「腹が減った!」
正巳はわざと大きな声で言って、椅《い》子《す》を引いて座ると、「昼はソバだったから、もう四時ごろからお腹がグウグウ鳴って。みっともないっちゃないよ」
陽子は黙ってご飯をよそうと、夫へ渡した。
「——何だ、みんな食べないのか?」
正巳は、その場の気まずい空気に気付かないふりをした。頼むから、このままおさまってくれ。お願いだ。
「あなた」
と、陽子が言った。「お義《と》父《う》さんが……」
「もういいんだ」
と、父、茂也は投げやりな口調で、「俺《おれ》は世話になってる身だ。財産もないし。わがままを言うなんて、とんでもないことだ。身の程知らずだ」
陽子が困った様子で夫を見る。
「父さん……」
と、正巳は言った。「何をむくれてるのさ? 僕は仕事でくたびれてるんだ。頼むからそんな顔しないでよ」
「俺の顔が気にいらなきゃ、消えてやる」
茂也は立ち上ると、さっさと行ってしまった。
「父さん! ——全く!」
正巳は肩をすくめて、「放っとけ、放っとけ。さ、食べよう」
正巳一人がガツガツ食べ出して、陽子と亜紀もはしを取ったが、玄関の方で音がしたと思うと、聞こえよがしにドアが大きな音をたてた。
「出かけたな。——その辺で何か食ってくるのさ」
正巳はお茶をガブ飲みして、「もう一杯くれ。——何だって言うんだ?」
「それが……。アパートを一部屋借りたいっておっしゃるの」
「何だって?」
正巳も、そんなこととは思いもしなかった。「しかし……何のために?」
「それをおっしゃらないんだもの。『俺にだって、プライバシーはある』とか言って、黙ってしまって」
「どうしてまた……。妙な話だな。大体、親《おや》父《じ》だってこの家に金を出してるし、一階の奥の部屋がいいと自分で言ったんじゃないか」
「私に言わないでよ」
と、陽子はふくれっつらで、「今、アパート一部屋借りたら、家賃と光熱費で十万円はかかるわ。とてもそんな余裕、ないわよ」
「うん……。親父だって、そんなこと分ってるだろうけどな」
正巳は首をかしげた。
父、茂也も七十五歳。多少、頭も固くなって頑固なところはあるが、それでも家族を困らせたりしたことは、ついぞなかった。
「亜紀、お前何か聞いてないか?」
正巳は娘の方へ言った。
「何も」
亜紀はそれきり黙って夕ご飯を食べている。
「そうか……」
「あなた、ゆっくりお義父さんと話してみてね」
「分った」
やれやれ……。
正巳は、とかく「もめごと」というものが嫌いである。むろん自分が直接係《かかわ》るのはいやだが、それだけでなく他の人間同士、こじれているのを見るのもたまらない気がしてしまう。
といって、仲裁に入るなんて柄でもなく、ひたすら何も気付かないふりをしているのである。それですめばいいが、しかし今度の場合は、自分の父親のことだ。他人任せにして知らん顔を決め込むわけにいかない。
円谷沙恵子の頼みを断れなかっただけでも気が重いのに、帰ってみればこの状態。正巳はまたため息をついてしまった。
「——ごちそうさま」
と、亜紀ははしを置いて、「ちょっと買物してくる。そこのコンビニで」
「そう。じゃ、ドレッシング、買って来てくれる? いつもの和風の」
「うん、分った」
亜紀は、一《いつ》旦《たん》自分の部屋へ上って、財布を取って来ると、足早に外へ出た。
二十四時間オープンのコンビニができて、ずいぶん便利になった。特に試験の時期など、眠気覚ましにスナック菓子を買いに出ることもある。
コンビニまで歩いて五、六分。
バスが何台もすれ違い、バス停では勤め帰りの人たちがゾロゾロと降りてくる。通り過ぎる家々から、今夜のおかずの匂《にお》いが道へ漂って来ていた。
コンビニの辺りだけがポカッと明るい。亜紀は足を速めた。
「——あ」
と、思わず足をピタリと止めてしまったのは、コンビニの表の公衆電話を使っているのが、祖父の茂也だったからである。
向うは亜紀の方へ半ば背を向けているので気が付いていない。亜紀は、さりげなく茂也の後ろへ回った。
「——ああ。もちろん、そう思ってるよ。——うん。何とかなるさ。——そう、大丈夫だよ」
茂也の言い方のやさしいこと。亜紀は、祖父がこんな口調でしゃべるのを聞くのは初めてだった。
そうか。あのタクシーに乗ってた女の人だ。
亜紀は直感的にそう思った。同時に、祖父がどうして突然「アパートを借りたい」と言い出したのか、分ったのである。
茂也は、まさか自分のすぐ後ろで孫が聞いているとは思いもよらないのだろう。機嫌が良くなったのか、電話が遠いわけでもないだろうに、段々声が大きくなって来る。
「私を信用してくれよ、な? ——うん、そうだとも。あんたを泣かせるようなことをするわけがないじゃないか」
——おじいちゃんに「恋人」?
茂也の話し方からいって、そうとしか思えないと分っていながら、亜紀は、信じたくない気持だった。
何といっても、もう七十五歳なのだ。——いや、「女友だち」がいたとしても、それは構わない。
でも、茂也の口調は「ただの友だち」に対するものにしては、明らかに馴《な》れ馴れしかった。亜紀だって十七である。それくらいのことは分った。
「——ああ、また電話するよ。——今度はどこかへ泊りがけで、どうだね?」
と、茂也は言った。「温泉? いいね! ——うん、どこか捜しておこう。——ああ、心配しなくてもいい。昔の仕事仲間とよく小さな旅行をする。それだと言っとくよ」
聞いていて、亜紀は困ってしまった。
立ち聞きしたなんて知られたら、怒られてしまうだろう。
亜紀はそっと茂也から離れて、ちょうど駐車してあった車のかげに隠れたが、間一髪、茂也が、
「じゃあ……。早く会いたいね。——またかけるよ」
と、電話を切ったのである。
口笛なんか吹いて、茂也は楽しげに行ってしまった。——亜紀はホッと息をついて祖父を見送ったが……。
こと、恋愛となったら亜紀もベテランとは言い難い。しかも、あの年齢になってからの恋……。
むろん、そういうことがあり得るというのは、頭では分る。でも、自分自身のおじいちゃんとなると、やはり平気で放っとくというわけにもいかない。
「——あ、そうだ」
亜紀はコンビニに買物に来たのだということを思い出し、急いで店の中へ入って行った。
「ドレッシング……。和風だよね」
と、棚を捜す。
やはり日本人向きなのだろうか、和風のドレッシングは一本残っているだけ。
亜紀がそれを取ろうと手を伸ばしかけると、ヒョイと他の手が先に取ってしまった。
「あ——」
と、亜紀は思わず口に出した。
「え?」
と、目をパチクリさせて、「君、これ買うんだったの?」
と、その男は訊《き》いたのだった。
「そう……。そうなんですけど」
と、亜紀は言った。
「じゃあ、君が持ってくといい」
大学生だろうか、背も高くて、肩幅の広い、がっしりした体つきだ。
「でも……。それじゃ申しわけないから」
「いいさ、ドレッシング一本ぐらい。別に僕はこれでなきゃってわけじゃないんだ」
「そうですか。じゃ、すみません」
と、渡してもらって、「ありがとう」
「別に、買ってあげたわけじゃないんだから」
と、相手の方が照れている。
大きいけど、何だか「可《か》愛《わい》い」って感じ。亜紀は何となくその色白な顔をじっと見つめてしまった。
「もう、それで買物は終り? ——僕はカップラーメンを買ってくんだ。どれがおいしいんだろ」
と、何十種類と積まれているのを眺める。
「あ、これ——。この新しく出たの、ちょっと辛くておいしいです」
「これ?」
「ええ。ピリッとくるけど、後に残らなくて。——宣伝してどうするんだろ、私って」
と、赤くなると、相手は笑って、
「君のこと、時々見かけるよ」
「え?」
「土手の道をよく歩いてるだろ。僕は夕方、あそこを走るんだ」
「私のことを……」
「今日もね」
と、その若者は微《ほほ》笑《え》んで、「一緒の男の子は気の毒だったね、けとばされて」
亜紀は目を丸くして、
「見てたんですか?」
「後ろから走ってた。大分離れてたけど、見えたよ。男の子が君に——」
「やめて下さい!」
思わず大きな声を出し、店の中の客たちがびっくりして振り向く。亜紀はあわてて小声になって、
「言わないで! あんなこと……。私、それにけっとばしてません。足を踏んづけただけ!」
大して違わないかもしれない。
「それは失礼」
と、面白そうに、「僕はこの近くにアパート借りてるんだ。君原っていうんだよ。君《きみ》原《はら》勇《ゆう》紀《き》。君は?」
「金倉……亜紀です」
「君が『亜紀』? 僕が『勇紀』だ。似てるね」
と、字で書いて見せて、「この近所?」
「ええ、すぐ……。五分くらいの所です」
どうしてこの人、こんなに私のことを訊いてくるんだろ。スラスラ答えてしまう自分自身も、ふしぎだった。
亜紀がすすめたカップラーメンを五、六個抱えた君原という若者は、亜紀と一緒にレジの方へと歩いて行った。
「大学生ですか」
と、亜紀は訊いた。
「うん。N大の二年。一浪してるから二十一歳だけどね。君は高校だろ?」
「二年生です」
「じゃ、十七? 若くていいなぁ」
亜紀はふき出してしまった。
「四つしか違わないのに」
「いや、二十歳の前と後じゃ大違いさ。走ってると良く分る。後でこたえるよ」
と、大《おお》真《ま》面《じ》目《め》に言って、君原はレジのカウンターにラーメンを置いた。
大学生か……。一人っ子の亜紀は、小さいころ「お兄さん」が欲しいとよく思っていた。それはちょうどこんなタイプの男性じゃなかったろうか。
亜紀は我ながら、妙なことを考えてると思って頭を振った。
先に君原が支払いをすませ、亜紀がドレッシングを置いて財布を出す。
「あ、ごめんなさい!」
肝心の自分の買物を忘れていた! 「あの——他に買うものがあるんで、これ、置いといて下さい」
と頼んで、あわてて棚の方へ駆けて行く。
ウォークマン用の電池とか、クリップだとか……。細かい物ばかりだから、手に持っていると落ちそうになる。
「僕が持っててあげる」
君原の大きな手が、亜紀の手にちょっと触れた。亜紀はドキッとして、
「すみません」
——何だか変だ。どうしちゃったんだろ? こんなにどぎまぎして。しっかりしなさいよ、亜紀ったら!
ともかく、買物をすませてしまおう。君原に持っていてもらうのが申しわけなくて、急いだ。すると——。
「そっち行け!」
突然、いやに上ずった甲高い声が店の中に響いた。びっくりした亜紀が覗《のぞ》くと、レジに男が一人——手にあんまり切れそうにない包丁をつかんでいた。
「金を出せ! ここへ置け!」
若い男で、真青になってガタガタ震えている。レジの女の子は大学生のアルバイトらしかったが、よっぽど落ちついている。
「いくらいるんですか?」
なんて訊いている。
「全部出せ! 早くしろ、けがするぞ!」
女の子が千円札の束をつかんで出すと、男はそれを引ったくるようにしてポケットへねじ込んだ。汗が額に光っている。
すると、君原が一瞬の動作で何かを投げた。男は頭を押さえると、呻《うめ》き声を上げてよろけ、包丁が床へ落ちて音をたてた。
アッという間の出来事だった。
君原は、包丁を取り落とした男へと駆け寄って、拳《こぶし》を固めて一発お見舞いした。相手は呆《あつ》気《け》なくのびてしまう。
「警察へ連絡して」
と、君原が言うと、レジの女の子は思いもかけない展開にポカンとしているようだったが、
「——はい!」
と、あわてて緊急時の通報用ボタンを押した。
もちろん、亜紀も呆気に取られて見ているだけだったが、君原が戻って来て、
「ごめんね。君の買物、みんな放り出しちゃったよ」
と言ったので、初めてクリップだのカセットテープだのが床に散らばっていることに気付いた。
「いいんです! だって……」
「電池をぶつけてやったんだ。命中して良かったよ」
と、君原はニヤリと笑った。
店内の客たちが拍手をした。ごく自然に拍手が起ったのだ。君原はちょっと照れた様子で、
「さ、買物をすませたら出ようよ」
と、亜紀を促した。
「——ここです」
と、亜紀は家の前で足を止めた。
「じゃあ……」
と、君原は言って、二人とも何となく黙って立っていた。
「——凄《すご》いとこ見ちゃった」
「いや……。今、思うとゾッとするよ」
「どうして?」
「もし、あれがそれてたら? レジの女の子が刺されてたかもしれない。あいつ一人だったからいいけど、もし他に仲間がいたら? ずいぶん無謀だったよ」
「でも……」
「僕は、あんまり先のことを考えないで行動しちゃうところがあるんだ」
と、君原は反省して、「ま、今夜はうまく行ったけど」
「あんなこと、誰にもできないわ。すてきでしたよ」
と、亜紀は強調した。
遠くにサイレンが聞こえて、
「やっと来たみたい」
と、コンビニの方角を見た亜紀が顔を戻すと——。
君原がいきなり亜紀の肩をつかんで引き寄せ、亜紀はキスされていた。
「——思い立つと、すぐ行動しちゃうんだ」
いたずらっぽく言って、君原は大《おお》股《また》に歩いて行く。亜紀は、一日に二人もの男性にキスされ、天地が引っくり返ったような状態で立ちつくしていたのである……。