私鉄の電車で三十分。駅からの徒歩で十五分。——さらに余裕を見た二十分。
丸々一時間も、松原は早く着いてしまったのである。
やれやれ……。
松原は、足を止めた。——会社は休みを取って、時間がある。
しかし、全く知らないホールなので、念のために早く出て来たのだが、いくら何でも、こうも順調に着いてしまうとは思わなかったのだ。
ホールの場所も確かめたが、もちろん開いていない。開場は三十分前だ。
「どうするかな」
駅前に戻って、松原は周囲を見渡した。
新しい駅で、駅前もまるでオモチャのようにカラフルに可愛い。真新しい住宅や団地、マンションが高台に並んでいる。
コンサートは午後三時から、という変則的な時間だった。主婦が終演後に帰宅して、夕食の作れる時間、ということなのだそうだ。しかし、宏美の話ではチケットも八割方捌《は》けているという。無名のカルテットとしては上出来である。
松原も、多美子と一緒にいる間、大勢の若い演奏家たちが、自分でリサイタルのチケットを苦労して売っているのを見て、同情していたものだ。
ろくに音程もとれないポピュラー歌手が何万人もの客を集めて、必死で腕を磨いて来たピアニストが、たかだか四、五百人の客を呼べないのだから……。
しかし、そんなグチをこぼしていても仕方ない。
朝から宏美は出かけ、松原は早苗を宏美の母の所へ預けて来た。当然、娘の演奏を聞きたいだろうが、早苗を預かる方が大切、と割り切ったようで、上機嫌だった。
昼食を——というか、朝昼兼用だが——軽くしかとっていないので、少しお腹が空いて来た。食事のできる所、と見回すと、スーパーマーケットのビルがある。中にレストランぐらい入っているだろう。
デパート風の造りで、中は小さい子を連れた母親で溢《あふ》れている。
食堂も行ってみたが、子連れのせいでにぎやかなこと……。逃げ出して、結局、売場の奥のティールームが比較的静かだということを発見した。
サンドイッチとコーヒー。
まあ、しばらくはもつだろう。若者ではないのだから。
ガラス張りの店内は、表の明りがまぶしいほど射《さ》し込んでくる。
目を細くして、表の風景を眺める。
〈ホテル〉というネオンが——もちろん今は光っていない——ビルの向うに覗《のぞ》いていた。
車で入って、一時間とか二時間とか休憩して出てくる、あまり表通りにはないホテルの一つである。
松原は、少し微笑を浮かべて、運ばれて来た真黒なコーヒーをそっと飲んだ。味は、見かけほど悪くない。
——ああいうホテルに、宏美と入ったことがある。もちろん、多美子の目を盗んで会っていたころのことで、わずかな時間に、お互い、貪《むさぼ》るように抱き合ったものだ。
宏美はよく泣いた。——松原に妻を裏切らせ、自分は師を裏切っている、という思いのせいだったろう。
今は、遠い昔のことのような気がする。正直なところ、松原は宏美が本当について来てくれるとは信じていなかったのだ。結婚してみれば、やはり「年齢の差」に失望し、幻滅して、去って行くのではないか、と……。
早苗が生れ、宏美が乳を含ませているのを見て、松原は時々、目《め》頭《がしら》を熱くしたものだ。中年男の感傷か。しかし、その涙を、恥ずかしいとは思わなかった。
「——どうぞ」
サンドイッチが来て、思ったよりはいい味だった。松原は、今夜、宏美と二人で夕食をとろう、と思った。祝福してやるべきだ。たとえこれきりでステージに立たないとしても——自分と結婚するために、宏美が捨てたあまりに多くのものを考えたら、「ドヴォルザーク」に嫉《しつ》妬《と》しても始まるまい……。
あの〈ホテル〉の駐車場の出入口が、ちょうど松原の位置から見えている。そこから車が一台、ゆっくりと出て来て、こっちへ曲って来た。
このスーパーのわきの通りへ入ってくると、松原がすぐ下に見下ろす信号の手前で、道の端へ寄せて停る。
そして——車から、宏美が降りて来たのである。
松原は、無意識にサンドイッチをかみしめていた。
宏美……。間違いなく宏美だ。服も、見覚えがある。いや、ちゃんと顔も見える距離なのである。
宏美は電話をかけに車を出たらしい。すぐに戻ると、車は走り去って行った。
——今井君。今井君がね……。
宏美はよくそう話して笑った。太ってるの、若いくせにね。
松原は、今井という男を弁護してやったものだ。そのみと一緒にいたら、やけ食いして太るさ。
宏美は愉《たの》しげに笑った。——愉しげに。
今、あのホテルで、宏美は今井と愉しげに笑って来たのだろう。この馬鹿な亭主のことを……。
松原は、とっくに空になったカップから、幻のコーヒーを飲みつづけていた。
「やあ、来てくれたの?」
今井が、会場の前に、由利を見て、嬉しそうに声をかけた。
「ええ。招待状、姉さんとこからせしめてね。宏美さん」
「久しぶりね」
と、衣《い》裳《しよう》を入れた大きな袋を手に、宏美はやって来た。「何だか、きれいになって」
「みんなそう言うの」
と、大げさに、「以前は、よっぽどひどかったのね」
「入りましょう。楽屋へ来てよ」
「いいの?」
「構わないわ、開場まで三十分以上あるし」
由利は、今井たちと一緒に〈楽屋口〉から入って行った。
「緊張よ」
と、宏美は言った。「人前で弾くの、何年ぶりだろう」
「旦那様は来るの?」
宏美は、ちょっと目をそらして、
「そのはずよ」
と言った。「今井君。他の人たちに、由利さんを紹介してあげて」
「あ、本当に……気にしないで。適当にやってるから」
今井以外は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、全部女性である。今井が、
「影崎多美子さんの娘さんだよ」
と紹介すると、一瞬、声が洩《も》れた。
由利は、久しぶりにこの感覚を味わったのだった。
「——さ、少し合せとくか。ピアノはもういいって」
弦の音が、ホールに響く。
由利は、ステージから空の客席を眺め回した。客のいないステージは怖くない。怖いのは何百、何千の「眼」である。
「もう少し椅子、退《さ》げる?」
「ピアノが入ったら、左右へ広がるだろ。もうちょっと近付けて……」
「譜面台は?」
「あるはずだよ」
色々な言葉が飛び交う。——少しずつ、緊張が増していくのが、聞いていて分ってくる。それは、快く張りつめた糸のようで、弾けば美しく鳴り響くかと思えた。
宏美は、後半のドヴォルザークの五重奏曲のために、今はステージの隅へ寄せてあるグランドピアノに向って、軽く指ならしをしている。調律は、うまくできているようだ。
「由利さん、弾く?」
と、宏美が振り向く。
「とんでもない」
「でも、出るんでしょ、そのみさんのリサイタルに」
「惨めな引き立て役」
と、由利は笑って言った。
宏美が、ピアノを弾く手を止めた。
「あなた」
由利は、父がステージに出てくるのを見て、ちょっと意外な気がした。
「もう来たの。早かったのね」
と、宏美が立って行く。
「ああ。早すぎたよ」
由利は、父の様子がおかしいことに気付いていた。——何かあったのだ。
「あ、どうも」
と、今井がヴァイオリンを椅子に置いて、やってくる。「今井です」
「ここにいても仕方ないでしょ。客席に座っていたら?」
「宏美。荷物を持って来い。帰るんだ」
当惑が、ステージの上を走った。
「帰るって……」
「理由は分ってるはずだ」
と、松原は言って、「今井君には、少なくともな」
本気だ、と由利は悟った。
「お父さん——」
「由利。お前には関係ない」
と、松原は遮って、「君らが、駅の近くのホテルから車で出てくるのを、見ていた」
宏美がサッと青ざめ、身を震わせた。
「あなた……」
「君がピアノに夢中になって、僕のことを忘れるのなら、諦めもする。しかし、この男と会うのが目的でこんなことをしているのなら——」
「違うわ。そうじゃない。ただ……」
「ただ? 何なんだ?」
松原は、厳しく問い詰めるように言った。そして、同様に棒立ちになっている今井の方へ、
「妻を連れて帰る。文句があるかね」
と、言った。
「松原さん……。僕の責任です。ただ、コンサートはもう中止できないんです」
「私の知ったことじゃない」
松原は、宏美の腕をつかんで、「行こう」
と促した。
「待って下さい」
今井が、松原の肩に手をかけた。
「手を離せ!」
由利は、父がこれほど怒りをあらわにするのを、初めて見た。——宏美と今井が?
何てこと!
「貴様は——」
松原が、今井の胸ぐらをつかんだ。
「やめて!」
宏美が二人を引き離そうとした。「やめて、あなた!」
「どけ!」
二人の男がもみ合ってよろけた。宏美が、それに押される格好で、タタッと後ずさった。
「危い!」
由利は叫んだ。——宏美が、ステージから落ちるのが見えた。
「宏美さん!」
由利は駆け出した。
「——骨がやられてるかもしれない」
と、由利は言った。「何てことしたの」
ステージから、松原と今井が見下ろしている。三人の弦の女性たちも、呆《ぼう》然《ぜん》と眺めているばかりだった。
宏美は、床に座り込んで、左腕の痛みに、顔をしかめていた。赤く、はれ上っている。
「医者へ連れて行くわ」
と、由利は立ち上った。
「私が送って行く」
と、松原がステージから降りる。
「お父さん——」
「由利。こんなことになるとは思わなかったんだ」
「ええ。分ってるわ」
由利は今井の方へ向いて、「今井さん。自分のしたことが分ってる?」
と、厳しく言った。
「ああ……」
今井は、しゃがみ込んだ。何を言っていいかも分らない様子だ。
「——ねえ」
と、チェロの女性が言った。「どうするの? あと二十分で開場よ」
今井は、ぼんやりしているばかりだ。
宏美はやっと立ち上ると、
「由利さん……。代りに弾いてくれない?」
と、弱々しい声で言った。
「私は無理。弾いたこともないわ」
「そう……。この腕じゃ……」
しかし、今井も、とても演奏できる状態ではない。誰もが途方にくれていた。
足音が——コツコツとステージ上へ出て来た。
由利は、目を疑った。
「お姉さん」
そのみが、今井のそばまでやってくると、
「立って」
と、言った。「第一ヴァイオリンがそれでつとまるの?」
「そのみ……」
「ピアノは私が弾くわ」
「お姉さん……」
「大体憶えてる。できると思うわ」
そのみはきびきびと言って、「後半でしょ?」
弦の女性たちが、黙って肯く。
「リハーサル室にピアノが二台ある? じゃ由利。弦のパートを弾いて。曖《あい》昧《まい》な所だけでいい」
「分った」
と、由利は肯いた。
「そのみ。——すまん」
と、松原がステージの下から言った。
「話は後。お金を払ってチケットを買ったお客さんたちが待ってるのよ。その人たちには浮気も夫婦喧嘩も関係ない。今井君。あんたがしっかりしないでどうするの」
そのみは大きく見えた。一人で、ステージを圧するようだ。
母に似ている。——由利は、そのみを見て、そう思った。まるで母が若返って、そこに立っているかのようだ。
今井は、背筋を伸ばして真《まつ》直《す》ぐに立つと、
「じゃ、誰かホールの人に連絡して。貼《はり》紙《がみ》を出してもらおう。ピアニストの交替だ」
と、しっかりした声で言った。
「私が行くわ」
チェロの女性が、楽器を床に寝かせて、足早に袖《そで》へ向かう。
「名前の字を間違えないでね」
と、そのみが後ろから声をかけ、ふっとその場の空気が和んだ。
「お父さん、宏美さんを病院に」
と、由利は言った。
「うん。分った」
松原は、宏美の肩に手をかけると、「痛むか」
と、訊いた。
「そうでもないわ……」
宏美の言葉は、「あなたの痛みほどじゃない」と言っているように聞こえた。
「由利。練習」
と、そのみがぶっきらぼうに言った。
「はいはい」
由利は何となく嬉しくなった。——どうなるかと思った瞬間が過ぎて、今、コンサートだけが、目の前に迫っている。
由利は急いで姉について袖へさがって行った……。