そのみの手が止った。
しまった、と由《ゆ》利《り》は思った。どこが悪かったかぐらいは自分でも分る。
「ごめん。走りすぎた」
と、文句を言われる前に謝っておくことにする。
「由利」
そのみは、譜面を閉じると、何か言いかけて、やめた。「——今夜はこれで終りにしよう」
「でも……。まだ三十分しかやってないよ」
「いいじゃない。時間だけやりゃいいってもんでもないし」
由利は、そのみが腹を立てているわけでもないらしいと知って、ホッとした。
「うん」
と、自分のパートの譜面を閉じる。
「お腹《なか》空《す》いたでしょ。何か食べない、その辺で?」
と、練習室の重い扉を開けて、そのみは居間へ戻ると、ソファの上に楽譜を投げ出した。
「私……ちょっと約束があるの」
と、由利が少しためらいがちに言った。「ごめんなさい」
「謝ることないじゃない」
そのみは、ソファに横になって手足を伸すと、
「あんたも〈夜行性〉になったもんね。夜の十一時から、『お約束』?」
「だって……。OLじゃないんですもの。仕方ないわ」
と、由利は言いわけした。
「成長したのを喜んでんのよ」
「別に——」
と、言いかけて、「少し郵便物、整理したら?」
テーブルに山積みになった新聞と郵便。一体いつからたまっているのだろう?
「片付けてあげるわ」
と、由利は、新聞と広告、郵便、そして郵便物の中でも、捨てていいDMをどんどん分けて行った。
「その内やるわよ」
と、そのみが言った。「いいの、時間?」
「うん。今行ったら早すぎる」
由利はチラッと時計に目をやる。「こんな風になってると苛《いら》々《いら》するの」
そのみは、じっと妹がてきぱき「分類」していくのを眺めていたが、やがて、口を開いた。
「男ができたね、由利」
由利が手を一瞬止めて、
「そう……。いいでしょ、できたって」
「何を気取ってるの、真赤になって」
と、そのみは笑った。「それで、やけに先を急ぐのか。アレグロがプレストになるわけだ」
「やめて。そんなんじゃない」
と、由利は少しむきになって言った。
「干渉しないわよ、人の恋には。でも、一人で舞い上んないでよ、デュオのときに」
由利は聞こえないふりをしていた。一枚のハガキを取り上げて、いらないDMの山の方へ入れかけてふと見直し、
「お姉さん」
「うん?」
「これ——。今《いま》井《い》さんじゃない」
「ああ。ドヴォルザーク?」
「うん。招待状よ。行く?」
「行くわけないでしょ。いつ?」
「ええと……あさってだ」
「あんた、行ったら」
と、そのみは言った。
「私が行っても——。お姉さんが行ったら喜ぶよ、きっと」
「怪しいもんね」
そのみは起き上って、「お父さんに会えるかもよ」
「お父さん? どうしてお父さんが——」
と言いかけて、由利はハガキを見直し、「これ……ピアノの〈松《まつ》原《ばら》宏《ひろ》美《み》〉って——」
「そう。彼女よ」
「へえ。また始めたんだ」
由利は、単純にびっくりしているだけだった。宏美が完全に演奏活動から手を引いたものと思っていたからである。
「今井君が頼んだんでしょ。安いギャラで出る人を捜して」
「そう……。じゃ、お姉さん知ってたんだ」
「聞いたのよ。興味ないわ。あんた、行くなら行って」
由利は少しためらってから、
「じゃ——一応持ってる。行けるかどうか分らないけど」
と、ハガキを自分のバッグへ入れた。「じゃ、こっちが見た方がいい分。他のは捨てとくから」
「ご苦労さん。明日、来られる?」
「病院に寄ってから」
由利は帰り仕度をした。「時間は?」
「いつも通り。じゃ、鍵《かぎ》、かけてって」
「無精ね」
と、由利は笑って、姉のマンションを出た……。
タクシーを拾って、TV局へと向う。
着けば十二時くらいになるだろう。たいていは、それでも早すぎるのだが、待つのは大して苦にならない。待っても、自分は言われた時間に着いておきたい。由利はそういう性格である。
——北海道での、あのロケからそろそろ一か月が過ぎようとしていた。
もちろん、ロケだけがあったわけではない。すばらしいロケだったが、由利にとっては、「恋」の始まりだったのだ。
恋か……。タクシーの窓から、暗い夜を眺める。
佐《さ》田《だ》裕《ひろ》士《し》との仲は、ずっと続いている。ずっと、と言うほど長くないかもしれない。たかだかひと月ほどでは。
しかし、由利は内心、一度きりで終るのではないかと思っていたのだ。あれは、「特別な一日」だった。あの昂《こう》揚《よう》した気分の中での、一瞬の放電のようなものだった。
それが——東京へ戻った翌日、ベッドに入った由利を、佐田が迎えに来たのである。由利は真夜中過ぎに、二度目の夕食を取り、午前二時すぎにホテルへ入って、佐田に抱かれた。——目が覚めたのは、もう午後の三時ごろで、シャワーを浴びて表に出ると、日は傾きかけていた。
由利にとっては、それが「恋の始まり」だった。今まで全く知らなかった生活が、由利を呑《の》み込んでいた。
音楽家が夜ふかしなのは、由利も知っている。しかし、由利自身は長くOL生活をして来て、朝に起き、夜、遅くとも十二時ごろには眠るという暮しに慣れていた。
佐田の、夜昼が完全に逆転したような生活に、自分も巻き込まれていくようで、正直なところ恐ろしかった。
妙なものだが、由利は佐田との恋に囚《とら》われていくことよりも、また逆にその恋を失うことよりも、こんな夜中に出かけるのが、当り前になることの方を、心配していたのである。
自分の生活が変ることは、「自分自身」を失うことのように感じられたのだろう。
それはまるで、青春時代に、悪い遊びにひきつけられて、「もう二度と行かない」と誓いながら、ついつい足を向けてしまう、あのやましさにも似ていた。
——タクシーがTV局の通用口に着くと、由利はもう顔を憶《おぼ》えてくれている守衛に会釈して中へ入った。
TV局が眠らないといっても、やはり深夜になると送り出しなどはコンピューター任せになり、人の姿はぐっと少なくなる。
由利はいつも通り、小さなコーナーの椅《い》子《す》に腰をかけて、佐田が出て来るのを待った。
佐田といつも一緒のスタッフには見られてしまうわけだが、どうせみんな知っているのだ。今さら隠すことはない。
由利は、ぼんやりと、壁に並んでいる新番組のポスターを眺めていた。——いかにも「人気番組」というように見えるが、佐田のスタッフとしゃべっていて、「視聴率がとれずに打切りだ」と聞かされているものもいくつかあって、おかしい。
もっとも、制作に係《かかわ》った人たちにとっては、「おかしい」どころじゃあるまいが。
「——由利さん」
足早にやって来たのは、北海道でも一緒だったスタイリストの女性である。
「あ、今晩は」
と、由利は腰を浮かした。
「ね、ここにいちゃまずいわ」
と、早口に言って、「こっちへ」
と促す。
「え?」
由利はわけが分らず、面食らっていた。
「いいから! ついて来て!」
スタイリストの女性に引張られて、TV局の中を、右へ左へ、どこへ向っているのかさっぱり分らない。ともかく、しまいにはどこかの倉庫みたいな部屋へ入って、やっと息をついた。
「——これで何とかなった」
と、息を弾ませている。「ごめんなさい、びっくりさせて」
「何だったんですか?」
由利は、呆《あつ》気《け》にとられているばかりだった。
「山《やま》口《ぐち》真《ま》理《り》。——知ってる?」
「山口真理……。タレントさんでしょ? 歌手じゃないですか」
「まあ、あれで歌手って呼べりゃね」
と、スタイリストの女性は笑って、「でも、ともかく男に取り入るのは上手なの」
「その……山口真理さんがどうしたんですか?」
「あなたを捜してたの。たぶん、まだあの出口辺りにいるでしょ。目をこんなにしてね」
と、目尻を指でキュッと上げて見せる。
「私のこと——」
と、言いかけて、やっと由利にも分った。「じゃ——佐田さんと?」
「そう。もう半年くらいかな。この世界じゃ、みんな知ってたわ」
「そうですか……」
「山口真理にとっちゃ、まだ駆け出しの身で佐田さんの『彼女』って立場は絶対に失いたくないのよ。で、あなたがそれを横どりした、と噂《うわさ》で聞いてね」
と、少し心配そうに由利を見て、「ショックだった?」
「いいえ」
由利は即座に答えた。「私、そんなにうぶじゃありませんわ。佐田さんが手が早いって忠告してくれたのも、ちゃんと憶えてるし」
「罪な男よね」
と、スタイリストの女性はため息をついた。
「みんなあなたに同情してる。この仕事がすむまでだよ、って」
「分ってます」
と、由利は肯《うなず》いた。「佐田さんとの間がずっと続くとは、思っていません。私も自分の意志でお付合いしてるんですし、別に騙《だま》されてる、ってわけじゃないし……。でも、その人と佐田さんを奪い合ったりするのはいやだわ」
「しっかりしてるのね、あなた」
と、由利のことを見直した様子。
「少しは自分のことを知っている、ってだけです」
と、由利は言った。「ずっとここに隠れてるんですか」
「見て来てあげる。——佐田さんがうまいこと彼女のご機嫌とってやるでしょ。今夜は会えないかもよ」
「ええ」
由利は、肯いた。——一人になって、改めて自分の妙な状況に苦笑した。
まるでこそこそと不倫でもしているよう。こんなとき、姉なら相手の女をはり倒しているだろう。いや、男が自分から戻って来るのでなければ、
「そんな男、くれてやるわよ」
と言うに違いない。
誇り高い人なのだ。
由利がこうして、あまりショックも受けずにいられたのは、姉とは逆に、自分に相手を縛りつけておくのが可《か》哀《わい》そうだから、なのである。
だって——そう、佐田の周囲には、私なんかより、ずっとずっと可《か》愛《わい》い子たちがいくらもいるのだから……。
足音がして、ドアが開いた。
「悪かったね」
「佐田さん……」
由利は戸惑った。
「怒ってるだろ?」
と、佐田が由利の肩を抱く。
「いえ……大丈夫なの?」
「ああ、もう帰ったよ」
二人は、TV局の廊下を歩き出した。
「——君に謝らなきゃ」
「どうして? 別に私、あなたを独り占めしたいとは思ってないわ」
「思ってほしいけどね、僕は」
肩を抱く手に力が入る。
その言葉が、嬉《うれ》しくないわけではない。でも、由利は、分っているのだ。この恋が長く続くわけがないことを。
「——佐田さん」
と、通用口の所で待っていたのは、あのスタイリストの女性で、「由利さんを泣かせちゃだめよ」
「ああ。分ってる。——彼女は?」
「タクシーで帰ったわ」
「そうか」
と、佐田が肯く。
「ね、やめましょう」
と、由利は言った。「今夜はもう……。やめた方がいいわ」
「どうして? 気にすることないんだ。あの子の方が勝手につきまとってるだけなんだから。——さ、行こう」
佐田は、いつになく強引に由利を自分の車へと押し込んだ。
諦《あきら》めて、少々狭苦しいスポーツカーの助手席でシートベルトをしながら、由利は不思議だった。
男は、どうして気付かないのだろうか。
「勝手につきまとっているだけ」
その言葉が、いつか自分について言われる日が来る。——女がそう考えるだろうということを、なぜ考えないのだろう。
「——待たせたね」
佐田が車を走らせる。「例のCFがね、もうでき上ったんだ」
「あの北海道の?」
「ああ。すばらしい出来だ。例の——何てったかな。中《なか》山《やま》か。あの『部長』も、いたく気に入っていたよ」
「見たいわ」
と、由利は言った。「でも、恥ずかしい」
「早速来週からの、あの社の枠でオンエアだ」
「来週から?——もう?」
由利にも、意外なことだった。画面に出るのはもっと先のことと思っていたのだ。
「いいものをしまい込んどくことはないさ。そうだろ?」
——由利が反対したり、苦情を述べる筋合ではない。ただ、心配なのは姉のリサイタルに、何か影響が出はしないか、ということである。
由利はちょっと笑った。——何をうぬ惚《ぼ》れてるの! 誰も憶えてやしないわよ、あんたのことなんか。
憶えてるとしたら——そう、あのキタキツネの親子のことだろう。
「ねえ」
と、由利は言った。「何か食べたいわ」
「いけね! そうだった。ごめんよ」
佐田も、山口真理のことで動揺していたのだろう。早速車を、なじみのレストランへと向けた。