男の叫び声が途切れた。
「おい! どうした!」
笠間が怒鳴った。
二人の男に押えつけられて動けない良二の方も、何が起こったのか、さっぱり分らなかった。
てっきり、知香の悲鳴が聞こえて来るものと覚悟していたのだ。
シャワールームのドアは半開きになったままだった。
「おい! 返事をしろ!」
笠間がもう一度怒鳴ると……。
ドアがスッと開いて、笠間の手下の男がフラッと現われた。
「どうしたんだ? あの娘は?」
笠間の問いに答えることはできなかった。男は、その場にバッタリと倒れてしまったのである。
一人が駆け寄って、倒れた男の方へかがみ込む。
「——親分」
と、顔を上げて、「死んでます」
「何だと? そんな馬鹿な!」
笠間の顔が真赤になった。
みんなが唖《あ》然《ぜん》としている。——チャンスだった!
つかんでいる手の力が抜けた。良二は、
「エイッ!」
と、思い切り、一方の男の足を踏みつけ、続いて、左外側の男の腹へ、肘《ひじ》鉄砲をくわした。
全く用心していない相手には、効き目充分だった。
「ワッ!」
「いてて……」
二人とも、良二から手を放してしまった。
良二は二人を突き飛ばしておいて、必死で駆け出したのだった。
「逃がすな!」
笠間の声が飛ぶ。
笠間の手下が三人、良二を追って駆け出した。
良二は大学の構内を夢中で駆けた。もちろん、逃げ出したわけで、知香のことを見捨てたように見えそうだが、実際にはそうではない。
あの男が逆にやられたことで、知香が、どんな方法でか分らないが、敵がいることを察し、巧みに逆襲したのは確かだった。そうなれば、むしろ良二が下手に手を出すのは、却って知香の行動を邪魔するようなものだ。
良二としては、ともかく、笠間の手下に捕まらないようにするのが第一だった。
その点、何といっても、大学の中なら、勝手が分っている。良二は、わざと建物の一つを通り抜けたり、二階へ上ると見せて、階段のわきへ回ったり、あの手、この手で、追いかけて来る三人を振り切ろうとした。
一方、良二に逃げられた笠間の方はすっかり頭に来て、
「畜生!」
と、靴で地面をけっとばしている。
「靴がいたむわよ」
背後で声がした。
笠間が振り向きかけると、
「動くと頭を撃ち抜くわよ」
と、知香の声。「そこで亡くなってる奴《やつ》の拳銃をいただいてあるんだから」
「こいつ——」
手下の一人が向って行こうとした。
鋭い銃声が鳴り渡って、その男が足を押えて、転がった。
「——分った?」
「分った」
笠間は肯《うなず》いた。
「手下たちに、離れるように言いなさい」
「おい、退《さ》がれ」
笠間は、ちょっと息をついて、「しかしな、お前一人じゃ、俺《おれ》たち全部はやれないだろうぜ」
「でも、あんたの頭を撃ち抜くことはできるわよ。分った?」
「ああ……」
笠間は、何とか腹立ちを押えている。「うまく逃げたもんだな」
「いくらあんたたちが静かに隠れててもね、ここへ来て虫の声も聞こえない、ってのは、まともじゃないもの」
「そうか。じゃ、知ってたんだな」
「妙だな、とは思ってたの。だから、中の洗面台のコンセントから、コードを引いておいたの。あの人は、びしょ濡《ぬ》れになって、電気の来ている把《とつ》手《て》に触れたのよ」
「ただですむと思ってるのか!」
「さあね。あんたの返答しだいだわ」
「何だと?」
「あんたが、平田千代子さんを殺すのを請け負ったことを、素直に認めるかどうかね」
笠間はフン、とせせら笑った。
——その時、知香も気付いた。
背後に人の気配がある。二人や三人ではなかった。
「おい、今の内にそいつを捨てて降参した方が身のためだぜ」
と、笠間が言った。
笠間の手下たちが、まだいたのだ。
知香は、しかし、迷わなかった。たとえ手を上げたって、助かるわけじゃない。殺されるより、もっと辛《つら》いことが待っているだけだ。
「気が付かないと思ってるの?」
と、全く動じないで、知香は言った。「いい? 後ろの奴が、それ以上近づいたら、笠間の頭をふっとばすわよ」
すると——。「後ろの奴」が言った。
「そりゃ面白いですね、お嬢さん」
知香の顔に、ホッとした笑みが浮んだ。
「宍戸さん!」
今度は笠間が青くなる番だった。
「そいつの手下はみんなおねんねしてますよ。——おい、武器を取り上げろ」
知香は、宍戸がやって来ると、息をついて拳銃を下ろした。
「大した度胸ですぜ、お嬢さん」
「汗びっしょり。ガタガタ震えてたのよ、ほら」
「当り前でさ。で、ご亭主の方は?」
「そうだ!」
知香は飛び上った。「良二さん! 追いかけられてたんだ。——誰かついて来て!」
知香は、良二が逃げて行った方へと、夢中で駆け出した。
もう大丈夫かな……。
良二は、息を弾ませながら、じっと様子をうかがっていた。
「そっちはどうだ?」
「いないぞ」
「向うへ回れ」
遠くに聞こえていた声は、やがてもっと遠くへ去って、何も聞こえなくなった。
やれやれ……。こんなに必死で走ったのは、中学生のころの運動会以来かもしれない。
しかし、結構僕の足もしっかりしたもんだな、と良二は一人で悦に入っていた。
ここは……どこだろう?
建物の中へ逃げ込んで来たのだが……。
「そうか」
安部助教授の部屋がある棟だ。何となく見憶えがあったはずである。
良二は、もう少し待ってから、知香がどうなったか見に行こう、と思った。
すると——。何だか人の声がしたのだ。
何を言ってるのかまでは聞き取れないが、確かに話し声だ。
もしかして、あの声は……。
良二は、足音をたてないように気を付けながら、廊下を進んで行った。
部屋から、明りが洩《も》れている。——安部の部屋だ。
「しかし、君は——」
と、男の声。
「分ってますよ、先生。しかし、向うは実際に手を下した人間ですからね。多少の無理は聞いてやらないと」
と言っているのは、安部だった。
先生? すると相手は——。
「安い金じゃないよ、三百万といえば」
そうか、平田教授の声だ。
「分っています。しかし、何とかなる金額でしょう」
「そうだな……」
平田は、ため息をついて、「それじゃ、本当に三百万でいいんだね」
「よく、言い含めておきますよ」
「分った。——二、三日待ってくれ」
「向うも、一日を争うってことはないでしょう」
と、安部は言った。
「ところで、あの学生は?」
「ああ、久保山ですか」
良二は、いきなり自分の名前が出て来て、ギクリとした。——気安く呼び捨てにするない、畜生!
「心配いりませんよ。今の学生は、人のことなんか考えやしません。隣で人が殺されたって、好きなTV番組が終らない内は一一〇番もしないでしょう」
人のことを馬鹿にしやがって! 良二はムッとした。
「しかしね——」
「卒業、就職、と控えてるんです。大丈夫。うまく丸めこみますよ。任せて下さい」
「分ったよ」
と、平田は息をついて、「じゃ、後はよろしく頼む」
良二が、廊下の隅で息を殺していると、平田が出て来て、足早に歩いて行った……。
やれやれ。——今の話はどういうことだろう?
手を下したのは、とか言ってたところをみると、やはり知香の言っていた通り、平田千代子を、あの笠間という奴の手下に殺させていたのだろう。そして、どうやら金を出せと言われているらしい。
安部がその仲介をしている、といったところなのだろう。
しかし——ここはともかく一《いつ》旦《たん》引き上げるしかないな、と良二は思った。ここで聞いた話を、あの米田って警部へ伝えてやれば、きっと喜ぶだろう。
別に、あの警部に義理があるわけじゃないんだが。
それじゃ、行くか。——良二はそっと振り向いた。
「やあ」
ニヤリと笑ったのは、追いかけて来ていた笠間の手下だった。
「や、やあ……」
良二は、思わず笑顔で答えていたが……。
どうも、ニコニコしてる場合じゃない、ってことは、いくら呑《のん》気《き》な良二にも、よく分っていたのだった。
「——誰だ?」
安部が廊下へ出て来た。そして目を見開いて、
「何だ。久保山君じゃないか。そうか、今の話を聞いてたんだね」
「まあ……そうです」
良二は仕方なく言った。
「入りたまえ」
と、安部は言った。「そこの三人も」