宴《うたげ》は深夜まで続いた。
スタッフの泊ったホテルのバーは、夜中の一時までだったが、佐田が特別に話をつけたらしく、二時近くなっても、まだ誰もが飲みつづけている。
「——いや、凄《すご》かった!」
と、カメラマンが声を上げた。「あんなのは一生に一度だぜ」
「それはさっきから五回目だ」
と、一人がからかう。
ドッと笑いが起った。
由利も、少しビールとか飲んでいたが、いつもなら、こんな席に遅くまでいると、すぐ頭痛がしてくる。しかし、今夜だけは不思議と平気でいられた。
いや、むしろ他のスタッフともども同じ興奮を味わっていたのである。
確かに、カラオケバーで、聞きたくもない下手な歌に拍手しなければならない、あんな宴会に比べれば、この席はずっと「正直」だった。
「松原君のピアノのおかげだ」
と、佐田が言った。「このCFは僕の人生の中でもハイライトだよ」
由利は少し頬を染めて、
「キタキツネにお礼を言って下さい」
と言ったが、自分でもまだあの瞬間の昂《こう》揚《よう》した気分が残っているのを感じていたし、その気持には素直になろうと思っていた。
「あれで話題にならなかったら、俺は首を吊るよ」
と、一人がオーバーなことを言ったが、それが納得できる雰囲気だった。
「君はスターになるぞ」
と、カメラマンが言った。「本当だ。間違いない」
「私、タレントじゃありません。ピアニストなんです」
と言ってから、由利はふと口をつぐんだ。
ピアニスト? 私はピアニストかしら?
そうじゃない。ピアニストというのは、姉や母のような人間のことを言うのだ。自分はただ、「ピアニストもどき」にすぎない。
「そう。君は自分の道を行くべきだ」
と、佐田が言った。「しかし、それで有名になれば、拒んじゃいけないよ」
由利は、ちょっと微笑んで、
「有名になんて……。私はただの契約社員ですもの」
と、言った。
「もったいねえな。世の中、有名になりたい奴が山ほどいるのに」
と、スタッフの一人が言った。
「有名になるならないは、自分の意志とは関係ないよ」
と、佐田が由利を見て、言った。「ただ、僕の経験から言うと、君には、充分にその輝きがある」
「もう……寝ます」
居《い》辛《づら》くなって、由利は立ちかけた。
「おっと。もうこんな時間か——。居座ってちゃ気の毒だ。もう行こう」
誰もが十二分に酔いしれているようだった。
ホテルの中なので、バーを出て、エレベーターで上るだけでいい。
「——ゆっくり休んでくれ」
と、佐田がエレベーターの中で言った。「明日の飛行機は夕方だ。昼ごろ起きれば充分だからね」
「はい」
由利は少しホッとした。「——おやすみなさい」
スタッフ、それぞれが別のフロアで、ばらばらだった。由利は一人でツインルームを使っていた。
ルームキーで中へ入ると、急に疲れが出たようで、服のままベッドに仰《あお》向《む》けになった。
疲れてはいたが、眠くはなく、目が冴《さ》えていた。——何もかもが初めての経験で、そしてあんな奇跡のような光景を見たのである。
興奮が冷めないのも当然かもしれない。
明りも点《つ》けず、じっと天井の暗がりを見つめている。——今日一日が夢のようだ。
トントン。
ドアをノックしている音。——この部屋だろうか?
トントン。
由利は起き上った。
ドアをそっと開けると、佐田が立っていた。
「——佐田さん。どうかしたんですか」
と、由利は言った。
「いや……。すまないね、せっかくホッとしてるところに」
と、佐田は少し照れたように、目をそらしている。
「いいえ、横になってただけです。あの——何か?」
「君に……お礼を言いたかった」
「礼?」
「そう。みんなのいる前じゃなくて、君と一対一でね。——今日みたいなすばらしい日は、初めてだ。ありがとう」
佐田の目は、輝いていた。あの撮影のときの、燃えるような輝きを、まだ止《とど》めていたのだ。
「そんな……。私はただピアノを弾いただけです」
と、由利は言った。
「君が呼んだのさ」
「あのキタキツネを、ですか?」
「いや、奇跡をだ。君にしかできないことだった」
「もしそうだとしても……あれを考えたのは、佐田さん、あなたです」
「プランを立てるのなんて、簡単さ」
と、佐田は首を振った。「すばらしい場面を手に入れるには、全く別の才能が必要なんだ。金をいくら積んでも買うことのできない才能がね」
「買いかぶらないで」
と、由利は笑った。「私は落ちこぼれのピアニストなんです」
「そんなことはない。人間は技術だけで評価されるわけじゃないだろう。君は、他のどんなすぐれたピアニストにもないものを持っている」
「もうやめて……」
由利は、ドアを押えて立っていた。
「すまない」
と、佐田は息をついて、「つまらないことで、邪魔しちゃったね」
「いえ……」
「じゃあ。——おやすみ」
「おやすみなさい」
由利は、ドアを閉めた。
佐田の足音は聞こえなかった。カーペットを敷いた廊下である。
じっと、ドアを押えたまま、動かなかった由利は、思い切ったように、パッとドアを開けた。
——分っていたのだ。
そこに佐田が立っていることは。
もう何も言わなかった。ドアを開けたとき、由利は佐田を受け容《い》れたのだ。
数秒後には、由利は佐田の腕に息苦しいほどきつく抱かれ、唇を唇でふさがれ、そのまま部屋の中へ押し込まれるようにして、一気にベッドの上に倒れ込んだ。
烈しい息づかいと、こすれ合う布の音だけが、しばしこの小さな「夜」の中に聞こえていた……。
「いかがですか、仕上りの具合は」
佐《さ》竹《たけ》弓《ゆみ》子《こ》の声は、至って呑《のん》気《き》だった。
「まあまあね」
と、そのみは答えた。「何しろ、パートナーが北海道でキツネと遊んでるもんだからね」
佐竹弓子はちょっと笑った。
「由利さんのことは聞いてます。CFに出られるとか」
夜中の電話。——しかし、そのみには、朝早くの電話より、ずっとありがたい。
「由利が出たら、売れるもんも売れなくなるわね」
「まあひどい」
と、佐竹弓子は言った。「由利さんなら大丈夫。ちゃんとやられますよ」
「こっちも真《ま》面《じ》目《め》なもんよ」
現に、そのみは今も楽譜を眺めていたのである。
「嬉しいわ。チケット、もう来週発売ですから」
「売れ残っても知らないよ」
と、そのみは冗談めかして言ったが、その底に不安が通奏低音のように響いていることを、佐竹弓子はちゃんと承知している。
「残念でした。私でも個人用のチケット、手に入らないかもしれないんです。社員用の分はなし、と早々に決りました」
「私の分は?」
と、そのみは笑って言った。
「由利さん、いつ戻られるんです?」
「明日の夜とか言ってたわ。少しお説教してやって」
「お母様の具合いかがなんですか?」
佐竹弓子が、太《おお》田《た》から聞いていないわけがない。しかし、こういう話をして、緊張をほぐすのも、プランナーの仕事の一つである。
「悪くないんじゃない? 由利に訊いて」
「そうします」
と、言って、「そうそう。あの——お父様と結婚した女《ひと》……。和《わ》田《だ》宏《ひろ》美《み》さん、でしたよね」
「あの人がどうかしたの?」
そのみは大して気にもしていない、という口調。
「今度、室内楽で久しぶりにステージに出るようですよ」
「へえ。何を弾くの」
「ドヴォルザークの五重奏。臨時の編成ですけどね」
「知らないな。リーダーは?」
「第一ヴァイオリンは今井初《はじめ》さんですって」
そのみが、初めて起き上った。
「——今井君?」
「ええ。そのみさん——」
「何でもないの。じゃあ、由利が戻ったら、またかけて」
「そうします。頑張って下さい」
「ありがとう」
そのみは素直に礼を言った。——こうした励ましは嬉しい。
今井が……あの女と?
まあ、不思議とは言えない。互いに知っているし、今井には、一流のピアニストをゲストに呼ぶ力はない。ほとんどノーギャラに近くて、弾いてくれる人、といえば、半ば引退同然の「元、有望なピアニスト」しかいないだろう。
「——宏美さんがね」
父と一緒になって、今は近所の子供相手の「ピアノの先生」をしていると聞いていた。もちろん母は、宏美のことなど、一言も口にしないので、音楽仲間の噂《うわさ》話《ばなし》からである。
今井と、和田宏美か。——そのみは、ちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「まあ、せいぜい頑張って」
今井を嫌いになったわけではない。しかし、そのみは二つ三つのことに没頭することはできないのである。
今はリサイタルが何よりも大切だ。今井のことはその後でもいい。
正直なところ、そのみはベルさえ鳴らせば、いつでも今井が尻《しつ》尾《ぽ》を振って飛んでくると思っていたのである。
夜が、熱くほてっているようだった。
汗ばんだ肌に、佐田の柔らかい指がゆっくりと滑った。
「もう……眠るわ」
と、由利は言った。「部屋へ戻って」
「分ってる」
佐田が、少し体を起こして、「初めてじゃなかったんだね」
「がっかり?」
「いや、ホッとした」
由利はちょっと笑った。
「音楽家はね、早熟なの。——知らなかった?」
「君も?」
「私は……十七のとき。母があんまり厳しいので、それに反抗して。——大して好きでもない男の子だった」
と、由利は言った。「もう顔も忘れちゃった」
「姉さんもその口かい?」
「姉は別。——うまいんですもの。何をして遊んでも、ちゃんとピアノさえ弾けば、母は黙ってた。でも、それでやりすぎて、結局母と仲《なか》違《たが》いしたんだけど」
「そうか。——姉さんのことはいい。君のことさえ分ってりゃ、僕には充分だ」
「何人か恋人はいたけど……。でも、まだ若すぎる」
「ああ。——分ってる」
佐田はそっと由利にキスした。白い体がかすかに震える。
——佐田が自分の部屋へ戻って行った後、由利はじっとベッドで動かなかった。
こんなことになるとは……。しかし、今日、あの昼間の出来事を通して、何かが始まろうとしている予感を、覚えていたのも事実だった。
それが、これだとは思ってもいなかったのだけれど……。
ふと、工藤の顔を思い浮かべる。胸が痛んだ。
とても——もう無理だ。佐田にああは言ったが、十七歳のとき以来、佐田は二人目の男だった。何人もいた、と言ったのは、佐田に「遊び」と思わせたかったから。
おそらく、「真剣」になれば逃げていく男なのだ。
由利は、ベッドから出ると、バスルームへ入り、熱いシャワーを浴びた。
じっと目を閉じて、正面から熱い雨を受け止めていると、色とりどりの光の破片が乱舞する中に、あのまぶしい日《ひ》射《ざ》しの下、戯れ遊んでいたキタキツネの親子の姿が、浮かんでは消えた……。