陽子が帰宅したのは、夕方、六時ごろだった。
亜紀は重苦しい気分で待っていた。母が帰ったらしい物音に玄関へ飛んで行くと、陽子は、
「何か電話とかは?」
と、亜紀に訊く。
「ないよ」
「そう。——お通夜に行くわ。あなたも仕度しなさい」
亜紀は一瞬、父が死んだのかと思ってギョッとしたが、むろんそんなわけはない。
「誰のお通夜?」
「あ、ごめん。言わなかったわね。伊東さんのお母さんが亡くなったの」
「ああ……。そうか。私も行った方がいい?」
「そうして」
「分った」
亜紀にも、母の気持がいくらか分った。何かすることがあった方が、気が楽なのである。
亜紀は、自分の部屋へ上った。
もう十七だ。学校の制服でもいいだろうが、黒のワンピースも持っているので、そっちにする。
身仕度をしながら、あの男のことを母にどう話そうかと迷っていた。——黙っているわけにはいかない。
でも……。
亜紀は、鏡に自分を映してみて、それから自分の部屋の中を見回した。
もしかしたら、ここから出て行かなきゃならないかもしれない。この家も土地も、取り上げられてしまうかも。
そう考えると、胃がキュッと痛んだ。
「——亜紀」
と、母が呼んだ。「お電話よ」
「はい!」
急いで下りて行くと、
「ミカさんからよ」
そう。きっと心配しているだろう。
「もしもし。ごめん、連絡しなくて」
と言うと、
「——僕、健郎だよ」
「あ……」
「ミカから聞いた。何か分ったかい?」
「いえ、今のところ何も」
亜紀は、母が二階へ上って行ったのを見て、「何だか、お父さん、借金があったみたい」
と言った。
「どうして分った?」
亜紀が、学校の帰りに会った男のことを話すと、健郎は少し考えているようだったが、
「分った。その男の連絡先、分る?」
「マッチが——今、手もとにないんです」
「ともかく、君とお母さんがしっかりしてなきゃ。いいね。やけになるなよ」
健郎は強い調子で言った。
やけになるな。
その健郎の言葉は、亜紀の気持を引き締めてくれた。
そうだ。あんな男におどされてびくびくしててどうする。何も悪いことなんかしちゃいないんだ。堂々と、胸を張ってりゃいいんだ!
「——もしもし? 大丈夫かい?」
と、健郎が心配そうに言った。
「ごめんなさい、黙っちゃって。嬉《うれ》しかったの。ありがとう。元気出ました。今だけかもしれないけど」
亜紀の言葉に、健郎は笑って、
「ともかく、それでこそ亜紀ちゃんだ。いいかい、何かあったら、僕に教えてくれ。一人で悩んでたりしちゃいけない。分った?」
「ええ」
「君がいくら頑張ってみても、君はまだ十七なんだからね」
「偉そうだな。健郎さんだって二十一じゃないですか」
自分でもびっくりするくらい気軽な口をきいてしまった。
「本当だな」
と、健郎も愉快そうに、「君のことが、ミカよりずっと年下みたいに思えてね。心配させてくれ。いいね」
「はい」
母が二階から下りてくる。「——あ、もう出かけなきゃ。知り合いのうちで、お通夜なんです。縁起でもないけど」
「そんなの偶然さ。じゃ、夜でもまた電話するよ」
「ありがとう」
母はミカからの電話だと思っている。ミカとも話したかったが、ゆっくり話ができる状況でもないし、後でかけ直すことにした。
「——もういいの?」
陽子も黒のスーツになっている。
「うん。行こうか。——どうやって行くの?」
と、亜紀は言った。
「駅前のスーパーで、お香典の袋を買って行きましょ。コンビニでも売ってたかしら?」
「うん、あるよ」
二人は玄関へ出た。
父の話をしないですむのが、ありがたい気分だったのである。
「——ご苦労様です」
受付に立っている女性を、陽子は憶《おぼ》えていた。今日、昼間夫の会社で会ったばかりである。
ふとためらってしまったのは、きっと正巳の勤め先の人が他にも来ているに違いないと思ったからだった。
しかし、今さら引き返すわけにもいかない。
大分古い都営アパートの一画。集会所がお通夜の場所になっていた。
受付の女性はすぐに陽子を見分けて、
「あ、昼間は……」
と言ってから、その先をどう言ったものやら分らない様子で、黙って頭を下げた。
「お世話になりまして」
陽子の方も、それくらいしか言うことがない。とりあえず、記帳して、香典を置くと、集会所へと入って行った。
狭い洋間だったが、却《かえ》って、少し混み合った感じで良かった。伊東真子は、近所の人らしい、見るからにおしゃべり好きという女性と話していたが、すぐに陽子たちに気付いて小さく会釈した。
普通の注意力を持った人なら、すぐに遠慮するところだろうが、その女は動こうとしなかった。
陽子は、亜紀を促して、お焼香させてもらうと、やはり真子とひと言も話さずに帰るわけにもいかず、隅の方の空いた椅《い》子《す》に二人で腰をおろした。
会社の人は、陽子の知っている限りでは一人もいない。本当なら、今の内に失礼してしまいたいところだが……。
真子と話している女は、ともかくどんな細かいことでも全部自分が知っていないと気がすまないというタイプらしく、
「じゃ、お母様は亡くなる前、意識が戻ったの?」
などと訊《き》いているのが耳に入ってくる。
当の娘に、何て無神経なことを訊くんだ、と陽子は腹が立ったが、口を出すわけにもいかず、真子の疲れた表情を見やっていた。
すると、亜紀がスッと立って真子の方へ歩み寄ると、真子に話しかけている女の肩をちょっと叩《たた》いた。
「——え?」
と、びっくりして振り返ったその女へ、そっと何やら耳打ちする。
陽子は、呆《あき》れて眺めていた。何をしてるのかしら、あの子?
「——あら、ありがとう! じゃ、伊東さん、これで」
と、その女はあわてて帰って行く。
陽子は面食らって、急いで立って行くと、
「亜紀、何を言ったの?」
と、小声で訊いた。
「大したことじゃないの」
と、亜紀は言った。「スカートのお尻《しり》のところがほころびてますよ、って」
「——まあ」
陽子が絶句していると、真子は微《ほほ》笑《え》んで、
「助かりました。ありがとう」
と、礼を言った。「お話ししたかったんです。心配で……」
「いえ、そんなこと——」
「会社の子に聞きました。その後、何も?」
陽子は少し迷って、言った。
「今のところはね。でも、あなたは自分の方を心配しなきゃ」
伊東真子は首を振って、
「私の方は、一人ですもの。そりゃあ寂しくはなりますけど、何とでもします。でも、ご主人は……」
親《しん》戚《せき》の耳もある。真子はチラッと後ろへ目をやって、小声で、
「二、三日の内にご連絡します」
と言った。
「ありがとう」
陽子は小さく肯《うなず》いて、「じゃ、お邪魔になるといけないからこれで」
と、亜紀を促して帰りかけた。
そのとき——外から七、八人の客が一緒になって入って来たのである。
陽子はハッとした。夫の勤め先の人たちである。
待ち合せて一緒に来たのだろう。男性社員が一人真子の方へやって来て、
「遅くなって」
と、言ってから、「——あ、金倉さんの奥さん」
陽子に気付いたのである。
それを聞いて、一緒に来た人たちの間に素早く視線が飛び交った。——口に出しては言わないが、
「これが金倉さんの奥さんと娘さん?」
「可《か》哀《わい》そうにね」
という言葉が聞こえるようだった。
「お先に失礼します」
と、陽子が会釈する。
真子が立ち上って、
「ありがとうございました」
と、頭を下げてくれた……。
陽子と亜紀が集会所から出ると、受付の所に、やはり同僚らしい女性が二人来ていて、記帳していた。その一人が、
「ね、この金倉って、会社の?」
「うん」
「逃げちゃったんでしょ、円谷さんと」
「奥さんよ」
「へえ。他人のことどころじゃないだろうにね」
受付の女性が、陽子たちに気付いて、
「シッ」
と、目配せした。
記帳していた二人はあわてて口をつぐむと、
「さ、お焼香しよう」
と、少しわざとらしい声で言って、中へ入って行った。
陽子は、受付の女性に黙って頭を下げる。
「ご苦労様でした」
と、向うは返した。
亜紀は何も言わずに、その微妙なやりとりを見ていた。
表に出て歩き出す。——二人とも言葉がなく、足下を見ながら歩いていた。
すると、追いかけて来る足音が聞こえた。
「金倉さん!」
と、呼ばれて陽子と亜紀が振り向くと、若い女の子で、さっき集会所へ来た社員たちの一人である。
「何でしょう?」
と、陽子は訊いた。
「あの……」
と、その女の子は息を弾ませて、「すみません、突然。私……ご主人の課にいるんです。今日昼間奥様がおみえになったとき、外出していて」
「そうですか。主人が迷惑をおかけして」
「いいえ」
と、急いで首を振った。「実は昨日……。お昼休みに課長さんと一緒になったんです。銀行で」
「主人と?」
「はい。現金の自動支払機に並ばれてて。私が『おこづかいですか』って訊くと、『ちょっと旅行するんだ』とおっしゃったんです」
「旅行……」
「ええ。それで、お金をおろした後、ひどくあわてて行ってしまわれて。——そのときコインロッカーの鍵《かぎ》を落として行かれました。私、拾って、後でお返ししたら、ホッとした顔をされて」
陽子は、無言で肯いた。
「あの……課長さんがどこへ行かれたか、私にも見当つきませんけど……。でも、とてもすまないと思われてたと思うんです。あんな風に、悪いことしてるところ見られたように、あわてて行ってしまわれたり……きっと、凄《すご》く申しわけないと思われてただろうと……」
「どうもありがとう」
と、陽子は言った。「ご親切に」
「いいえ……。何の役にも立ちませんね。でも、きっと……。きっと課長さん、帰って来られますよ」
その女の子の口調は、自分へ言い聞かせているようだった。
「——ありがとう。でも、主人も子供じゃありませんから、自分で決めて出て行ったのなら……」
「ええ、分ってます。でも、とってもいい方ですもの、課長さん。円谷さんが悪いんです、きっとそうだわ」
と、強い口調で言って、「私、円谷さんがどこへ行ったか、捜してみます。円谷さんの入社のときの資料があると思うんです。親類とか、実家とか、どこか保証人になってくれてる人がいるはずですし。何か分ったら、ご連絡します」
その女の子は頭を下げ、駆け足で集会所へと戻って行った。
亜紀と陽子は少しして、何となく顔を見合せ、
「お父さんって、信用されてたんだ」
と、亜紀が言った。「外づらが良かったんだね、きっと」
陽子は、亜紀の言葉にちょっと笑った。
「そうね、きっと。男なんて、みんな若い女の子にはやさしいわ」
二人は、夜道をバス停の方へ歩き出した。
「——寒くない?」
夜風がえりもとに入りこんで来て、陽子は思わず首をすぼめた。
亜紀は黙って首を振った。陽子はため息をついて、
「魔がさした、って言うのかしら、こういうのを」
と言った。「お父さんがね。——思ってもみなかった」
亜紀は、チラッと母の横顔を見た。思ってもみなかった? それって私のセリフだよ!
「明日、銀行へ行って、残高を調べるわ。お父さん、どれくらい引き出して行ったのか」
「でも……」
「もちろん、お給料もなくなる。当然クビだものね。——大丈夫よ。貯金もあるし、お母さんだって働くわ」
陽子の言い方は、とりあえず明るく振舞って、娘を安心させようと無理したものだった。しかし、亜紀にも事態がそう簡単でないことは分っている。
祖父の入院費用だけでも、うちにとってはかなりの負担だ。それに……。
母に、あの男の話を伝えるべきだ。——借金があるということを。
そして、姿をくらましてしまったのは、よほど多額の借金があったからに違いないということも。
しかし、今の母には、父が円谷沙恵子と逃げてしまったということだけでも、大きなショックである。この上、暴力団絡みらしい借金のことなど持ち出したら——。
亜紀は、あの男のよこしたマッチの連絡先を松井健郎に知らせて、どうしたらいいか相談しようと思った。
そうだ。それからでも遅くない。
気が付くと——母が立ち止っている。
「どうしたの?」
と、亜紀が戻って行くと、母は右手を顔に当てて、泣いていた。
「お母さん……。泣かないで」
亜紀は、他にどう言っていいか、分らなかった。泣くなと言っても、何の慰めにもなるまい。
でも、そう言うしかなかった。
「ごめんね……。大丈夫よ」
ハンカチを出して涙を拭《ふ》くと、「どうしてこんなことになるまで気が付かなかったのかしら、って思うとね……」
「お母さんは何も悪くないんだから。——バスだよ、急ごう」
「ええ」
二人は一緒に駆け出した。