた。
誰もが興奮し、真赤な顔をしている。——誰も演出したのではない。しかし、目のくらむような場面である。
由利は、次第に体が熱くなってくるのを感じた。音楽が、あの動物に分っているわけではあるまい。しかし、ノクターンを伴奏に、野生の生き物が遊び戯れているさまは、胸を一杯にした。
もっと弾いて! もっと!
佐田が目を輝かせ、息さえ止めて、由利を見つめている。由利は、指がまるで命を得たように、自由に鍵盤の上で踊るのを感じた。こんなことは初めてだ!
さあ、踊って! 遊んで!
もっと弾いてあげる。もっと! もっと!
汗が流れた。降り注ぐ陽光の下、その汗はきらきらと宝石のように輝いていた……。