「金倉さん。——金倉さん」
呼ばれていることは分っていた。先生の声はちゃんと聞こえていた。
けれども、亜紀はなかなか返事をしなかったのである。——みんなが亜紀の方を見る。
「亜紀。どうしたの? 亜紀」
松井ミカが声をかける。
「静かに」
と、先生は厳しい声で言った。「金倉さん、聞こえてるんでしょ?」
「——はい」
と、亜紀はやっと口を開いた。
「どうして返事をしないの」
「すみません」
ミカが立ち上って、
「先生。金倉さんはお父さんが倒れて——」
と言いかける。
「座りなさい!」
笹《ささ》谷《や》布《たえ》子《こ》は、亜紀たちの担任教師でもある。三十四歳、熱心で、手を抜くことをしない先生だった。
ミカがゆっくりと腰をおろす。亜紀は、大きく息をついて立ち上った。
「金倉さん」
と、笹谷布子は言った。「お宅が大変なことはよく分るわ。でも、あなたはもう十七ですよ。学校へ来た以上、他の子と同じように授業を受けられるということ。そうでしょう?」
「はい」
「しっかりしなさい。そんなことで、お宅で役に立つと思ってるの?」
亜紀は、担任教師の言葉に暖かいものを感じて嬉《うれ》しかった。
「大丈夫です」
「そう。——じゃ、六十三ページの頭から訳して」
と、笹谷布子は言って、教壇の方へ戻って行く。
そうだ、しっかりしなきゃ。お母さんの方が参ってしまいそうなのだから。
「——春がやって来た。川の水は暖かく——より暖かくなり、日射しにも、もう冬の感じはなかった……」
亜紀は、訳して行った。
——父が家を出て五日たった。
父からは何の連絡もない。週末の休みがあったので、母と二人、手分けして父の立ち寄りそうな知人、友人の所へ連絡してみたが、誰も父の行方を知らなかった。
それに、学校には「父が病気で倒れた」ことになっているので、あまり大騒ぎするわけにもいかなかったのだ。もし、誰かの口から、父の失《しつ》踪《そう》が学校へ知れたら……。
母、陽子の心労は相当なものだった。
——亜紀は、何とかいつものように明るく振舞おうと努力していた。今の母にはそれが何より必要だと思ったからだ。
「はい、よくできました」
と、笹谷布子が肯《うなず》いて、微笑した。
亜紀はホッと息をついて腰をおろすと、チラッとミカの方を見た。ミカがウインクして見せたので、亜紀もウインクを返した。
「それでは今の所で一番大切なポイントを押さえておきましょう」
と、笹谷布子は黒板に向った。
亜紀は、ふと窓の方へ目をやる。
自分と母の生活はどうなってしまうのだろう? ——父は、それほど多額の預金を引き出して行ってはいなかった。やはり、残る家族のことを考えれば、後ろめたい思いがあったのだろう。
しかし、亜紀はまだ母に言っていない。父の借金のことを。
借金があるというのが事実かどうかも確かめていないが、本当なら早く母に話して、誰かに相談するべきだろう。分ってはいた。分ってはいたが……。
松井健郎と、今日、学校の帰りに会うことになっている。——ともかく、それを待とうと亜紀は思った。
昨日、伊東真子が母を訪ねて来ていた。亜紀が帰宅したときは、もう入れかわりに帰って行くところで、母は何も言わなかった。
亜紀は、母がすっかり無口になってしまったのが心配だった。
むろん、いつもの通りにしていてくれと要求する方が無理だと分っている。だが、母は今の状況を受け入れるだけで精一杯の様子だった……。
「——じゃ、この構文を使って、何か例文を作ってみて下さい」
と、笹谷布子が言った。「三分以内。——はい、始めて」
少しザワザワして、それからノートを見つめてみんなが首をかしげる。
例文か……。どうしよう? 「父がもし家出しなかったら、私たちは幸せだったろう」とでも?
考えて、亜紀はおかしくなってしまった。
「あと二分よ」
と、机の列の間を歩きながら笹谷布子が言った。
亜紀は気を取り直して、そうか、と思った。
「もし、おじいちゃんが入院しなければ」とでもすれば? これならいい。
亜紀は黒板を見ながら、思いついた例文をノートに書きつけた。
「はい、あと一分」
ええ……。ため息とも苦情ともとれる声が洩《も》れるが、先生の方は慣れっこである。
「あと四十五秒。——三十秒」
と、腕時計を見て、笹谷布子が言った。「充分間に合うわよ、今からでも」
そのときだった。教室の戸が、突然ガラッと開いたのだ。
「どなたですか?」
と、笹谷布子はとがめるように言った。「今、授業中ですよ」
「こっちも仕事でね」
と、その男は言った。
どうにも教室には場違いな人間である。真赤なシャツに白いスーツ。サングラス。
「何のお仕事か存じませんけど、授業の邪魔はしないで下さい」
笹谷布子は強い口調で言った。
「そうとんがるなよ」
と、男は教室の中を眺め回して、「俺《おれ》の用があるのは一人だけさ」
——亜紀は真青になっていた。
あの男だ! 父に借金があると言った男である。
「当人はちゃんと分ってるぜ。な? でなきゃ、そう青くなってないだろうからな」
男の視線を追って、みんなが亜紀を見る。
——亜紀は身動きせずに、じっと座って男と目を合せていた。
「ともかく、お引き取り下さい」
と、笹谷布子が男と亜紀の間を遮るように立った。
「あんたの学校は、授業料払えない奴《やつ》も置いとくのかい? ご親切だな」
と、男はニヤリと笑って、「あいつの親《おや》父《じ》は借金こしらえて、女と二人で逃げちまったんだぜ」
「出て行かないと警察を呼びますよ」
「分った、分った」
と、男は肩をすくめて、「そうでかいつらしてると後悔するぜ」
と、凄《すご》んだ。
笹谷布子は、タタッと大《おお》股《また》に歩いて行くと、火災報知器のボタンカバーを外し、ボタンを押した。ウォン、ウォンと甲高い警報が校舎の中に鳴り響いた。
「すぐ人が大勢駆けつけて来ますよ」
笹谷布子の言葉に、相手はひるんだ。
「なめるなよ! ——いいか、容赦しねえからな!」
と、亜紀に向って叩《たた》きつけるように言うと、男は、教室を出て行った。
誰も口をきかなかった。——亜紀は、細かく震える両手を固く握り合せている。汗が頬《ほお》を伝い落ちた。
「笹谷先生!」
と、男の教師が二、三人駆けつけてくる。
「何でもありません。火事ではありませんから、ご心配なく。警報を止めて下さい」
と、笹谷布子は冷静に対応しておいて、「授業を続けましょう」
と、みんなの方へ言った。
駆けつけて来た教師たちはわけが分らない様子だ。
亜紀は、まるで教室の中に自分がたった一人でいるような気がしていた。
授業が終ると、亜紀は笹谷布子に呼ばれて一緒に職員室へ行った。
「——かけて」
と、笹谷布子は空いた椅《い》子《す》を一つ引いて来て、亜紀を座らせた。
「先生、すみません」
「あなたが謝ることないわ」
「でも……」
「そうね。お父様がご病気というのが嘘《うそ》だとすると、そのことだけは謝るべきでしょうけどね」
自分も腰をおろすと、「——話してちょうだい」
亜紀は、父が円谷沙恵子という女と姿を消したこと、借金があって、家や土地も抵当に入っているらしいことを説明した。
「でも、まだ母にそのことを言えずにいるんです」
亜紀の言葉に、笹谷布子は肯《うなず》いて、
「言いにくいという気持は分るわ。でも、あなた一人の手には負えないことなんですからね。早くお話しすべきね。その上で、弁護士さんにでも相談した方がいいわ。もし適当な人がいなかったら、私の知っている人を紹介してあげる」
「はい。ありがとうございます」
亜紀は息をついて、「先生に話して良かった」
と言った。
「あら、そう?」
「何だか急に胸が軽くなって」
「あなたのような女の子一人には重荷なのよ。そんな秘密を抱えているのは」
笹谷布子の落ちついた言葉は、亜紀を力づけた。
「でも……学校、続けられないかもしれません」
「何を言ってるの。いくらうちの学校がケチだっていっても、生徒一人分の授業料を免除するぐらいのこと、できるわよ」
と、笹谷布子は笑って言った。
亜紀は胸が熱くなった。
同時に、自分一人が悩みを抱え込んでいたことが、ずいぶん馬鹿げたことのように思われて来た。
「それにしても、さっきの男は、どう見てもまともじゃないわね」
と、笹谷布子は真顔に戻って、「用心してね。遅くまで残ったりしないで、必ず誰かと一緒に帰るようにしてね」
「はい」
と、亜紀は肯いた。
「行っていいわ。お休み時間が終っちゃう」
と言われて、亜紀は席を立った。
職員室を出るとホッとする。
ともかく、学校をやめる必要はなくなったようだ。しかし、いずれにしても、お金のことは亜紀の力ではどうすることもできないのだから……。
陽子は、外へ出ると玄関の鍵《かぎ》をかけた。
カチャリと音をたてて鍵が回る。鍵を抜いてバッグへ入れる間も、陽子は家の中で電話が鳴っていないかと耳を澄ましている自分に気付いていた。
もしかして——外出したとたんに、正巳から電話があるかもしれない。玄関の前を離れたすぐ後に、かかって来るかもしれない……。
そう思うと、なかなかドアの前から動けない。
陽子は、たっぷり五分近くもその場に立っていたが、結局、のろのろと歩き出した。それでも、二、三歩行っては足を止め、二回目には、電話の鳴る音が聞こえたような気がして、駆け戻ってみた。
でも、耳を澄ましてみると、もう鳴っていない。——馬鹿げてる。
いつまでも家から出ないつもり? 冷蔵庫は空っぽになって、買物して来なければ、もう食べるものがないのだ。
それに——正巳が姿を消してから、陽子は一度も茂《しげ》也《や》の病院へ行っていなかった。電話して藤川ゆかりに、「風邪気味で、お義《と》父《う》さんにうつすといけないので」と言っておいたが、そろそろ行かねば。
思い切って、陽子は左右へ目をやった。
タクシーが来た。うまい具合に、ここを空車が通りかかるのは珍しい。
停めて行先を告げると、陽子は座席にもたれて目を閉じた。
タクシーが走り出す。——もう、たとえ電話が鳴っても聞こえないのだ。電話が……。
「あの、ごめんなさい!」
と、陽子は運転手に言った。「忘れものをしたんです。今の家に戻って下さい」
タクシーが停った。ほんの数十メートルしか来ていなかったので、バックして戻る。
「すみません、どうも」
「すぐ出るのなら、待ってますが」
と、運転手は言った。
「あ……。じゃ、お願いします」
陽子はわざわざ戻ってもらった手前、家の中へ入らないわけにいかなかった。
玄関を入って、どうしよう、と迷っていると電話が鳴り出した。
あなた! やっぱりかかって来た!
陽子は駆けつけて受話器を取った。
「もしもし!」
「あの……〈××不動産〉ですか?」
「——違います」
「失礼しました」
ツーツーと連続音の聞こえている受話器をしばらく持って立っていた陽子は、それを戻すと同時に床にペタッと座り込んでしまった。
「あなた……」
陽子は呟《つぶや》くように言って、声を殺して泣いていた。
陽子は、ふと人の気配を感じて涙を拭《ふ》くと、顔を上げた。
「——まあ」
幻かと思った。どうして今、ここに円城寺がいるのだろう?
「勝手に入って来てすみません」
と、円城寺は言って、陽子が座り込んでいるそばに膝《ひざ》をついた。「外でタクシーが待っていて、入ったきりもう十五分も出て来ないと言って心配してたので」
陽子は、タクシーのことなどすっかり忘れてしまっていた。
「どうかしてるわ。——ごめんなさい。タクシー、断って来ます」
「もう、僕が行かせました。待ち料金を払って」
と、円城寺が陽子を止める。「どうしたんです? 連絡がないので、気が気じゃなかった」
陽子は、肩を落として、
「ごめんなさい。——主人が出て行ってしまって」
円城寺は、この場所で聞くような話ではないと察したようで、
「どこかへ行きましょう」
と、陽子の腕を取って立たせた。「車がある。お出かけなら、送って行きますよ」
「私……」
と、言いかけて陽子は円城寺に抱きついた。
円城寺も、何も言わずに、ただ陽子を強く抱いていた。陽子にとっては、今、慰めの言葉より暖かい抱擁が必要だと分っている様子だった。
——陽子が自分を取り戻すのに、十分近くもかかっただろうか。
円城寺から離れると、
「ありがとう」
と、言った。「——ありがとう」
来てくれたこと、何も言わずに抱いていてくれたこと、そして今、ここにいてくれること……。すべてに向けられた、「ありがとう」である。
「買物しないと、もう冷蔵庫が空っぽ。送って下さる?」
「もちろん」
「でも、お仕事がおありでしょ」
「一日ぐらい社長が休んだって、会社は潰《つぶ》れませんよ」
と、円城寺は微《ほほ》笑《え》んだ。「今日は僕が運転手だ。自由に使って下さい」
陽子は、わがままを言わずに、陽子の気持を優先してくれる円城寺の思いやりに感謝した。
「じゃあ……。義《ち》父《ち》のいる病院へも行きたいんですけど」
「かしこまりました」
円城寺は、運転手よろしく頭を下げて言った。「では参りましょう!」