「お会いになっても構いませんよ」
医師のその言葉が、むしろ佐《さ》竹《たけ》弓《ゆみ》子《こ》には恐ろしかったのである。
しかし、自分の方から、
「会ってもいいでしょうか」
と訊《き》いておいて、今さら「やめます」とは言えない。
「今は特別室の……〈1206〉に入ってらっしゃいますが」
そう言われて、佐竹弓子は少し戸惑った。
このところ忙しくて、影《かげ》崎《さき》多《た》美《み》子《こ》の様子を耳にする機会がなかった。今日、たまたま二、三時間の空きができたので、病院へやって来たのである。
何といっても、弓子自身の企画したリサイタルで倒れたのだ。
しかし——特別室? マネージャーの太《おお》田《た》は何も言っていなかったが。
ともかく、医師に言われた通り、弓子は特別室の並ぶフロアへ上って、〈1206〉のドアの前に立った。〈影崎多美子〉の名札が入っている。
だれが費用を出しているのだろうか。
軽くノックをして、弓子は静かにドアを開けた。
もちろんホテル並みというわけにはいかないが、立派な病室である。ベッドに寝ていた患者が、ゆっくりと顔を向けた。
弓子は、医師から「大分良くなっている」とは聞いていたが、それでも影崎多美子が相当に老け込んだ様子を想像していた。
その方が実際に顔を合せたとき、ショックを受けても表情に出さずにすむ。
しかし、影崎多美子は、髪などはひどい様子だったが、恐れていたほど変ってはいなかった。
「お邪魔してもよろしいですか」
と、弓子はそっと声をかけた。「佐竹です」
多美子が小さく肯いたので、弓子はホッとして中へ入り、ドアを静かに閉めた。
ベッドの方へ近付いて行くと、
「お花の一つもお持ちしないで……。すみません、仕事の途中でうかがったもんですから」
と、弓子は、笑顔を見せて、「でも安心しました。ちっともお変りになっていないんですもの」
多美子はかすかに首を横へ動かして、左手で椅子をすすめた。
「どうも……。お医者様ともお話ししましたら、信じられないくらい頑丈ですね、ってびっくりされていましたわ」
多美子は、何も言わない。もちろん弓子にも分っている。——ただ元気でいるだけでは、何の意味もないのである。ピアノのない影崎多美子は、抜けがらでしかない。
「ご迷惑……かけたわ……」
思いの他、はっきりした言葉だった。
「いいえ、そんな。こちらこそ、気になっていたんです。でも——ファンの方から、心配して山ほど手紙が来ています。今度お持ちしますわ」
多美子が初めて笑みを浮かべた。
「あの——何か必要なものは? おっしゃって下さいな」
と言ってから、弓子は付け加えた。「グランドピアノ以外のものでしたら」
「そうね……」
と、多美子も小さく笑った。「もう……おしまいかしら」
「影崎さんらしくもない! 負けちゃだめですよ。ピアニストとしては、まだまだこれからじゃありませんか。幸い、手の方はちゃんと動くとお医者さんもおっしゃってますし」
弓子は少し強い口調で言った。
「ありがとう」
「親子共演でも。ぜひうちのホールで、カムバックして下さいね」
「親子?」
「そのみさんがリサイタルをやられるんです。お聞きじゃありませんでした?」
「ああ……。由利がそんなことを——」
と、小さく肯き、「そのみは気負いすぎるから……気を楽にさせてやって下さい」
娘のことになると、はっきりした言葉が出てくる。やはり心配なのだ。当然のこととはいえ、弓子は胸を打たれた。
「由利さんとデュオを一曲やられるんですよ。プーランクを」
「由利と?——あの子、そんなこと言ってなかったわ」
「先生が怖かったんじゃないでしょうか」
と、弓子はいたずらっぽく言った。「ご本人もお忙しいし……」
「由利……勤めを変ったのかしら。聞いてます?」
と、多美子が少し心配そうに、「昼間の妙な時間に来たり……。服装も、何だか少し変ったわ」
病人は敏感なものだ。いつもの多美子なら、由利の服など、気にもしないだろう。しかし、弓子としては、由利がCFに出るという話をしていいものやら、判断がつかなかった。
「今度うかがっておきますわ」
と、逃げることにした。「あの——」
誰かがドアをノックした。弓子は立って行ってドアを開けた。
「——まあ」
「あ、どうも……」
松原紘《こう》治《じ》は、ちょっと頭を下げて、「この間は失礼して」
「いいえ」
と答えてから、弓子は松原が言っているのが、多美子の倒れた夜、この病院へ一緒に来ると言って、姿を消してしまったことだと気付いた。
「起きてらっしゃいますよ。どうぞ」
「はあ」
松原は、おずおずと、ぎこちないさりげなさで、ベッドへ近付くと、
「やあ」
と、言った。「どうだ」
「見た通り……」
と、少しかすれた声で言って、「座ったら」
「うん」
松原は、椅子に腰をおろした。「また弾けそうか」
弓子などには言いにくいことをポンを訊けるのは、やはり夫婦だったせいだろうか。
「医者は、そう言ってるけどね。どうだか」
と、多美子が言う。
「お前らしくないな。医者がだめだと言っても弾いて見せる、とでも言わなきゃ」
と、松原が淡々と言う。
「そうね」
と、多美子がちょっと笑った。「あなたにそう言われちゃおしまいね」
松原も笑顔を見せたが……。
「——彼女は元気?」
と、多美子が訊いた。
松原が少し前かがみに目を伏せて、肯く。
「元気だ」
言葉とは裏腹に、松原の眉《み》間《けん》に深いしわが寄った。
「何かあったのね……」
と、多美子が言った。「すぐ分るわ、あなたの様子で」
佐竹弓子が、
「私、もう失礼させていただきます」
と、声をかけた。「じゃ、また伺いますので」
「どうもありがとう……」
と、多美子が肯いて見せた。
弓子は、廊下へ出て、ドアをそっと閉めながら、多美子と松原の話を聞いていたい誘惑にかられた。もちろん実際にそんなことはしないけれども。
何か、よほど微妙な話なのだろう。その空気を感じたので、席を外すことにしたのである。——腕時計を見る。もう戻る時間だ。
エレベーターの方へと、弓子は歩いて行った。
——病室では、松原が、多美子の病状を聞いていた。
もちろん、多美子自身の説明は、「怠慢な医者」の悪口にしかならない。しかし、文句を言っていられる内は大丈夫だ。
「明日の夜な……」
と、松原が唐突に言った。
「明日?」
「宏美が久しぶりにステージに出る」
多美子は、ちょっと目をしばたたいて、
「宏美さんが……。何を弾くの」
「ピアノ五重奏と言ったかな。ドヴォルザークだそうだ」
「ゲストね」
「うん。——今井初《はじめ》というヴァイオリンの……。知ってるか」
「今井って——そのみとどうとか」
「うん。そうらしい」
多美子は、かつての夫の表情を、じっと探るように見て、
「それで、やって来たのね」
と、言った。
「僕は……間違ってたんだろうか」
松原は、独り言のように、「宏美はこの何週間か、まるで昔に戻ったように若くなった。——いや、それまでだって、幸せだったはずだ。それは確かだと思う。だが、この何日かの、宏美の様子は、全く違ってるんだ」
「何かあったの」
松原は、初めの練習のとき、宏美が夜遅くまで帰らず、大変だったことを話した。
「——それからは、宏美も気をつかっている。ただ、あのとき、思ったんだ。宏美は結婚したことを後悔してるんじゃないかと」
多美子は黙っていた。
「結局、あいつも音楽家なんだろうか」
と、松原は言った。「本人は、これ一度きりだと言ってる。——僕としては、やりたければやってもいいじゃないか、と——。そう言ってやるべきだ。そう思ってるんだ。しかし……」
「私のようになっちゃ困る?」
と、多美子がかすかに笑みを浮かべる。
「いや、そうは言わないが——」
「分ってるわよ。あなたの気持は」
多美子は、天井へ目を向けた。「心配してもしようがないこと。宏美さんが、もしプロとしてやって行くのなら、誰にも止められないわ。でも——私は難しいと思うけどね」
「そうか?」
と、松原は顔を上げた。
「心配なのね。宏美さんが傷つくのが」
と、多美子は言って、松原を見た。
「当人は張り切っている。しかし、どんなものかと思って……。もちろん、そんな大ホールでのコンサートじゃない。評論家が来るかどうか分らないさ。しかし、もし、批評でも出て叩《たた》かれたら……。仕事の厳しさは、良く知ってる。あれだけのブランクがあったんだ。取り戻すのは容易じゃあるまい」
「やさしいのね」
と、多美子は笑った。「ちょっと、妬《や》けるわ」
「何だ。お前らしくない言葉だな」
「そう?——私だって、人に頼りたくなることがあるのよ」
と、多美子は呟《つぶや》くように言って、「大丈夫、心配することないわ。一度やって、辛《つら》いと思えばやめるでしょうし、叩かれたって、音楽家は少々のことでは傷つかない。それに、宏美さんにはあなたも、早《さ》苗《なえ》ちゃんもいるんだから」
「ああ……。そうだな」
「明日、行くの?」
「そのつもりだ」
「頑張って、と伝えて」
「そうしよう」
松原は、大分気が楽になった様子で、立ち上った。「また来る。——しかし、立派な部屋だな。高いだろう」
「出してくれてる人がいるの」
松原が意外そうに、
「個人で? パトロンかい」
「そんな洒《しや》落《れ》たもんじゃないわ」
と、多美子は言った。「亭主よ」
松原が絶句していると、ドアがゆっくり開いた。
「由利——」
と、松原が振り向いて、「何だ。ずいぶんきれいにしてるな」
「お父さん……。来てたの」
由利は、紙袋をさげていた。「お母さんのお弁当。口がおごってるから」
「ご苦労だな。——もう行かないと」
松原は、ちょっとためらってから、「また来る」
と言って出て行った。
由利は、母のベッドへ近付いて、
「どう? 食欲ある?」
と、声をかけた。
「まあまあね」
多美子は肯いて、少し体を起こした。「由利——」
「うん?」
多美子は少しの間、じっと由利を見ていたが、
「何でもないわ」
と、首を振った。「何を買って来てくれたの?」
「松原さんですか」
病院の一階、正面玄関を出ようとした所で、呼び止める声があった。
「はあ」
松原は、その垢《あか》抜《ぬ》けした印象の紳士を、不思議そうに眺めた。
「西《にし》尾《お》と申します」
と、その紳士が言った。「ちょっとお話ししたいことが」
「何でしょうか? 仕事がありますので」
「お手間は取らせません。私は多美子さんの夫です」
松原は、目をみはった。
「恋人ができたの」
と、由利は言った。「おかしくないでしょ。もう二十一よ、私」
「それで、その格好?」
と、多美子は由利の買って来た弁当を食べながら、呆《あき》れたように、「その恋人の趣味なの? 安っぽいアイドルタレントみたいな格好するのが」
由利は、母をにらんで、
「私の自由だわ、何を着ようと。干渉しないで!」
と言った。
「むきになって。——遊ばれてるんじゃないの?」
由利は、口をつぐんだ。今の母と喧《けん》嘩《か》してはいけない。心臓に負担をかけることになるだろう。
「あんた、そのみと弾くんだって?」
由利はギクリとした。
「一曲だけよ」
「何を弾くの」
「プーランク……」
「譜面を持ってる? 見せてご覧」
由利は、バッグから楽譜を出して来て、母へ渡した。
パラパラとめくって、
「そうね。そのみとあんたなら、弾けるでしょ」
と、肯いた。「ペンを。——テンポを入れといたげるわ」
「結構よ」
由利は母の手からパッと楽譜を取り上げた。多美子が表情をこわばらせて、由利を見る。
どうして——どうしてこんなことをしたんだろう、と由利は思った。母の気持を、踏みにじるようなことを。
好きにさせておけば良かった。もし、母の記入したテンポが気に入らなかったら、変えればいい。それを……。
「お姉さんと二人で決めるわ」
と、急いで言った。「自分で決めるべきでしょ」
「そうね。悪かったわ」
母の口調には、いくらか皮肉が混って聞こえた。
「もうあんたはピアニストを見限ったと思ってたからね」
由利はゾッとした。母があのTVのCFを見たらどう思うか。
「行くわ」
と、急いで仕度をする。「お姉さんと合せるの」
「由利——」
「また来るわ!」
由利は逃げるように、病室を出て行った。