「おい」
開け放したドアから顔を覗《のぞ》かせて、水島は声をかけた。
原は、机の前で何やらじっと眺めていたが、ドキッとした様子で振り向いた。
「何だ?」
「何だ、じゃないよ。呼んだのはそっちだろう」
と、水島は言った。
「ああ。そうだった」
原は、手紙らしいものを、手の中で握り潰《つぶ》し、屑《くず》かごへ捨てた。
劇団のオフィスである。原は、ちょっと咳《せき》払いして、
「公演の本読みのスケジュールなんだが、大丈夫かと思ってな」
「俺かい? 別に予定はないぜ」
と、水島は言った。
「それならいいんだ。念のために確かめたくて」
原は曖《あい》昧《まい》に笑った。
「ふーん……」
何となく妙だ、と水島は思った。原は、余計な口をきかないタイプである。
それに、水島のスケジュールなら、原は当人以上によくつかんでいる。
「何かあったのか」
と、水島は訊《き》いた。
「いや、別に」
「そうか。——ホテルSの方だけど、リハーサルはあるのか」
「一応前日の午後だ。ホテルが一番暇になる二時から四時の間にやるってことだ」
「分った。また教えてくれ」
「ああ、ちゃんと連絡する」
原は立ち上って、「帰るか。——お前、どうする?」
「帰るよ」
水島はオフィスを出ようとして、「そうだ、エリが捜してたぞ」
「俺を?」
「うん。さっき、いなかったろ」
「出かけてたんだ。何の用かな」
「さあ。まだいるかもしれないぜ」
「そうか」
原はオフィスを出て行った。
永田エリが原を捜していたのは事実である。しかし、エリはもう引き上げてしまっていた。
水島は、原が歩いて行く、重そうな後ろ姿を見送って、それから、さっき原が何かを捨てた屑かごを覗き込んだ。
くしゃくしゃにされた封筒。——手紙。いや、便せんは白紙で、写真が一枚、中に挟んであった。
もちろん、写真もくしゃくしゃになっている。水島は少しためらったが、写真をのばしてみた。
どうも、さっきの原の態度が、いつもの原らしくないのだ。何かを隠しているかのように見えた。
写真は——水島の顔を青ざめさせるに充分だった。
久仁子だ。それもつい最近。ヘアスタイルで分る。
一人ではなかった。男と二人でホテルから出て来るところ。間違いない。
久仁子は、少しうつむき加減で、寒そうに見える。そして男の方は——。
ピントが少し甘い写真だったが、よく知っている顔を見間違えるほどではなかった。何とも堂々としている。
「少しは遠慮しろ」
と、水島は言ってやった。
川北の奴《やつ》……。いつの間に、久仁子に手を出したのか。
水島は、原の戻って来る足音で、写真をすばやくポケットの中へ入れた。そして封筒を元のように握り潰して、屑かごへ放り込んでやった。
「——もういないよ」
と、原は戻って来て、言った。「どうだ、帰りに一杯やるか」
「いや、やめとく。今日は家で晩飯を食べると言ってあるんだ」
「そうか。それはいいことだ」
「娘に忘れられたくないからな。たまにゃ顔を見せとかないと」
水島は笑って、「じゃ、明日、また」
「ああ」
先に外へ出て、歩き出す。
もちろん、もう夜になっていた。このところ、日が短い。
歩き出し、歩きながら、水島の内に、怒りが燃えて来た。我知らず、足どりが速くなる。
川北が……。久仁子を抱いている。あいつめ!
不思議と、久仁子への怒りは湧《わ》いて来なかった。まだ、現実味がないのだろうか。
水島は、川北への怒りを、ともかくぎりぎりまで燃え立たそうとした。その時期が過ぎたら、怒りは少しおさまって来るだろう。
これまでの人生から得た、知恵である。
とことん行けば、後は冷えるだけ。
しかしクリスマス・イヴのイベントで、他ならぬ川北と顔を合せることを考えると、気は重かった。
足を止め、街灯の明りの下で、もう一度写真を見る。
初めて、自分の受けたショックの大きさを知った。足下の大地が崩れて行くような、無力感と、恐怖と、そして惨めさだった。
帰って、どうしよう? いきなり久仁子を殴りつけずにすむだろうか。牧子の前では、罵《ののし》り合うようなことをしたくない。
しかし、何くわぬ顔で、「ただいま」と言えるだろうか……。
そのとき、水島はやっと考えたのだった。
原のところへこれを送って来たのは、誰だったんだろう、と。
五月麻美のマンションのロビーに入って行ったとき、村松はくたびれ果てていた。
今日は別に走って来たわけではなかった。タクシーでここまで来る間、少し眠っていたのだし。——要は気分的に参っていたのである。
特にこれから麻美と話さなければいけないことを考えると……。つい、インタホンのボタンを押す手も、ためらいがちになるのだった。
「——はあい」
眠そうな声で、麻美が出て来た。
「村松です」
「あら。入って」
何だ? 忘れてたのかな。今日来るってことを。
まあいい。——インターロックがカチッと音をたてて外れ、村松が扉を開けて中へ入る。
エレベーターで五階へ。
——次のドラマのスケジュールが、大幅に変更になった。それを麻美に伝えなければならない。
麻美が怒るのは分り切っていた。しかし、仕方がないのだ。ドラマの目玉は今、人気が急上昇しているアイドルで、麻美ではない。
そのアイドルのスケジュールに合せて、収録の予定が組まれることになってしまうのである。
麻美も、もう主役というより、主役の子の「お母さん」が合う年代に入っているのだ。しかし、当人はそう思っていない。
納得するまでにひと悶《もん》着《ちやく》あるだろうな、と村松は覚悟していた。
——ドアが開いて、ガウンをはおった麻美が顔を出す。
「どうしたの?」
「いや……。打合せがすんだんで、回って来たんです。そういうことにしてありましたよ」
麻美は、ちょっと不思議な目で村松を見ていたが、黙って奥へ入って行く。村松は、玄関に川北の靴がないことに気付いていた。
「——寝てたんですか」
と、居間へ入って、アルコールの匂《にお》いに顔をしかめる。
「オフですものね。——ね、あんた、会社へ寄って来なかったの?」
「ええ。アパートから直接局へ行ったんで……。何かあったんですか」
村松はアタッシェケースを開けながら、言った。
「うん……。社長とね、話をしたの」
「何です? 正月休みですか」
村松は、笑顔を作って、「映画がずれ込むと思いますけどね」
「あんたのことよ。あんた、クビよ」
——麻美はタバコに火を点《つ》けて、ソファにゆったりと寛《くつろ》いだ。ガウンの前が割れて、形のいい足がむき出しになる。
「何ですって?」
村松は、まだ笑っていた。
「川北とうまく行ってないって、どこかの記者にしゃべったでしょ。出てたわよ、スポーツ紙に。マネージャーM氏の話、ってね」
「しかし……。そんなこと言いませんよ!」
「じゃ、どうして出てるわけ?」
分り切っている。川北と麻美がうまく行っていないことぐらい、関係者は誰でも知っているのだ。
何しろ当の麻美がTV局で騒ぎを起こしたりしているのだから。しかし——村松としてはそうは言えない。
「分ったでしょ。そんなこと、ベラベラしゃべられちゃ、やってらんないわ。社長も怒ってたわよ。マネージャー失格だって。クビになるか、事務にでも回されるか、知らないけど、明日から別の人にするって。分ったら帰って」
麻美はアッサリと言った。
村松は、それが冗談でも何でもないのだと知って、青ざめた。
「——今ごろ青くなっても遅いわよ」
と、麻美は愉快そうに、「売れないアイドルの担当にでもなるのね。頑張って」
灰皿へギュッとタバコをひねり潰《つぶ》す。村松みたいな男一人、ひねり潰すのは簡単なことなのだ。あのタバコと同じだ。
「じゃ、私、また寝るから」
麻美が立ち上る。——歩いて行く麻美を見ていて……村松の中で、何かが音を立てて切れた。
「何よ!」
いきなり腕をつかまれて、麻美は声を上げた。「何のつもり! 放しなさいよ!」
「黙れ!」
村松は怒鳴った。「あんたの気《き》紛《まぐ》れにここまで付合って来たんだ。クビ? ああ、結構だ。その代り、こっちが苦労した分、あんたから返してもらう」
「何よ、その口のきき方!」
麻美の平手が村松の頬《ほお》に音をたてた。
村松は、もう抑えがきかなくなっていた。
麻美を突きとばし、声を上げてソファに倒れるのを見ると、飛びかかった。
助けを求める声は上らなかった。二人とも無言で、激しくもみ合った。呻《うめ》き声、荒々しい息づかい。布の裂ける音。テーブルがけられて、引っくり返り、アタッシェケースの書類が床に飛び散った。
そして二人は、もつれ合うようにして、床のカーペットの上に転がり落ちた。
——そして、時間がたった。
どれくらい? 村松にはよく分らなかった。
一時間か、二時間か。
いや、ほんの十分くらいのものだったのか。それとも一晩たったのか……。
サイレンが聞こえて、村松は我に返ったのだ。——サイレン。パトカーだ。
俺《おれ》を捕まえに来たのか。きっとそうだ。麻美が一一〇番して……。
しかし——そんなわけはなかった。今、麻美は村松の下に組み敷かれていて……。
麻美の手がのびて来て、村松の髪をかき上げた。
「あんたも男だったのね」
麻美が笑った。
そう。俺は……。五月麻美を自分のものにしたのだ。
何てことだ……。
「いいのよ」
と、麻美は言った。「すてきだったわ」
村松は、麻美の胸に顔を埋めた。スターが吐息を洩《も》らす。信じられないようなことが起こってしまった。
「ね……」
麻美は、ゆっくりと体を起こして、「お腹空いたわ。何か食べに行きましょ」
村松は、戸惑って、麻美を見ていた。
「——どうしたの? どこか予約して。いいお店を。あんた、私のマネージャーでしょ」
村松は、あわてて起き上った。
「分りました。どこにします?」
「任せるわ。あなたのいい所で」
五月麻美は立ち上って、ガウンをひっかけると、「シャワー浴びて来る。あなたも後で浴びなさいよ」
「ええ……」
「その間に社長へ電話しとくから。やっぱりマネージャーはあんたでなきゃだめだ、ってね」
麻美が居間を出て行く。
村松は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》と座り込んでいたが、やがて、手帳を取り出して、近くのレストランを捜し始めた……。