正巳は、そのドアの前で、ためらった。
いや、とにかくやって来たのだから、今さら帰るというわけにはいかない。それは分っていたが……。
気配に気付いたのか、ドアが中から開いて、
「金倉さん!」
と、円谷沙恵子が言った。「中へ。——さあ、どうぞ」
初めてというわけでもないのに、気後れしてしまう。
「——こんなに早くいらして下さるなんて。大丈夫なんですか?」
「それどころじゃないだろう」
と、正巳は上って、座り込んだ。
「ええ……。ともかく、何か冷たいものでも? 昼間、暑いくらいでしたものね」
沙恵子は、冷えたジュースをグラスで出すと、きちんと正座した。
「——昨日はすみませんでした」
「ああ。もういいんだよ」
「でも、あんな危ないことをして——。許して下さい」
沙恵子は少し上目づかいに、「奥様、何も気付いておられませんでした?」
「心配ないよ。それより——」
「手紙、今お見せします」
と、沙恵子は立って行って、手紙と写真を持って来た。
手紙はワープロで打たれている。そして写真の方は……。
「——確かに君だな」
沙恵子の顔がはっきり分る。正巳の方は、後ろ姿と、トラックのかげに大部分隠れたりして、誰だか分るまい。
しかし、沙恵子と、死んでいる手塚の顔がはっきり分れば、同じことだ。
「五千万か……。とてもじゃないが……。作れるとしても、せいぜい十分の一だろう」
と、正巳はため息をついた。
「たぶん向うも五千万って、ふっかけてるんだと思います。でも、ともかく一度会って話してみないと」
「向うから連絡が?」
「明日の昼間、会って来ます」
正巳としては、代ってやりたいが、それでは却《かえ》って向うの思う壺《つぼ》だ。
「すまんね……。ともかく金の工面の方法を考えないとな」
「間違っても、怪しいサラリーローンなんかに手を出さないで下さいね。私、怖さをよく知っていますから」
「そうか。そうだったね」
「正規のローンならともかく。暴力団絡みの所だって、表面はとてもていねいで、感じがいいんですもの」
沙恵子は、淡々と言った。
「たぶん……貯金や保険をかき集めれば、五百万くらいは作れると思うよ」
と、正巳は言った。
「奥様に知られずに?」
そう訊かれると、正巳は詰る。
「どうかな……。ま、僕は隠しごとが苦手でね」
沙恵子は立ち上ると、
「夕ご飯、召し上って下さいね」
と言った。
「いや、そういうつもりで——」
「用意してあるんです。お願い。食べて行って下さい」
ちょっとせつない目つきで、訴えるように言われると、断り切れない。
結局、正巳は沙恵子と二人で夕食をとることになった。
「——すてきだわ」
「何が?」
「こうして、金倉さんと二人でご飯を食べてるなんて」
「そうかね……」
正巳は何となく照れくさい。
こんな風に、妻以外の女性の手料理を食べることなんか、もちろん初めてのことである。
「——味つけ、いかが?」
「うん。薄味でいいね。あまり濃いのは苦手で」
「良かったわ」
沙恵子の落ちつきが、正巳にはふしぎだった。
明日は脅迫状をよこした男と会うというのに、こんな風にのんびりと……。ま、食事しないわけにはいかないとしても、だ。
——ゆっくり夕食をとって、正巳は満腹になった。
「ごちそうさま」
「食べて下さって嬉《うれ》しいわ」
沙恵子は微《ほほ》笑《え》んで、「待って下さいね。すぐ片付けるから」
茶《ちや》碗《わん》を運んでしまうと、沙恵子は、明りを消した。
正巳は戸惑って、
「円谷君……」
「分ってます」
沙恵子の姿が、ぼんやりと白く浮かんで見える。——小さな明りが灯《とも》って、
「でも、金倉さん。私に勇気を与えて下さらないと」
「勇気?」
「ええ。——明日、私がその男と会うための勇気」
そう言われると、正巳も何とも言えない。
沙恵子は、布団を敷いた。
正巳は、帰るに帰れず、座っているだけである。
「さあ、金倉さん」
沙恵子はピタリと正巳の前に座った。
正巳は、どうしていいか分らないまま、じっと座っていた。
「ご心配なく」
と、沙恵子は言った。「これは浮気なんかじゃないんですもの。これはお医者さんが患者を治療するようなものなんです。そうして下さらないと、私、明日その男に会うだけの力が出て来ないんです。ですから、後で私があれこれ言って、あなたを煩わせるようなことはありませんわ」
「いや、そんなことは……」
「いいえ、心配なさってるでしょ? 心の底では、きっと。それが当然ですわ。私も、今こうしてお約束する以上のことはできませんけど、どうか信じて下さい」
沙恵子が両手を伸ばし、正巳を抱き寄せた。
振り離すことだって、できた。突き放し、
「そんなことはできない!」
と拒むこともできた。
けれども——正巳はそうするにはやさし過ぎたのである。
抱き寄せられるまま、唇が重なり、そのまま布団の上に倒れ込んで行くと、後はもう流れに巻き込まれた笹《ささ》の舟みたいなもので、小さな渦にクルクルと振り回されながら流れて行く。
そして、それは快い。心地よい流れだった。正巳が今まで知らなかった、軽やかに澄んだ流れ、遠い日の、とっくに忘れてしまっていた感覚だった。
——ゴツン。
「いてて……」
正巳は頭を押さえて呻《うめ》いた。
「あ! どこかにぶつけたの?」
「タンスの角に……」
「狭いから。ごめんなさい」
と、沙恵子は言って笑った。
正巳も笑っていた。ロマンチックなラブシーンとは無縁の人間なのである。
「——円谷君、僕は……」
「沙恵子って呼んで。せめて、今だけでも」
正巳は、呼ばなかった。どうせ二人きりなのだ。名を呼ぶこともない。
正巳は、何もかも忘れて沙恵子のかぼそい体を抱きしめたのだった……。
「あ!」
ワイングラスがテーブルの上で倒れた。
ちょっと手が触れただけで、強く押したわけではないのに、ワイングラスはコトンと倒れ、同時に細くくびれた足の付け根がパキッと折れてしまった。
「ごめんなさい!」
と、陽子はあわてて腰を浮かした。
こぼれたワインが、テーブルの上をサッと広がって、へりから滴り落ちた。
「おっと!」
円城寺が素早くよけたが、間に合わなかった。
ウェイターが小走りにやって来ると、
「お任せ下さい」
と、ナプキンですぐにこぼれたワインを拭《ふ》き取った。
「すみません」
と、陽子は、顔を赤らめている。「飲み慣れない、いいワインを飲むからだわ」
グラスの足が折れてしまったのを見て、
「申しわけないわ。高いグラスなんでしょ」
と、陽子は言った。
「いえ、倒れたくらいでは普通は折れません」
と、ウェイターが言った。「もともと小さなひびが入っていたのでしょう。どうぞご心配なく。——円城寺様、スーツが……」
「大したことないよ」
と、円城寺はスーツのポケットの辺りに飛んだワインのしみを見て、「大丈夫。すぐに落ちる」
「でも……」
陽子は口ごもった。
それで帰ったら、円城寺の妻がどう思うか。それが気にかかった。
「さあ、食事を続けましょう」
と、円城寺は渡された新しいナプキンを膝《ひざ》に広げた。
「——びっくりしたわ」
と、陽子が胸を手に当てていると、
「可《か》愛《わい》い」
と、円城寺が言った。
「え?」
「そういう仕草が少女のようで、可愛い」
「まあ。からかっちゃいけません」
陽子は赤くなってうつむいた。
「しかし、ふしぎだなあ。もう二十年近くも主婦をされてるのに、少しもそんな風に見えない」
「精神的に成長しないってことですか」
と、陽子は言い返した。「それなら、あなたも同じ。わがままな坊やのままですわ」
「坊やで結構。わがまま一杯で生きてやりますよ」
と、円城寺は微《ほほ》笑《え》んだ。
そこへ、
「円城寺様、お電話が」
と、ウェイターがコードレスの受話器を手にやってくる。
「——食事中にかけるなと言ったのに」
と、顔をしかめて、「ちょっと失礼」
「どうぞ、ここで」
「いや、それは……」
円城寺は席を立つと、受話器を手にして急いでレストランを出て行った。
ホテルの中のレストランなので、出れば、ロビーになっている。そこで話しているのだろう。食卓で仕事の話をしたくないという気のつかい方が、陽子には嬉《うれ》しかった。
仕事の電話? ——そうだろうか。もしかして、彼の妻からでは?
電話が円城寺の妻からだという根拠はなかったが、考え出すとそうに違いないと思えて来て、陽子はふと立ち上り、ナプキンを椅《い》子《す》の上に置いて、化粧室へでも行くという様子で、レストランから出た。
ロビーを見回したが、円城寺の姿は見えなかった。どこへ行ったんだろう?
取り越し苦労というものだろうか。——どうしたものかと迷っていると、
「そんな馬鹿な話があるか!」
と、突然怒鳴り声が耳に飛び込んで来て、陽子はびっくりした。
あれは、円城寺の声だ。何ごとだろう?
「——分ってる。そんな言いわけは聞きたくない!」
やっと、その声がどこから聞こえているのか分った。
ロビーの太い柱の向う側にソファがあって、そこから聞こえているのだった。
そっと近付いてみると、
「——ああ、おたくとは長い付合いだ。しかしね、ビジネスはそんな人情話とは違うよ。——そうとも。生き残ろうと思ったら、情なんかかけちゃいられない」
仕事の話には違いない。けれども、陽子は耳を疑わずにはいられなかった。
「——そうか。じゃ、仕方ないだろう。倒産するさ。——こっちはそこまで面倒はみられない」
円城寺は、いつも陽子としゃべっているときの「弱い所を持った普通の男」ではなかった。非情とも見える経営者だ。
「——やめてくれ。会って土下座なんかされても、考えは変えないよ。——そんな惨めな別れ方はしたくないだろ。きっぱり諦《あきら》めて、店をたたむしか……」
円城寺が、陽子に気付いた。
陽子は、じっと立ったまま、円城寺を見つめていた。
円城寺は、しばらく黙っていた。手にした受話器からは、何か必死で訴える声が聞こえている。切れていない限りは、諦められないでいるのだろう。
円城寺の表情が、ふと和んだ。
そして、受話器を取り直すと、
「もしもし」
と、穏やかな声で、「——こっちもついカッとして悪かった。いつなら確かだね?」
しばらく向うの話に耳を傾けてから、
「分った。待とう」
と、円城寺は言った。「——いや、ちょっと気が変っただけさ」
電話を切ると、
「わざわざ僕を捜して?」
「すみません。何だか……。お仕事に余計な口出しを——」
「あなたは何も言ってませんよ。しかし、その目が雄弁でね」
円城寺は立ち上ると、
「さあ、戻りましょう。食事を中断させてしまってすみません」
と、陽子の腕に手をかけた。「——どうかしましたか」
「いえ……」
陽子が少しうつむいて、「何だか——いつも、とても気軽にお話ししているのに、今のお話を聞いていて、そうだった、あなたは大勢の社員を預かる経営者なんだということ——。今まで、そんなこと、忘れていたんですわ、私」
「それは、僕の方だってあなたにそうしてほしいと思っていたからですよ」
「でも、私なんかのために時間を使って——。今みたいに、私が経営者として判断されるのを邪魔するようなことがあって、いいのかしらって……」
うまく言えないのがもどかしい。けれども陽子は、自分がおそらく、どこか円城寺の取引き相手の倒産するのを救ったのだと思うと、それが単なるセンチメンタルな反応だとしても、嬉しかったのである。
「あなたがいてくれて良かったんです」
「え?」
「僕は苛《いら》立《だ》っていた。それは事実なんです。本当にあんな風に相手を追い詰める必要があったわけじゃない。つい、苛々を弱い者にぶつけていたんです」
円城寺は微笑んで、「あなたの目——悲しそうな目が、僕を冷静にさせた。取引きはビジネスでも、それをするのは人間だ、一人一人に家族もおり、恋人もいるってことを、思い出したんです」
「そう言って下さると嬉しいわ」
と、陽子はホッとして、「あなたは私の前にいる通りの人なんだと分って……」
「あなたはやさしい人だ」
円城寺の手が陽子の手をつかんだ。
——陽子は、何の抵抗も感じなかった。
ロビーは静かで、遠くに何人かもの子供が駆け回っているだけだった。
陽子は円城寺の方へ引き寄せられ、ごく自然に唇を重ねていた。——不意に胸が熱くなり、鼓動が速くなった。
——円城寺は、少し陽子から離れると、ふと目を伏せて手を離し、
「レストランへ戻りましょう」
と言った。
「ええ」
陽子は初めて感じた。——円城寺の中の、抑えつけられたもののかすかな波動を。
当然のことだ。男と女なのだもの。
話をしながら、一緒に笑いながら、円城寺は陽子を抱きしめたいと思い続けていた。そして、陽子は?
自分の心の中はよく見えなかった。二人は黙ってレストランへと戻って行った。