力強い和音の残響がホールの中を一巡りしてから、拍手が起った。
ピアノの前から、そのみが立ち上る。今井や、他の弦のメンバーの女性たちも。
誰の額にも汗が光っている。そのみの顔には汗はなかったが、頬《ほお》が紅潮している。
由利は、ステージの袖で手を叩いていた。
このドヴォルザークがプログラムの最後ということもあるにせよ、拍手の波が一段と大きいのは、そのせいばかりでもなかった。
そのみを先頭に、袖へ入ってくる。
「ああ、窮屈!」
そのみは、戻ってくるなり言った。「このドレス! よく入るわね、こんなので」
そのみもドレスまでは用意していないので、宏美が持って来たものを着たのである。何とか着られたものの、やはりぴったりというわけにはいかない。
「やったね、お姉さん」
と由利は言った。「ほら、ステージに出て」
「はいはい。冷たいタオルくらい用意しときなさい」
「私はマネージャーじゃないのよ」
由利は、今井が汗もふかずに、じっとヴァイオリンを握りしめているのを見た。全力を出し切った、という満足感が、表情に現われている。
「出るわよ」
そのみが促して、全員がまたステージへ戻って行く。拍手がまた盛り上る。
もちろん、ここの聴衆の大部分は、自分で楽器などできない人だろう。しかし、誰の耳にも、「最後の何とかいう曲の何とかいうピアニストは巧《うま》かった」のである。
前半の二曲のカルテットでは、客席で居眠りする人も見えたが、最後のドヴォルザークは、ピンと張りつめた緊張感がホールを支配して、楽章の間もほとんど咳《せき》払《ばら》いの音がしなかった。
やはり、そのみのピアノの力である。弦の四人を、完全にピアノが引っ張っていた。力強いフォルテの音量だけでも、そのみのピアノは弦を圧倒しそうだった。
もちろん、室内楽だから、ちゃんとピアノがかげに回る部分では、そのみも弦を支えたが、その音色の多彩さは、聞く者をひきつけていた。
三回、カーテンコールでステージへ出ても、拍手はおさまらなかった。
「——アンコール、やる?」
と、由利は言った。
そのみは息をついて、
「他の曲はできないわ」
と言った。「いくら何でも、ぶっつけ本番じゃね」
「君一人で弾いてくれ」
と、今井が言った。「お客も喜ぶよ」
そのみは今井を見た。
「私、一人で?」
「うん。その方が——。なあ」
他の弦の三人も、肯き合っている。
「馬鹿ね」
と、そのみは言ったが、本気で怒ってはいなかった。「これはあなたたちのコンサートなのよ。いいわ、ドヴォルザークのスケルツォをもう一回やりましょう。できるでしょ?」
「ああ。でも——」
「筋は通さなきゃ」
と、そのみは言って、「今井君、お客にそう言って」
「分った」
そのみは、由利へチラッとウインクして見せて、ステージへ出て行く。
由利は、スケルツォ楽章がもう一度演奏されるのを聞いていたが——ふと振り向くと、宏美が立っていた。
「宏美さん、大丈夫?」
と、小声で訊く。
「ええ」
左手首から腕にかけて、たっぷり包帯を巻かれている。「折れてはいないって……」
「良かった。——聞いてた?」
宏美が肯く。
「客席の隅で……」
「そう。ともかく何とか無事にすんで——」
と言いかけて、「ごめんなさい。でも——また弾けるわよ、宏美さん」
宏美は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ……。甘かったわ」
「甘かった?」
「そのみさんのピアノ……。音色も、表情も、あんなに豊かで、キラキラしてて、笑ったり泣いたりしてるようで……」
宏美はじっとステージで弾くそのみの背中を見つめていた。「——あれがプロの仕事ね。私、とても……。どんなに頑張っても、もうそのみさんに追いつけやしない」
宏美は、深々と息をついて、
「近所の子供たちにピアノを教えて、その内天才に出会うのを楽しみにしてるわ」
と、言った。
「宏美さん」
「もちろん、あの人が許してくれたら、だけど……」
「早苗ちゃんがいるわ。そうでしょ?」
宏美は、やっと微笑を浮かべた。
「そうね。迎えに行かなくちゃ」
「行って。父は——大丈夫よ。宏美さんには甘いから」
宏美は、由利の言葉にちょっと笑った。
アンコールが終り、再びホールは拍手の渦に巻き込まれた……。
「——くたびれた」
と、そのみが着がえて楽屋から出てくる。「このドレス……。あの人は?」
「宏美さん、お父さんと帰ったよ」
と、由利は言った。「早苗ちゃんを迎えに行くからって。お姉さんによろしく言って下さいって」
「よろしくはいいけど、このドレスは?」
「もう着ないって。良かったら使って下さいってさ。私、入るかなあ」
「あんたならやせっぽちだからね」
そのみは大して気にもしていない様子。「じゃ、あんた持ってって」
「うん。——あ、今井さん」
着がえをすませた今井たちがやって来た。
「今日はありがとうございました」
と、女性たちが礼を言う。
「リサイタルの度胸だめし。と言っちゃ失礼ね」
と、そのみは言って、「何か言うこと、ないの?」
今井は、目を伏せて、
「いや……。ありがとう」
とだけ言った。「宏美さんに悪いことしたな」
「私には悪くないの?」
「いや、そりゃあ……」
と、口ごもる。
「どうせ、傷なんかつかない鉄の心臓くらいに思ってるのよね」
と、そのみは笑った。「ま、そうかもしれない。——今井君。また私の所へ転がり込みたかったら、もっと腕を上げてからにして」
今井が、やっと笑みを浮かべて、
「そうするよ」
と言った。
「それにはね」
そのみが今井のせり出した腹をポンと叩いて、「まず、これを何とかしな」
他の三人の女性たちが一斉に笑った。今井は真赤になって、また汗をかいたようだった……。
「——おやすみなさい」
早苗は口の中でムニャムニャと答えて、あっという間に眠ってしまった。
「——寝たか」
居間で、松原は新聞を開いていた。
「ええ」
宏美は、夫の隣に座ろうとして、「——いい?」
「自分の家だぞ」
「あなたの……私の家?」
「そうじゃないのか」
「私は……。でも、あなたはいいの?」
松原は、新聞をたたんでテーブルにのせた。
「君のお母さんには恨まれるだろうな」
「母には分らないわ。私に夢をかけて、それを諦め切れないんだから」
「もう——やらないのか」
と、松原は言った。
「馬鹿なことしたわ。自分を見失ってた」
と、宏美は言って、「虫のいい言い方だけど……。あなた——」
「僕が言ってるのは、今井のことじゃない。ピアノのことだ」
宏美は夫を見た。松原は、妻の肩に手を回して、
「相手が今井くらいなら、ノックアウトしてやれるけどな。グランドピアノじゃ、とてもかなわない」
松原の胸に、宏美は顔を埋めた。夫の胸がこんなに広かっただろうか、と思いながら。
「——もう寝た?」
と、由利は暗がりの中に呟いた。
「なあに?」
そのみは面倒くさそうに、「弾いた夜は、男でも欲しいわね。眠れやしない」
由利は、姉のマンションに泊っていたのだ。
「私じゃお役に立てませんで」
「本当にね。あんたの彼氏、貸してよ」
「いやよ」
と、暗い中で舌を出してやる。「やっぱり今井さんが気になって見に行ったの?」
「今日? 違うわ。あれの腕前は見当がつく。宏美さんの方よ」
「カムバックだから?」
「自分より下手なのを聞くと、自信がつくの」
冗談めかしているが、半分くらいは事実である。
自信をつけるためなら、親友が失敗するのだって見たいかもしれない。それほど、演奏とは恐怖でもあるのだ。
「由利。——あんた、知ってる? お母さんがステージで失敗したのを」
由利は、ゆっくりと姉のぼんやりしたシルエットの方へ顔を向けた。
「お母さんが?」
「そうよ。もうずいぶん前。——七、八年前かな」
「七、八年? 私がまだ中学生くらいだ。どこの話?」
「私だって若かったわよ」
と、そのみは言い返してから、「ウィーンで」
「ウィーン?」
「だから、あんまり知ってる人はいないわ。でも、お母さん、帰ってからずっと仕事をキャンセルしつづけてた」
「知らなかった……。何だったの、失敗って?」
「私も見てたわけじゃないからね」
と、そのみは言った。「もちろん、お母さんも何も言わなかった。私、たまたまウィーンに留学してた子がそこに居合せて、その子から聞いたの。詳しいことは聞かなかったし、もちろんお母さんになんて訊けないでしょ」
「そりゃそうよね」
と、由利は言った。「でも、お母さんだって人間よ。間違えたことくらいあるでしょう?」
「あるわよ。だから、そのときのウィーンでのミスは、たぶんミスタッチなんてものじゃなかったんでしょうね」
母がそんな大きなミスを?——由利などには信じられないことだ。しかし、事実なら母自身にとって、どんなに大きな傷になっただろうか。
「由利。——お母さんと何か話した? 私のリサイタルのことで」
「え? ああ……。少しね」
「何か言ってた、お母さん?」
「別に」
と、由利は言った。「私が恋人作ったって言ったら、機嫌悪かった」
「そりゃ正常だ」
と、そのみは笑った。「後はあんたのTVCFね」
「来週から放映だって。——どうしよう」
「仕方ないでしょ。勘当されたって、今と大して変んないじゃない」
「人のことだと思って!」
と、由利はむくれた。
ふと——七、八年前? ウィーンで?
思い出した。どこかで同じ言葉を耳にしていたことを。
「そうだ。あの人……」
「うん?」
「お姉さん。西尾って人、知ってる?」
「西尾? どこの西尾」
「今、お母さんの入院費用、出してくれてる人なの」
母と結婚しているということは、リサイタルがすむまで言うまい、と由利は思った。
「へえ。パトロン? 知らないな」
「その人がね、七、八年前にウィーンでお母さんと会ったんだって」
「ウィーンで? でも——偶然でしょ、きっと」
「そうだね……」
由利は、母の倒れたときの「インペリアル」という言葉を、思い出していたのだ。西尾も、何か思い当ることがあるように見えたが……。
その母のミスのことと、何か関係があるのだろうか?
「でも——」
と、そのみが言った。
「え?」
「お母さん……。ピアノが弾けるようになるって?」
そのみの言葉は、ほとんど子供が怯《おび》えているような響きを持っていた。
「分んないけどね。でも、コンサートがやれるかどうか」
「お母さんに死ねって言うのも同じね。もう弾けませんよ、って言うのは」
「立ち直るわよ、きっと」
「そう……。最近、分るの、お母さんの気持が」
そのみは、闇《やみ》の中で、じっと目を見開いている。由利にはそれが分った。
「私もね、由利。もし、ピアノが弾けない、って言われたら、死んだ方がいいな」
「変なこと言わないで!」
と、由利は怒って言った。
「はいはい」
そのみは笑って言った。「やっぱり、弾いた夜は、男が必要ね」
「おやすみ」
由利は無理に目をつぶった。