「良二君」
と、呼ばれて、ハッと我に返る。
「あ、ああ、君か。——どうも。お久しぶり」
「毎日会ってるじゃない」
と、知香は不思議そうな顔で、「それとも、私と会ったことなんか、忘れちゃうの?」
「と、とんでもないよ! 誰が忘れるもんか!」
「そう?」
「そうさ。——ね、何か食べようか」
「そうね。今、並んでるわ」
と、知香は肯《うなず》いて言った。
二人とも、学生食堂の、セルフサービスの列に並んでいるのだ。当然、何か食べるためである。
「ああ。——そうか。そうだったね」
久保山良二は、わざとらしい笑い声をだした。若林知香は首をかしげて、
「ねえ、勉強か何かしたんじゃない、もしかして?」
と、言った……。
「いや、別に。勉強なんて、そんな悪いことするわけないじゃないか」
「そう……」
会話も、かなり支《し》離《り》滅《めつ》裂《れつ》ではあった。
二人は、カレーをもらって、サラダとコーヒーをつけ、盆を手に、空いた席を探した。
「奥の方へ行きましょうよ」
と、知香が、どんどん先に立って、奥の方のテーブルへと歩いて行く。
良二は、あわてて知香の後を追って行った。何しろ、郊外にあるこのS大学では学外に出ても、レストランとかそば屋はほとんどないので、この学生食堂を、大部分の学生は利用する。その広さも相当なものだった。
それでもこの昼休みには、空席を待つ列ができる。もっとも、回転も早いので、長く待つ必要はない。
「ここがいいわ」
知香がついたテーブルは、かなり奥まっているせいか、半分ほどしか埋っていなかった。
「うん」
良二は知香と並んで席につくと、黙々とカレーを食べ始めた。
もちろん——知香と一緒に昼食をとれるのは嬉《うれ》しい。でも、今、その喜びに、暗い影が落ちているのも確かだった。
それというのも、あのデブで禿《は》げた米田という警部のせいだ!
もちろん、太っているとか、髪が少ないとかいうことで人を差別するほど、良二は人間ができていないわけじゃない。しかし、その話の中身は、およそお話にならないものだった(変な言い方だけど)。
知香が、泥棒の親分だって? 何を寝言、言ってるんだ!
知香は女子大生、一八歳だぞ! 一八歳の女の子が、泥棒の親分だなんて。一体誰がそんな話、信じるもんか。
そうとも。あの警部、少しおかしいんだ。いや、相当におかしい、と言うべきだろう。
「——良二君」
と、知香が言った。「何をブツブツ言ってるの?」
「え? ——何も言ってないよ」
「今、何だか、『おかしい、おかしい』とか言ってたわよ」
つい、本当に口に出してしまったようだ。良二は笑顔を作って、
「何でもないよ、その……レポートの点がね、つけ方がおかしい、って……」
誰が聞いても言いわけでしかない言い方だった。我ながら、何て嘘《うそ》をついたり、ごまかしたりすることが下手なんだろう、と感心した(!)。
「やあ、君たち、人目を避けて、こんな席に座っとるのかね?」
顔を上げると、テーブルを挟んで向いの席に、西洋史の助教授、安《あ》部《べ》が座るところだった。
「いいえ」
と、知香が微《ほほ》笑《え》んで、「私たち、二人とも『隅における』人間ですから」
「なるほど」
と、安部は笑った。「いや、君はなかなかユニークな女の子だ」
安部は、額が少し禿げ上っているので、老けて見られるが、実際はまだ四〇代の前半だった。スマートな体型、服のセンスも、なかなか渋くていい、と女の子には結構人気がある。
まあ、二枚目とは言い難いにしても、大学の先生、というイメージの中では、かなりいい部分を集めたようなタイプだ。
良二も知香も、安部の講義は取っていた。話術も巧みで、あまり眠くならない、数少ない講義の一つだったのである。
「時に——」
と安部はトンカツ定食を食べながら、「君たちは、S美術館の中世肖像画展には行ったかね」
と、訊《き》いた。
「いいえ、まだです」
と、知香が答えた。「行きたいな、とは思ってるんですけど」
「なかなか充実しているよ。もちろん、ホルバインも悪くないが、名もない画家の手になる肖像画は、時代の雰囲気を伝えてくれる」
「ぜひ行ってみますわ」
と、知香は言った。「久保山君と一緒に。——ねえ?」
「う、うん。もちろん僕も行こうと思ってたんだよ」
良二は、S美術館の場所も知らない。
「そりゃいい」
と、安部は肯いて、「もし、久保山君の都合が悪くなったら、僕が案内してあげよう」
「先生が?」
知香は、目を見開いて、ちょっといたずらっぽく笑うと、「危険だな。先生、独身のプレイボーイって評判ですよ」
「そんなことでひるむ若林君とは思わなかったがね」
と、安部も笑って言った。
そこへ事務室の女性がやって来た。
「安部先生」
「何だね?」
「お電話が入ってますけど」
「分った、すぐ行く」
と、安部は急いで席を立って行った。
「——良二君」
「え?」
「いつ、行く?」
「行く、って……。どこへ?」
「S美術館じゃないの」
「あ、ああ……。そうだね。いつでもいいよ。君の都合のいい時で」
「じゃ、明日、お昼から行かない? どうせ午後は休講よ」
「うん……。構わないよ」
と、良二は言った。「でも——説明してくれよね。僕はさっぱり分らない」
「 あら」
と、知香は澄まして、「私だって。大体、どこにあるの、S美術館って?」
二人は、顔を見合わせて、笑い出した。
平日の午後の美術館は、あまり人の姿もなかった。
その意味では、絵を見に来たのか、人を見に来たのか分らないような、有名な絵を売りものにした展覧会よりは、ずっと「美術」というムードではある。
「いいわね」
と、知香が言った。
「うん」
何だかよく分らないが、でも一応、人並みの感受性を持っている良二は、その肖像画の列に、どこか「歴史の重味」といったようなものを覚えはしたのだった。
「座ろうか」
と、知香が言った。
「うん」
良二は、知香に促されて、会場の一角、少し広くなったスペースに並べられた椅子に腰をおろした。
二人の他には、せいぜい、一人か二人、ポツリ、ポツリ、と絵を見て回る人が目に入るだけ。
二人が口をきかずにいると、ほとんど人の話し声もない。これが都心のビルの中かと思うほどの静かさだった。
「——静かね」
と、知香は、そっと息を吐き出して、「こんな場所って、他にないわね。どこでも、都会は何か音楽が鳴ってたりするし……。私、音楽も好きだけど、でも一日中聞こえてるのって堪えられない」
「そうだね」
「あなた、何が好き? 私、ベートーヴェンの弦楽四重奏が好きなの」
「あ、そう」
良二はいささか焦って、「いや——何でも音楽なら好きだよ」
と、いい加減な返事をした。
知香はちょっと目を伏せて、
「迷惑した? ごめんなさいね」
と、言った。
「迷惑? 君とデートするのが、どうして迷惑なんだい?」
「そのことじゃないのよ」
と、知香は言った。「米田警部に会ったんでしょ」
良二は、不意に訊かれて、どう答えたものか、迷う暇もなかった。
「うん……」
「父のこと、聞いたのね」
「聞いたよ」
良二は肯いて、「でも、お父さんはお父さん、君は君だ。それにあの米田って奴、君のことまで、ひどいでたらめを言いやがって! ふざけてるよ」
「でたらめじゃないわよ」
「そうとも。大体君が——」
良二は、言葉を切って、「何だって?」
と、訊いた。
「本当よ。私、泥棒なの」
——美術館の中は、二人が口を閉じると、相変らずの静寂だった。
しかし、それはついさっきまでの静けさとは違って、重苦しく、同時に、弾《ひ》けば音がするほど緊張した静寂だったのである。
良二は、何といっていいのか分らなくて、黙っていた。
知香が泥棒? そんなことが——そんなことが、もしあり得るとしたら、夜と昼が逆さになっちまう!
知香が立ち上った。
「行きましょ。今日は大丈夫だわ」
「大丈夫、って?」
「時々、尾行されてるの、あの米田警部の部下にね。——でも、大丈夫。今日はいないわ。私のマンションに来て」
知香が歩いて行く。良二はあわてて、後を追った。