「あ、ポケベル——」
と、亜紀は言って、「ごめん」
あわててバッグからポケベルを出して、止める。
「忙しいね」
と、君原がワインを飲みながら言った。
二人して、ドイツ料理のお店に入って夕食をとっている。といっても、高い店ではない。ソーセージやハムが自家製で、安くておいしいのだ。
亜紀は、ポケベルに表示された番号を見て、首をかしげた。——誰だろう?
「ちょっと電話かけて来ていい?」
「ああ、いいよ。君のソーセージには手をつけない」
「食べたら、倍にして返してもらうから」
と、笑って亜紀は席を立った。
この番号は、携帯電話だが、友だちでは持っている子はまだそういない。
店の中は混雑して騒がしいので、外へ出て、電話ボックスに入る。
「——もしもし」
「ああ、良かった!」
と、どこかで聞いた声。
「あの——」
「小百合よ。円城寺小百合」
「ああ!」
亜紀はびっくりして、「携帯電話、持ってるんですか?」
「買ったの」
と、小百合は得意げに、「探偵をやるのなら、これくらいの投資はしなきゃね」
亜紀は、小百合の言い方が、まるで同年代の女の子みたいなので、つい笑ってしまった。
「今、外なのね?」
「ええ、友だちと一緒で——」
「出て来れる?」
「どこですか、今?」
「ホテルN。——たぶん、主人とあなたのお母さんが食事の最中だと思うわ」
亜紀は迷った。
松井健郎から、父のことで、「怪しげな情報」を聞かされたばかりだ。そのショックを忘れて、せめて君原と二人で楽しく食事を、と思っていたのだが——。
「——出にくいようなら、私一人で見張ってるからいいのよ」
小百合は、さすがに年上で、無理は言わない。しかし、却《かえ》って亜紀の方は「そうですか」とは言いにくくなってしまった。
「——行きます」
と、心を決めて言った。
どうせ今日は色んなことの起る日だったのだ。あと一つぐらい——。
待っている場所を聞いて、電話を切ると、亜紀は席へ戻った。
「どうしたんだい?」
と、君原は顔を上げて訊《き》いた。
「ちょっと、急な用で。——ごめんなさい」
と、亜紀は言った。
「そう。じゃ、送ろうか」
「いえ。大丈夫! 一人で行くから」
亜紀は、君原に父のことも母のことも打ち明けていない。だって——一人ぐらいならともかく、祖父、父、母と三人揃《そろ》って「恋人」がいるなんて……。
むろん、祖父は独り身だが、相手の女性は娘のように若い。父にも年下の「彼女」、母には同年代の「彼氏」……。
いくら何でも、そんなこと君原には言えない!
とりあえず、君原に今日のお礼を言って、
「あの——半分払います、私」
「いいんだよ。今日は僕が付合ってもらったからね、あの人形展にも。これぐらいは持たせてくれ」
「でも——」
「一応大学生だぜ、これでも」
「分りました。ごちそうさま」
亜紀は、素直に君原の好意を受けることにして、レストランを出た。
ホテルN。地下鉄で行くのが一番早いだろう。
切符を買いながら、あの奥さんって、面白い人だわ、と思っていた。
まあ、母がよそのご主人とデートしているのを確かめに行くのだから、あまり心弾むというわけにはいかないが、それでもあの円城寺小百合の明るさが、亜紀にとっては救いだった。
いつも〈遺書〉を持って歩くという話と、どうも一致しなかったが、それだけ大人というのはややこしくできているのだろう。
亜紀が割合に楽しく(?)ホテルNへ向っていたのは、君原との今日一日が充実して楽しいものだったせいもある。
「付合い」というのは、互いに相手の「知らなかった顔」を見付けることだ。そうでなかったら、いつも同じことをくり返して、じきに飽きてしまうだろう。
今日の人形、すばらしかった。——そんなことを考えている内、地下鉄は目指す駅へと着いていたのだ。
「——ここよ」
と、頭の上から声がして、亜紀はびっくりした。
見上げると、エスカレーターで上った中二階風のロビーがあり、そこから小百合が呼んでいたのである。
亜紀はエスカレーターを駆け上って、
「ちょっと地下鉄からの通路で迷っちゃった」
「大丈夫。間に合ったわ」
「母たち、どこにいるんですか?」
と、亜紀は訊いた。
「この下のフロアの奥のレストラン」
と、小百合は下のロビーを見下ろしながら言った。
「でも——本当にいるんですか?」
「たぶんね」
亜紀は、小百合と向い合ったソファに腰を下ろした。そこからはロビーがずっと見渡せる。
「別にレストランに訊いたわけじゃないのよ」
と、小百合は言った。「でもね、ここのレストランって、内装が紫色なの。で、うちの主人、いつも無意識だと思うけど、ここへ来るときって、決って紫色のネクタイをしめるの」
「じゃ、今日も?」
「ええ。朝、出かけるときに迷っててね。結局、紫のを選んだわ。きっと、まだあなたのお母さんと約束してなくて、でも、もし会えたらここにしようと思ったんだわ」
小百合の観察力の鋭いことに、亜紀はびっくりした。
同時に、凄《すご》いな、とも思った。夫を奪われるかもしれないって気持、どんなものなんだろう?
「でも……」
と、亜紀は少しためらいながら、「もし本当に母がご主人と出て来たら、どうするんですか」
小百合はロビーへ視線を向けながら、
「どうしようかしらね」
と言った。
小百合にも、たぶん分っていないのだ。亜紀は、こんな所で小百合と母が言い争ったりするところを見たくなかった。
「——ふしぎね」
と、小百合はロビーを眺めながら言った。「大勢、人が行き交うけど、誰もこっちを見上げないのよ。人って、上を見るなんてこと、しないのね」
そう。——確かに、亜紀もそれは意外に感じていた。ほんの少し目を上げれば、こっちと目が合いそうなのに、誰も気付かない。
「だれでもそうなのね」
と、小百合は言った。「自分一人で歩いてると思っていても、誰かが全然気付かない所から見ているんだわ、きっと」
そうかもしれない。——そう思うのは、怖いようでもあった。
「大丈夫。心配しないで」
と、小百合は亜紀を見て言った。「あなたのお母さんと主人が仲良く腕を組んで歩いて行ったとしても、私はそれを確かめるためだけに来たんですもの。ただ、黙って見送るから」
「でも……どうしたらいいんでしょうね」
亜紀が途方にくれたように呟《つぶや》くと、
「ごめんなさい。あなたはまだ知らなくて良かったのにね」
そうだろうか?
亜紀は確かにまだ十七で、大人の恋を知っているわけではない。でも、母の恋は、亜紀と決して無縁ではないのだ。いや、それどころか、亜紀の生活を大きく変えてしまうかもしれない。
「——主人だわ」
と、小百合が言って、ハッとした亜紀はロビーを見下ろした。
母、陽子が歩いて来た。——男と一緒に。
予期していたとはいえ、亜紀は心臓が止るかと思うほどショックを受け、血の気のひくのを感じた。
といっても、陽子と円城寺は手をつないでもいなかったのだ。
何となく黙りがちで、二人して少し目を伏せて歩いてくる。そして、亜紀たちの見下ろしている真下で足を止めると、何か言葉を交わしていた。
亜紀には、母の表情が見えた。——いつも見ている母とは、どこか違う。
でも、楽しそうとも見えなかった。といって、悲しげでもない。淡々として、相手の話に肯《うなず》いている。
何を話しているんだろう?
すると——円城寺が、陽子をそこに残して亜紀たちのいる中二階へ上るエスカレーターの方へ、大《おお》股《また》に歩いて来たのである。
「ここへ来るわ」
と、小百合が言った。
「え?」
「タバコを買いに来るんだわ! どうしよう」
小百合が腰を浮かす。
しかし、もう円城寺はエスカレーターで上りながら、ポケットから小銭を出そうとしていた。亜紀はとっさに、パッと立ち上って、エスカレーターと小百合の間を遮るように歩き出した。
そして、上って来た円城寺とぶつかって、
「あ! ごめなんさい!」
わざとバッグを落とし、「すみません!」
と、あわてて見せる。
「ああ、いや、ごめんよ。僕の方も前を見てなくて」
円城寺がバッグを拾ってくれる。
その間に、小百合は足早にロビーの奥の売店に入って行った。
「どうも」
と、亜紀は礼を言って、下りのエスカレーターで下りて行った。
ロビーでは、陽子が円城寺の戻ってくるのを待って、ぼんやりと立っている。そして、エスカレーターから歩いて来た亜紀へふと目を向けて、
「——亜紀!」
「お母さん、どうしたの、こんな所で?」
亜紀としては、精一杯の名演技であった。
「どうしたの、亜紀?」
母が亜紀と同じ言葉を口にする。
人は取り乱すと、よく相手の言うことをそのままくり返してしまうものだ。
「私、友だちと今、別れたとこ。偶然だね、こんなとこで」
亜紀としては、母をいじめるつもりではなかったが、一《いつ》旦《たん》こう話が進んだ以上、やり通すしかない。
母がどう答えるか、亜紀にも予測できなかった。
「——お母さんも、ちょうどこれから帰ろうと思ってたとこよ」
と、陽子が言った。「本当に偶然ね」
「それじゃ、一緒に帰ろう!」
亜紀は、明るく言った。そして——亜紀は母の視線が、あの中二階の方へ引き寄せられるように上っていくのを見た。
円城寺がすぐに戻ってくるだろう。——母はどうするつもりだろうか? 彼のことを、
「私のお友だちよ」
とでも紹介するのか?
そう思うと突然激しく抵抗するものが、自分の中にあった。自分のことだって、
「これが娘の亜紀です」
と、相手に紹介するつもりだろう。
私は、そんな人と知り合いになんかなりたくない!
「お母さん、帰ろうよ」
と、亜紀は言った。「誰か待ってるの?」
「え? あ、いえ——そうじゃないわ」
「じゃ、帰ろう」
「ええ……。亜紀、あんた、ご飯は食べたの?」
と、一緒に歩き出しながら訊《き》く。
「うん、友だちと。お母さん、まだ?」
「私もすませたわ」
二人は、ロビーを歩いて行った。亜紀には、母がチラチラと背後を気にして振り返っているのが分っていたが、気付かないふりをしていた。
公衆電話の並んだコーナーがある。本当なら、私、ちょっと電話をかけてくる、とでも言って——。母は、その間に円城寺へ事情を説明できる。
そうしてあげるべきだろうか? ——でも、どうして私が母とよその男との付合いの手助けをしなきゃいけないんだろう? そんな必要あるもんか。
「地下鉄で帰るでしょ? あっちだよ」
と、亜紀が矢印の出ている方を見る。
「ああ……。そうね」
と言いながら、母は真《まつ》直《す》ぐ別の方角へ行ってしまいそうになった。
「どこ行くの? こっちだって」
「——あ、ごめんなさい」
と、母が笑った。
母は諦《あきら》めたのだ。亜紀には分った。
「だめね、ぼんやりして」
「本当! 迷子になるよ、そんなんじゃ」
と、亜紀は言った。
母の足どりが急に遅くなった。——亜紀は、反対側のフローリストの花を眺めるふりをした。
そのガラスケースに、あのエスカレーターを下りて来た円城寺の姿が映っている。陽子の姿が見えなくなったので、戸惑ってロビーを見回していた。
亜紀は、並んだ花かごを見て、
「これ、きれいだね」
と、言った。
「え? ——ああ、そうね」
母の笑顔はうわべだけ——と言うほどにも、さまになっていなかった。
円城寺は、一人ポツンと取り残されて立っている。亜紀たちは、地下鉄への連絡口に向う通路へと入りかけていた。
母は、何とか円城寺がこっちを向いてくれないか、気付いてくれないだろうかと、じっと視線を送っている。しかし、大方化粧室にでも行ったかと思っているのだろう。円城寺は、ロビーの隅の灰皿の方へ行って、上で買って来たタバコの封を切っていた。
「——お母さん、行かないの?」
立ち止ってしまった母の方へ、亜紀は言った。
「行くわよ。——ただ、こんな所に来たの、久しぶりだな、と思ってね」
「いつだって来られるじゃない」
と、笑ってから、「——おじいちゃん、どんな具合?」
一緒に歩き出して、
「そう毎日、様子は変らないわよ」
と、陽子は言った。
「お父さんも寄ったの?」
「今日は仕事が忙しいって言ってたから……。昨日、ずっと日なたにいて、疲れたわ」
陽子は少し唐突に言った。
——どうしよう。あの人はどう思うだろう。さっき、くちづけまでかわした相手が、不意に、何も言わずにいなくなってしまったら……。
もちろん、後で事情を説明すれば分ってくれる。でも陽子は、今、円城寺がどう思うか、それを思うとたまらなかったのだ。彼に、「礼儀知らずな女だ」と思われたら……。
しかし、亜紀に何と言えばいいだろう?
ほんの一分でいい。円城寺の所へ戻って、わけを話してくるためのうまい口実はないだろうか。考え悩んでいる内に、どんどんロビーから離れてしまう。——どうしよう。どうしよう。
陽子は、心を決めた。
亜紀がいぶかるかもしれないが、ともかく戻って話して来よう。それが礼儀というものだ。
陽子は足を止めた。
すると——陽子とほとんど同時に、亜紀も足を止めたのである。
そして、
「私、ちょっとトイレに寄ってく!」
と言うと、亜紀は小走りに〈化粧室〉の矢印の方へと駆けて行った。
陽子は、ちょっとの間ポカッとして娘の姿が見えなくなるまで見送っていたが、すぐに通路を駆け戻った。
円城寺がタバコの煙を吐き出しながら、ロビーを見回している。
「——すみません!」
と、陽子が息を弾ませる。
「ああ、どこへ行っちゃったのかと思いましたよ」
と、円城寺は笑って言った。
「娘と会ってしまったんです、ここで」
と、陽子が言うと、円城寺は面食らって、
「お嬢さんと?」
「ええ、一緒に帰ることにしたので——。すみません。黙って行ってしまうのは申しわけなくて」
「それはいいけど……。大丈夫なんですか」
「ええ。——今日はありがとうございました」
陽子は、そう言って頭を下げた。
他に何か言いようはないのか、と思う。楽しかった、とか、今日のことは忘れませんわ、とか。
しかし、結局、これが一番陽子の気持を表していることになっただろう。
ありがとうございました、という言い方が。
——一方、亜紀は化粧室の鏡の中に、自分の顔をじっと見つめていた。
どうしたら良かったんだろう? これで正しかったのかしら?
母は気持を隠すことのできない人だ。あの母の横顔に浮かんだせつない後悔の気持。それは子供の亜紀にも見間違えようのないものだった。
母の中に何かがこみ上げて来て、もう何秒かしたら、泣き出してしまいそうに見え、亜紀は何だか自分が母をいじめているかのような気がしたのである。
とっさのことで、ここへ駆け込んだ。きっと、母は戻って、円城寺にわけを説明しているだろう。
でも——。亜紀はハッとした。小百合が円城寺と一緒にいたら?
心配になって、化粧室を出ると、
「——あら、そんなに急がなくってもいいのに」
母が、いつものおっとりした笑顔を見せて立っている。亜紀はホッとして、
「じゃ、帰ろう!」
と、元気良く言った。