「どうするつもりなの?」
——母の声が居間から聞こえて、ミカは足を止めた。
夜中の二時を回っている。父はニューヨークへ行っていて、来週にならなければ帰って来ないから、母と話しているのは、兄の健郎に違いない。
しかし、それにしては母、照代の言い方はいつになくきついものだった。
松井家では、何となく夜ふかしすることが当り前になっていて、ミカもよくこんな時間まで起きていることがあるのだが、こうして下へ下りてくるのは珍しい。
ちょっとお腹が空いて、寝る前に軽く食べようと思ったのだが——。
洩《も》れ聞こえた母の言葉は、何となくミカの足をためらわせた。
「健郎——」
「急ぐことないさ。そうだろ」
と、健郎の言っているのが聞こえる。
大方、いつもの通りTVを点《つ》けて、ソファに寝そべっているのだろう。時々そのままソファで朝まで眠っていることもある。
「あんたは大学生なのよ。そうやって、うちでゴロゴロして。——ミカにも良くないわ」
「ミカが何か文句言った?」
「ミカがどう言おうと関係ないの。あんたのためを思って言ってるのよ」
健郎は返事をしない。
ミカは、立ち聞きをしているのが分ってしまわないかと、息を殺して身動きをしないでいた。
「——アメリカへ戻りなさい」
と、母が言ったので、ミカはハッとした。
せっかくお兄さんが戻って来たのに! やめて! 行かないでよね。
「向うで何するのさ」
と、健郎は気のない口調で言った。「それとも、僕がいちゃまずいから、アメリカへ行けって言ってるだけ?」
「健郎……。そうひねくれて受け取らなくてもいいでしょう」
「分ってるさ」
兄の皮肉な言い方。——少し間があって。
「何を分ってるっていうの」
——ミカは、母と兄が冷淡な口をきくのを、しばしば耳にしている。しかし、今の二人の話には、ミカが聞いたことのない、とげが感じられた。
「僕がミカのそばにいるのが心配なんだろ?」
自分の名が出て、ミカはドキッとした。
「——ええ、そうよ。兄のあんたが、そんな風に大学にも行かないでいるのを見て、ミカがどう思うかしらね? いい影響があるとは思えないわ」
母の言葉に、ミカは思わず居間へ入って行きそうになった。
お兄ちゃんがまたアメリカへ行ってしまうのなんて、いやだ!
ミカは、兄が大学をさぼっているからといって、自分も学校をさぼろうなんて思ったことはない。それほど子供ではないつもりである。だが、
「それだけじゃないだろ」
と、健郎は、言った。
「どういう意味よ」
「言わなくたって分ってるじゃないか」
ミカは、じっと凍りついたように廊下に立って、母と兄の会話を聞いていた。何か恐ろしいようなものを——予感に近いものを覚えた。
「健郎。あんた、まさかミカにしゃべってないでしょうね」
と、母が言った。
「言いっこないさ」
「本当ね?」
「言ったら、ミカはどう思う? あいつ、十七歳だ。一番敏感な年ごろだよ」
「分ってればいいのよ」
母、照代がため息をつく。「——いつかはミカにも分る日が来るでしょ。でも、今は何も言わないで」
——何のことだろう? 私に、何を隠しているんだろう。
「だから言ってるのよ。あんたにミカから離れてほしいの」
健郎が笑って、
「僕がミカに恋でもすると思ってるのかい?」
「逆よ。ミカがあんたに恋してるんだわ」
ミカは胸をつかれる思いがして、我知らず手を胸に当てていた。
「恋じゃないよ。兄貴は安心して一緒にいられる男だからね。ミカじゃなくても、そんな兄妹はいくらもある」
「それはそうよ。でも、あんたがしゃべらなくても、誰かから聞くかもしれないの、そうしたら——」
「やめてくれよ!」
と、健郎は苛《いら》々《いら》と遮って、「僕だって、ずっとミカを妹のつもりで可《か》愛《わい》がって来たんだ。血がつながってないと分ったからって、急に妹じゃないなんて思えやしないよ」
ミカは——呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
今の兄の言葉がこだまのように頭の中を飛び交って、その後の二人の話が耳に入らない。
母と兄に気付かれないように自分の部屋へ戻るのは、かなり慎重さを必要としたはずだが、実際は気が付いたら部屋のベッドに腰をおろしていたのである。
「お兄ちゃん……」
と、呟《つぶや》く。
血がつながってない? ——それって、どういうことなのだろう。
ミカには、わけが分らなかった。
少なくとも、記憶している限りでは、ミカは兄、健郎と一緒に暮して来た。
むろん、父と母とも。
それでいて、兄と「血がつながっていない」とは、どういうことなのだろう?
ミカは、自分の部屋のベッドに腰をおろしたまま、動かなかった。いや、動けなかった。
けれど、今立ち聞きした兄と母の話は、誤解しようのないものだ。二人が勘違いするわけもないし、ミカの聞き間違いでもない。
どういう事情だったにせよ。自分と健郎とは「血がつながっていない」のである。
つまり——健郎は兄ではない。「兄のような他人」なのだ。
ドアをノックされて、ミカは飛び上るほどギクリとした。
「ミカ。——入っていいか」
兄だ。ミカはあわててベッドから立ち上ると、勉強机に向って座り、
「どうぞ」
と言いながら、置いてあった問題集をめくった。
「お兄ちゃん、何か用?」
「珍しいな。勉強か」
と、健郎は入って来て、「明日、雪かな」
「失礼ね。お兄ちゃんじゃないよ」
と、振り向いてちょっと舌を出して見せる。
健郎は笑って、
「いつまで子供なんだ、お前」
と、ベッドに腰をおろした。
つい今までミカが座っていた凹《へこ》みの上に。ミカはふっと胸苦しいような気分になった。
「——ミカ。お前に話があるんだ」
「うん、なに?」
と、椅《い》子《す》をクルッと回して兄の方へ向くと、「また留学するんじゃないよね」
「行っても、いれてくれやしないって」
「良かった」
と、ミカは正直にいった。
「お前の友だちの金倉亜紀ちゃんのことだ」
「亜紀がどうかした?」
思いがけない話だった。
「この間、代休の日にばったり会った。話したろ」
「うん。CD屋さんでね。聞いたよ。それが?」
「あの子もまだ十七だけど、俺《おれ》は付合ってみたいと思ってるんだ」
兄の言葉がミカの頭に入るまで少し手間取った。何のこと? 付合ってみたい?
「——お前の友だちだし、一応、ちゃんと話しとかないとな。お前は構わないか?」
「うん」
「それならいいけど」
「どうして私が……。お兄ちゃんが誰と付合ったって、自由じゃない」
そうよ。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃないんだから。
「そう聞いて安心した」
と、健郎は立ち上った。
「でも——亜紀も承知してるの?」
と、ミカは訊《き》いた。
「承知っていっても……。今度、デートしようって誘っただけだ。あの子は今、ボーイフレンドがいるんだろ」
「初めてキスしたっていう人?」
「たぶん、そうだ。でも、何も付合うったって、『恋人』だの何だのってわけじゃないんだ。ただ、一緒に出歩いてみようってだけだよ」
「じゃ、亜紀はお似合いよ。しっかり者だし、お兄ちゃんにお説教してくれるかもしれないわ」
健郎は笑って、
「俺も少し心を入れかえるかな」
と言った。「——特別なことじゃないんだ。ただ、お前に黙って亜紀ちゃんと出かけるのも、何だか隠してるみたいでいやだったからな。ちゃんと言っとこうと思って」
「ふーん。気をつかってくれるのね」
「そうさ。お前はまだ子供だからな」
「悪かったわね」
と、口を尖《とが》らし、「亜紀に振られちゃえ」
健郎は、ミカの部屋を出ようとして、
「早く寝ろよ」
とひと言、やさしい口調で言って、出て行った。
ドアが閉まると、ミカは机に向った。
ただ、やっているように見せかけただけの問題集を、本当に一題解いてしまう。別に宿題でも何でもないのに。
お兄ちゃん……。お兄ちゃん。
血のつながっていない私は、お兄ちゃんの妹でなくなった。でも、それなら「友だち」でいてくれてもいいじゃないの。せめて。
でも——お兄ちゃんには亜紀の方がいいのね。私のことなんか忘れて、亜紀と仲良くなればいい。そうよ、好きなようにしなさいよ。
パタッ。——問題集のページに、涙が落ちた。
ミカは、そのとき初めて自分が泣いていることに気付いたのだ。
兄が亜紀と恋人同士になろうとしているわけでないことは分っていた。亜紀だって、まだ「大人の恋」をするには早過ぎる。
ミカにはそれもよく分っていた。しかし、母と兄の会話を聞いてしまったショックに、兄の話が追い討ちをかける形になったのである。
ミカは、「兄に捨てられた」と感じた。
——理屈には合わないかもしれないが、そう思うことでしか、自分を支え切れなかったのである。
ふと気付くと、もう三時を回っていた。
陽子が深々とため息をついた。
金倉正巳は一瞬ギクリとして、妻の様子をうかがったが、目を覚ましているわけではないようだ。
そっとベッドから抜け出すと、正巳は寝室を出た。
もう夜中の三時。いくら今の高校生が夜ふかしだといっても、亜紀も眠っているだろう。明日は学校がいつもの通りあるのだから。
しかし、それを言うなら正巳だって会社がある。本当はとっくに眠っていなくてはならないのだ。
暗い居間へ入ると、正巳は部屋の明りは点《つ》けず、手探りでテーブルの上の小さなスタンドを点けた。居間の中がぼんやりと浮かび上る。
電話を取って、もうすっかり憶《おぼ》えてしまった番号を押す。——円谷沙恵子のアパートである。
呼出し音が続く。三度、四度……。
こんな時間だ。普通なら、電話が鳴ったらびっくりして飛び起きるだろう。
だが、呼出し音が十回以上続いても、誰も電話には出なかった。正巳は諦《あきら》めて切った。
沙恵子……。一体どうしたんだろう?
正巳は台所へ行って明りを点けると、冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、グラスへ注いだ。喉《のど》が渇いていた。
——正巳が沙恵子の部屋で、あの夢のような時間を過してから、一週間たっている。あの翌日、彼女は脅迫状を寄こした男と会っているはずであった。
ところが、その日、入院していた父、茂也がまた発作を起して、一時はどうなるか見当がつかず、家族三人、夜中に病院へ駆けつける騒ぎになってしまったのだ。
結局、騒いだほどでもなく、父の病状はそう悪化せずにすんだのだが、それでも毎日病院へ顔を出さないわけにいかず、沙恵子のことは気にしながら、アパートへ寄ることはできなかった。
むろん、仕事の合間や夜にも電話しているのだが、誰も出ない。正巳の中には、不安がふくれ上るばかりだった。
沙恵子……。向うから連絡しにくいことは分っている。会社にかければ声で分ってしまうかもしれず、家にはかけてきにくいだろう。
それにしても、正巳が心配していることを承知のはずだ。何とかして連絡をつけようとしてくれているだろうが……。
「——あなた」
と、突然呼ばれて、正巳は本当に飛び上らんばかりにびっくりした。
「陽子!」
「何を飲んでるの?」
陽子が思い詰めた声で訊《き》いた。
「何って……。ウーロン茶だよ」
と、正巳は三分の一ほど残ったグラスを持ち上げて見せた。
陽子は歩み寄ると、
「飲ませて」
と、正巳の手からグラスを取って、一口飲んだ。
正巳は呆《あつ》気《け》に取られて眺めていたが、陽子は肯《うなず》いて、
「本当だ。ウーロン茶だわ」
「何だと思ってたんだ?」
「ウイスキーでも飲んでるのかと思ったの。コソコソ起きて来たりして」
「コソコソって……。まさか夜中にドタバタ起き出すわけにいかないだろ」
正巳はわざと少し大げさに笑って、「お前の方こそ、キッチンドリンカーになるなよ」
「私がこんなにウイスキー飲んだら、倒れちゃうわ」
残りのウーロン茶を飲み干して、「——おいしい」
と、息をつく。
正巳は、どうやら電話をかけたことに陽子が気付いていないらしいので、ホッとした。
「お前もどうして起き出したんだ」
「何だか……。怖い夢を見たみたい。どんな夢だったか、憶えていないけど」
と、陽子は言って、「ちょっと涼しいわね、こんな時間だと」
「風邪ひくぞ」
二人は居間へ戻ると、何となくソファに腰をおろした。
「明り、点けるとまぶしいからこのままで」
と、陽子は言った。
「うん……」
「何か心配ごとがあるんじゃない?」
陽子に訊《き》かれて一瞬、正巳は迷ったが、
「そうさ……。親《おや》父《じ》のこともあるし。入院がいつまでになるか分らないから、金のことも気になるしな」
と、ごまかした。
いや、父親のことももちろん心配ではあるのだ。
「お前は? 何か気がかりなことでもあるのか」
陽子は腕を組んだ。
「私? 私は……。どうってことないわ。あの藤川ゆかりさんのことをどうしようかと思ってるけど。——はっきりさせなきゃね」
「ああ、そうだな」
「あれだけお義《と》父《う》さんの面倒をみてもらってると、後で言いにくいわよね。別れてくれとか……」
「そうだなあ」
——二人とも、茂也のことを持ち出して、それぞれの胸の中に重く沈む不安のことはひた隠しにしていた。
亜紀は、階段にパジャマ姿で腰かけて、居間から聞こえてくる父と母の声に耳を澄まして聞き入っていた。
お父さんもお母さんも、秘密を抱えている。そして、お互いにそれを気付かれていないと思ってる。
亜紀はしかし、少なくとも二人が秘密を持っていることは知っていた。母は円城寺と付合っていて、父の方はもっとややこしいことになっているらしい。
一体どうなるんだろう? もし、それが互いに知れたら。——亜紀は、今まで自分の家族にこんな問題が起ることなど、考えてもみなかった。
いつまでも、父と母は今のままで、ただ少し太ったり、髪が白くなったりするくらいだろうと思っていた。
そんなわけはないということ——。祖父を見ても分るように、人は老いても誰かに恋をすることがあり、病気で倒れることもある。
亜紀はそういうことを初めて考えるようになったのだ。
父のことは、ミカの兄、松井健郎が教えてくれたわけだが、彼もただ父と若い女の話を耳にしただけ。それ以上のことは分らない。
だから、今の亜紀にとっては、母の方が心配である。少なくとも、円城寺への母の気持には、恋と言っていいものがある、と知っていたからだ。
だからといって、亜紀に何ができるだろう? まだ高校生なのだ。父や母へ説教するというわけにもいかない。
円城寺小百合からは、あの後一度電話があったが、やはり祖父のことで落ちつかず、ゆっくり話していられなかった。
——居間では、父と母の会話が途切れがちになりながら続いていた。
もう寝よう。亜紀は立ち上ると、そっと階段を上って行った。
一度眠って、目を覚ましたのである。亜紀にしては珍しいことだった。
でも——何とかしなくては。
このまま放っておいていいわけはない。といって、学生の自分に何ができるか。
部屋へ戻ってベッドに潜り込んだ亜紀は、松井健郎が何か考えてくれるかもしれないと思った。
君原のこともむろん考えるが、何だか彼とはそんな話をしたくない気がした。——あの代休の日。君原と過した時間の楽しかったこと。
その後、父のこと、母のこととたて続けにショックを受け、結局、あれから一度も会っていないが……。でも、君原とはまた会えると信じていた。
「おやすみ……」
亜紀は君原へとそう呟《つぶや》いた。