爽《さわ》やかな朝だった。
陽子は亜紀を学校へ出した後、少し張り切って家の掃除をすることにした。——もちろん、いつも手を抜いているわけではないが、進んでやりたくなるというのは、やはり珍しい。
洗濯機のスイッチを入れておいて、さて、始めようかと思ったところへ電話。誰だろう?
「——はい、金倉でございます」
「おはよう」
円城寺の声が聞こえると、とたんに陽子の胸が鼓動を速める。
「あ……。どうも」
と、頭など下げている自分がおかしい。
「一昨日は……どうも」
「いえ、こちらこそ」
「元気……ですか」
「ええ、何とか」
変な対話になってしまって、陽子は笑った。
「会社からですの?」
「ええ。会議がひとつすんだところです」
「もう? まあ、早い」
時計へ目をやると、まだ九時半。
「時間のむだは避けた方がいいです」
と、円城寺は言った。「実は奥さんの声が聞きたくなって。——いや、そう呼んじゃいけなかった。陽子さん、でいいですか?」
「私は構いませんけど……。でも、実はちょっと……」
娘の亜紀が円城寺の名を知っていたことが陽子の心に引っかかっている。
「何かあったんですか?」
「はあ……。お会いしてお話しした方がいいかもしれないんですけど」
しかし、会えばまたあのマンションへ行ってしまうかもしれない。陽子は思い切って亜紀のことを話した。
「——そうですか。何か事情が……。いや、もしかすると——」
円城寺は言いかけて、止めた。
「もしもし?」
「あ、失礼。来客なので。また今夜でも電話してよろしいですか?」
「ええ、でも……。私が出られればいいんですけど」
「なるほど。じゃ、あのマンションに電話して下さい。番号を言います」
陽子はメモを取って、
「じゃ、機会を見てかけます」
と答え、電話を切った。
円城寺が今夜はあそこに泊る。——彼は、むしろ来てほしくてそう言ったのかもしれない。
でも、亜紀のことが気になった。やはり、決定的な仲になるのは危険すぎるだろうか。でもあのとき、もしベッドがちゃんとメークされていたら、あのまま彼に抱かれていただろう。
陽子は、円城寺のことを考え出すと、掃除を始めようという気持が、いわば〈静止状態〉になってしまった。
考えてみればふしぎだ。
別に夫に対して強い不満があるわけではない。夫があの若い女とどういう付合いなのかはともかく、円城寺にひかれ始めたのはその前である。
これは恋なのだろうか? この年齢になって?
恋愛なんて、もう自分には何の関係もないと思っていた。それなのに……。
ときめき。
そう。円城寺との交際にはときめきがあった。
それを夫に求めても酷だということはよく分っている。円城寺とだって、長く付合えば「ときめき」など薄れていくだろう。
分ってはいても、円城寺が陽子の中に「かつてあった何か」を燃え立たせてくれたことは確かである。
映画スターへの憧《あこが》れとも似たものだったかもしれない。ただその「スター」が目の前に実在していた、という違いだけで……。
自分は円城寺を愛しているのだろうか、と陽子は問いかけた。「円城寺を愛する私」を愛しているのではないか……。
でも、その違いが亜紀に分るだろうか。
亜紀は許してくれるだろうか?
——電話が鳴って、また円城寺かと出てみると、
「あ、奥さんですか。伊東です」
「あら、どうも……」
伊東真子の声は沈んでいた。
「突然すみません。お忙しいのでは……」
「いいえ、大丈夫」
「実は、母が今朝ほど亡くなりました」
「まあ」
思わず立ち上っていた。
「ゆうべ一晩、ずっとついていたんですが、結局、意識が戻らず」
「それはお気の毒だったわね」
陽子は、何と言っていいか、よく分らなかった。「あの——主人は出張してるので、会社から連絡してもらうわ。何か力になれることがあったら、言って」
「ありがとうございます。差し当りは、親《しん》戚《せき》が何人か来てくれると——。あ、お医者さまが捜してらっしゃるようなので」
「あなたが参らないようにね。また、連絡してちょうだい」
心からそう言った。
——何だか掃除するという気分ではなくなってしまった。
「そうだわ」
夫に連絡してもらおう。——陽子は、会社へと電話を入れた。
穏やかな朝の日射しが居間へ入っている。
「今日の亜紀は元気だね」
と、ミカに言われて、亜紀は戸惑った。
「え? じゃ、昨日は元気じゃなかった?」
「ひどかったよ、昨日は」
と、ミカが笑って言った。「何があったのかと思っちゃった」
そうか。——亜紀にはちょっとショックだった。少なくとも学校では何ごともないように振舞っているつもりだったのに……。
昼休み。——そろそろ試験も近いので、あまり校庭に出ている子もいない。
といって、休み時間に勉強するという物好き(?)も少なく、ま、たいていはおしゃべりで過すのが普通である。
「何かあったの?」
と、ミカに訊《き》かれたが、亜紀としても母のことまでは話せない。
「まあ、ちょっとね……」
と、ごまかしておいた。
「兄貴が、早く試験終んないかなって言ってたよ」
「お兄さんが? じゃ、大学へ通い始めたの?」
ミカは笑って、
「違う違う! ——私たちの試験が、ってこと。亜紀を早くデートに誘いたいんでしょ」
「ああ……。でも、私、ピンと来ないなあ」
と、亜紀は正直に言った。
「例のキスした人は?」
キスした、というだけなら、門《かど》井《い》勇《ゆう》一《いち》郎《ろう》だって、ミカの兄、松《まつ》井《い》健《たけ》郎《お》だってそうだ。でも、今、亜紀の胸を占めているのは君原のこと……。
「忙しいの。大学生っていっても、色んなこと手伝ったりしてるから」
と、亜紀はごまかした。
それに、ミカは兄、健郎が亜紀の父親のことを心配しているのだとは知らない。
亜紀も、それをミカに説明しようとは思わなかった。まさかミカが兄のことを「好きだ」とは思っていなかった。——ミカと兄が「血のつながっていない兄妹」だというのも、知る由はなかったのだから。
亜紀は自分のこと、父と母のことに手一杯で、ミカの言葉に潜む、かすかな刺《とげ》に気付いていなかった。
「ミカのお兄さん、すてきだし、もてそうじゃない。私のことなんか、すぐ忘れちゃうよ」
亜紀は、ミカを安心させようとして言ったのだが、むしろミカには逆効果だった。
「お兄ちゃんは、そんなにいい加減にデートなんか申し込まないよ」
と、少し強い口調になって、「アメリカに行ってたなんていうと、すぐ軽いって思われるけど、そんなんじゃないんだから」
「ごめん。そういう意味じゃないの」
亜紀はハッとして言った。
ミカはすぐいつもの様子に戻って、
「いいのよ。亜紀は真《ま》面《じ》目《め》だね」
と、からかうように言った。
しかし、亜紀は笑えなかった。
今のミカの言い方は、本気だった。気軽なおしゃべりというのとは違っていた。
兄への憧《あこが》れ。——少女時代には珍しいことじゃないと亜紀も知っていた。自分が一人っ子だから、そういうことにはつい気が回らないのだ。
「何か飲もうか!」
と、ミカが言った。
「うん」
ホッとして、亜紀は一緒に廊下へ出た。
ミカの方が、さっきの口調に本音をにじませてしまったことを後悔して、気をつかっているのだ。亜紀も、うまくそれをつかまえたかった。
廊下へ二人が出ると、
「あ、金倉さんね」
と、事務室の女の人が足早にやって来た。
「はい」
「お宅からお電話で、すぐ連絡してくれって」
「はい、すみません」
亜紀は、「何だろう?」
と、首をかしげたが、ミカに飲物を頼んでおいて、急いで教室の中へ戻った。
テレホンカードを手に、事務室の前の公衆電話へと小走りに。
電話を使っていたのが同じクラスの子だったので、
「ごめん、急ぐの」
と、切ってもらった。
家へかけると、すぐ母が出た。
「何なの?」
「亜紀。——お父さんから何か連絡ない?」
母の言葉の意味がよく分らない。
「お父さんって……。出張してるんでしょ」
「それが、出張なんかじゃなかったの。昨日、いつも通りに会社を出て、うちに帰ったっていうんだけど」
「え? じゃ……どこに行ったの?」
「分らないから困ってるのよ」
と、母、陽子の言い方は苛《いら》立《だ》っていたが、少し間を空けて、「今日も、会社を無断で休んでるの。休暇届も何も出てないんですって」
亜紀は混乱していた。
「じゃあ……ゆうべ事故にでも遭ったのかしら? でも——出張って言ってたじゃない。ボストンバッグさげて」
「そうなのよ」
陽子の声は震えていた。「お父さん、自分の意志で出て行ったんだわ」
「——家出ってこと?」
親が家出? ——そのときになって、やっと亜紀にも分った。
「お父さん、女の人と行ったんだわ」
自分の言葉に、ショックを受けていた。
亜紀は、担任の先生の所へ行って、
「父が倒れたので」
と言って早退させてもらうことにした。
まさか、「父が家出したので」とも言えない。
教室へ戻ると、すぐ帰り仕度をして、ロッカーへと小走りに急いだ。
お父さん。——お父さん。馬鹿なことしないでね!
「亜紀!」
と、ミカが追いかけて来る。「どうしたのよ?」
「ごめん。ちょっと——」
と、亜紀はためらって、「内緒ね」
「うん」
「お父さんが、家を出てった」
「ええ?」
ミカが目を丸くする。
「詳しいことは分んないの。また電話する」
「分った。——亜紀!」
と、ミカは呼びかけて、「落ちついてね。急いで車にはねられたりしないで」
亜紀は、ミカの言葉をありがたいと思った。
「——うん。大丈夫」
と、微《ほほ》笑《え》んで見せる。
もちろん、本当は「大丈夫」なんかじゃなかったのだけれど……。
学校を、こんな時間に一人で出るのは妙な気分だった。母はとりあえず父の会社へ行ってみると言っていた。
亜紀は家へ帰って、父から電話でも入らないか、待つことにしていた。
血の気がひいているのが分る。——父が出て行ってしまった。
こんなことが、自分の家に起るなんて!
何かの間違いでありますように。そう祈りながら、駅に向って急いで歩いていると、
「そう急ぐことないぜ」
と、誰かが言った。
びっくりして振り向くと、若い男が並んで歩いている。
「何ですか?」
「本屋で会ったよな」
亜紀は息をのんだ。——あの万引きの疑いをかけられたとき、ぶつかって行った男だ!
「そう怖い顔するなよ」
と、その男はニヤニヤしている。
「何か、私にご用ですか」
と、亜紀はにらみつけながら言った。
相手は、せいぜい二十二、三だろう。派手なシャツに白い上着。どう見ても、どこかのチンピラという印象。
「親《おや》父《じ》さんは帰っちゃ来ないよ」
男の言葉に、亜紀は立ちすくんだ。
「——どうして父のことを」
「知ってるとも。親しい付合いさ」
と、男は楽しげに笑った。
亜紀は、むろん目の前の男を信じてはいなかった。
しかし、父のことを知っている——父が姿を消してしまったことを知っているというのは……。
「お前はなかなかいい度胸だぜ」
と、その若い男は言った。「あの本屋の親父を丸めこんだなんて、やるじゃねえか」
亜紀は言い返さなかった。今は父のことが先だ。
「父のことで、何を知ってるんですか」
「さあね」
と、気をもたせるように、「知ってるかい。今は情報が商売になる時代なんだぜ。何か教えてほしきゃ、タダってわけにいかないんだ。ちゃんと支払いをしないとな」
「値打ちがあるかどうか分らないでしょ」
男は笑って、
「鼻っ柱の強い娘だな。でも、俺《おれ》の好みだ」
と、亜紀の周りをグルッと一回りする。
「——父はどこへ行ったんですか」
と、亜紀は訊《き》いた。
「さあね。俺は親父さんのお守りじゃないからな」
男はタバコを一本くわえて火を点《つ》けると、煙を亜紀の顔に吹きかけた。亜紀は瞬《まばた》き一つせずに男を見つめた。
「——一つ教えてやろう」
と、男は言った。「お前の親父さんは借金を抱えてるのさ」
「借金?」
「そう。それが返せなくて逃げ出した。分るか? 珍しい話じゃねえよ」
「嘘《うそ》だわ」
と、反射的に言っていた。
男がタバコを指先に挟むと、不意に火の点いた方を亜紀の髪に当てた。
「やめて!」
亜紀は飛びすさった。髪のこげる匂《にお》いがして、手で髪をさする。
「——俺の言うことを、嘘だなんて言うな。次は白い首にタバコの火を押し当てるぞ」
静かに言うので、余計に怖い。——亜紀は冷汗が背中を伝い落ちるのを感じた。
「分ったか」
亜紀は肯《うなず》いた。
「——よし。金を返す相談でも、お袋さんとするんだな。返せなきゃ、お前たちは家を出てくことになる」
亜紀も、この男の言うことは本当かもしれないと思った。——借金。何てことだろう!
「行っていいぜ」
と、男は言って、「もし、俺と話がしたくなったら、ここへ来い」
ポケットから出したマッチを亜紀の方へポイと投げた。亜紀がパッと手を出して受け取ると、男は軽く拍手をし、そして笑いながら立ち去ったのだった。