良二は、〈平田〉と札の出たドアの前で、ちょっと呼吸を整えた。
それからドアをノックする。——すぐに、
「どうぞ」
と、返事があった。
「失礼します」
良二が入って行くと、正面の奥の机に、平田教授がいた。
習っていないとはいえ、平田教授の顔ぐらいは良二も知っていたが、こうして近くで見るのは初めてだ。
「何か用かね?」
と、平田は、メガネを外した。
「あの——呼ばれて来ました。久保山ですけど」
と、おずおずと名乗ると、
「ああ、君が久保山君か」
平田の、不機嫌そうだった顔が、ふっと緩んで、笑みがこぼれた。「まあ、かけたまえ」
「はあ」
古びた椅《い》子《す》に腰をかける。
「今日、秘書が休みを取っていてね。この忙しい時に、困ったもんだよ、全く。お茶も出せなくて、すまんね」
「いいえ、そんな……」
「いつぞやは家内が困っている時に、助けてくれてありがとう」
「あ——いえ、とんでもない」
と、良二は急いで言った。「奥さん、大丈夫でしたか」
「うん。大したことはなかったんだよ。君によく礼を言っといてくれ、ということだった」
平田は、机の上の本を閉じると、「ところで——」
と、立ち上り、ゆっくりと窓際へと歩いて行った。
一体、何の用事で平田が呼んだのか、良二には見当もつかない。
「君……うちの家内を、どう思う」
と、平田が訊《き》いた。
「はあ?」
良二は面食らった。
「会った印象だ。——どうだね。正直に言ってくれ」
平田の口調は、とらえどころがなかった。
「あの……とても若くて、可愛い方ですね」
「若い、か。確かにね」
平田は肯《うなず》いて、「私よりも、むしろ君の方に近い年齢だ。よく、こんな年寄りと結婚した、と思ってるだろう」
「別に……。他人がそんなこと——」
「まあいい」
平田は、ゆっくりと良二の方へ歩いて来ると、
「学部長選挙が近付いてることは、君も知っているね」
「ええ」
「私も立候補している。しかし、相手の金山は、人脈作りのうまい男だ。私はそういうことが苦手でね」
「はあ」
「目下の情勢では、絶対的に、私が不利なんだよ」
どうして、こんな話を? 良二には分らなかった。
「しかし、私は勝ちたい。金山と私は、ほとんど年齢も違わないから、彼が学部長になれば、私の所へその椅子が回って来るチャンスは、まずない」
平田の口調は淡々としていた。「金山を数で破るのは難しい。となれば、金山が自分から、立候補を辞退するようにもって行くしかない」
「そんなことが——」
「もちろん、容易じゃないさ」
平田は、微《ほほ》笑《え》んで、「そこで、君の手を借りたいんだ」
「僕の……ですか」
良二は呆《あつ》気《け》に取られた。こんな一学生に何ができるというのだろう?
「金山が、立候補を辞退せざるを得ないような、スキャンダルを作り出すんだ」
「作り出す……。つまり——でっち上げるんですか」
「早く言えば、そうだ」
「そんなこと——」
「君の若い正義感が許さないだろうね。しかし、学部長に私がなれたら、もちろん君にとって、大きなメリットが生じる。加えて、かなりのこづかい稼ぎにもなる」
良二は、もちろん、やりたくはなかったが、平田が何を企《たくら》んでいるのか、聞いてみたいと思った。
知香だって、きっと興味を持つだろう。
「——何をするんですか、僕は?」
と、良二が訊くと、平田はニヤリと笑った。
あんまり、品のいい笑いとは言えなかった……。
「何ですって?」
知香が、昼飯を食べる手を休めて、言った。
「僕にさ、奥さんと浮気しろ、って言うんだ。少しイカレてるよ、あの先生」
——学生食堂はもう空《す》いて来ていた。
午後の講義が休講になったので、少し時間をずらして昼を食べることにしたのである。
「和也の奴、どうしたのかなあ」
と、ふと思い付いて、良二は言った。「休むなんて珍しいよ」
「ね、それより——」
と、知香は、良二をつついて、「平田教授の話は?」
「うん。そんな馬鹿なこと言い出したからさ、怒って帰って来ちゃったよ。当然だろ?」
「何だ」
知香が、何だか、がっかりしたような声を出す。
「だって……。当り前じゃないか」
「そりゃね、君の気持は分るわよ。ありがたいとも思うし。でも——その先まで話を聞いて来りゃ良かったのに」
「それじゃ、断れなくなっちゃうかもしれないだろ」
「それはそれ。何とでもなるわよ」
知香は、定食を食べながら、「——気になってるの」
「あのこと?」
「え? ——ああ、殺された部下のことね? そうじゃないの。あれはもう割り切るしかないもん」
と、知香は首を振った。「そうじゃなくて、あの、『先生を殺そう』って言葉の方」
「ああ、あれか」
良二は肯いて、「でも、誰も殺されてないじゃないか」
「うん。——これからかもしれない」
「これから?」
「学部長選挙が絡《から》んでるんじゃないか、と思うのよ」
「まさか、人殺しまで——」
「しっ!」
と、知香がにらんで、「大きな声出さないのよ。いい? もし、誰かを殺す計画が進んでるとしたら、それを止められるのは、私たちだけなのよ」
「だからって、僕が平田教授の奥さんと浮気するのかい?」
「ともかく、教授の説明を聞くのよ。一体それでどうやって金山教授をスキャンダルに巻き込むのか」
「うん……。でも、どうしてもやるのかい?」
「やってみたら?」
「もし——」
「成り行きで、平田教授夫人と浮気しても、怒らないから」
「するもんか!」
と、良二は腹を立てて、言った。「絶対にしない!」
「気が変りました、って言うのよ」
と、知香は言って、ポンと良二の肩を叩《たた》いた。
「行ってらっしゃい」
「分ったよ」
良二が、渋渋、平田教授の部屋へ向った後、知香はキャンパスの中を歩いて行った。
ちょっと気になっていたのは、小西紀子が今日、休んでいることだった。もちろん、休むことはあっても、小泉和也と一緒というのは……。
「でもねえ、まさか」
あの二人が?——ホテルかどこかに行ってるのかしら?
とても想像がつかなかった。
車の音がした。振り向くと、構内の駐車場から出て来たらしい、赤い小型の外国車が、走って来たのだが……。
見ていると、何だかガタゴト変な音をたてて、スピードが落ち、やがて停ってしまった。
どうしたのかしら?
見ていると、女が降りて来た。——知香はびっくりした。
平田千代子だ!
「全くもう!」
と、車に向って、「いやになっちゃうわね!」
と、文句を言うと、ドアをロックして、そのまま、歩いて行ってしまう。
「——置いてっちゃうのかしら」
呆《あき》れて、知香は呟《つぶや》いた。
平田千代子は、さっさと棟の中へ入って行く。
知香は、その車に近付いて、そっと中を覗《のぞ》き込んだ。
「——あなた!」
平田千代子は、教授室のドアを開けるなり、言った。「車が急にエンコよ。何とかして!」
良二に気付いて、千代子は、
「あら、いつかの……。どうもありがとう、あの時は」
「いいえ」
と、良二は頭をかいて、「今、先生はちょっと出られてます」
「そう」
千代子は、入って来て、「ここはどの椅《い》子《す》にも座る気になれないわ」
と、言った。
「すぐ戻られると思いますけど」
千代子は、窓から外を眺めた。——そして、振り向くと、
「久保山君、だったわね」
「はい」
「今夜、私と会ってくれない?」
「え?」
「夫は出張よ、夕方から。——私と会って。ゆっくり話したいの」
千代子の目には、妖《あや》しいような火が燃えていた……。