冬になって、ほとんど初めての穏やかな一日だった。
風もなく、よく晴れ上って、日なたにいると、暖かいと感じるほどだ。ベンチに座っている久仁子も、快い日射しに身を任せている。
ここは団地の中のスーパーマーケット前。
最近のこういうスーパーは、たいてい前が広場のようにしてあって、子供を遊ばせておけるようになっている。今、牧子も幼稚園の帰りに、ここへ来て遊び回っていた。
久仁子は、じっと牧子を眺めている。——何を考えてるんだろう、自分は?
この生活に満足していないのか。夫と娘との三人の暮し。それが何よりも大切だと思っていないのか。
大切だとは思っている、確かに。しかし、それでいて、川北の誘いに逆らうことができないのだ。
夫も感づいている。久仁子には分っていた。
いつもと同じようにふるまってはいるが、時折、ふっと久仁子から目をそらしたり、考え込んだりする様子で……。久仁子にも、分るのである。
もう、やめなくては。どうせ川北にとっては遊びなのだ。——そう、牧子が近所の子と遊んでいるのと大して違わないのだ。
現に、川北は今、あの庄子ユリアとかいうアイドルと噂《うわさ》されているし、当人も否定していない。それでいて、五月麻美とも切れたわけではない。
そういう男なのだ。分ってはいるのだが……。
誰かがやって来る。目の端で捉《とら》えたその歩き方で、久仁子はそれが知っている人間だと分った。
「——ここにいたの」
永田エリが立っていた。
「エリさん……」
「久しぶりね。——かけてもいい?」
「ええ……」
「牧子ちゃんは?」
「あそこで遊んでる」
「ああ、あの赤いスカートの子? 大きくなったんだ!」
と、永田エリは目をみはった。
「いつも主人が——」
「何言ってんの。そんな堅苦しいこと、抜きにしよう」
エリの言い方は相変わらずだった。
久仁子も、つい笑ってしまう。
「そうそう。久仁子には、笑顔が似合うの。いつも演出家に言われてたでしょ。久仁子は笑ってるときだけは名優だって」
「そうだった」
「あんたの家へ行ったら、お隣さんがね、教えてくれたの。たぶん、ここだって。それでさ、私のこと知ってて。こっちがびっくり。『永田エリさんですか』って」
「そう?」
「嬉《うれ》しいもんね。TVの端役でも沢山こなしてると、それなりに顔が売れて来る。——悪いことはできないけどね」
エリはそう言って笑った。そして——少し間があった。
「お話があるんでしょ」
と、久仁子は言った。「私と川北のことで?」
「まあね」
エリは、軽く息をついた。「水島さん、気が付いてるよ」
「知ってます」
久仁子は、両手を握り合せた。「悪いと思うんだけど……」
「川北もしょうがない奴《やつ》だね」
エリは首を振って、「子供と同じ。他の子が持ってると、取り上げたくなる。以前自分のものだったとなれば、なおさらね」
久仁子は、牧子がこっちを見てるのに気付いて、手を振った。
「——このところ、会ってないの。このまま、終ってくれれば、と思ってる」
「でも、また誘われたら? あなたが拒む決心をつけなきゃだめよ」
と、エリが言った。
「ええ……」
「クリスマス・イヴには一緒に仕事をすることになってる。——まあ、そんなに長いこと顔を合せるわけじゃないけど、やっぱりご主人だって、辛いでしょ」
「エリさんも出るんでしょ?」
「出るっていっても、私は死体の役」
「まあ」
と、久仁子は笑った。
「楽してギャラが出りゃいいけどね」
と、エリは苦笑した。「でも——考えた方がいいよ、良く」
「ええ……」
久仁子は肯《うなず》いた。
「川北は今、本当にあの何とかいうアイドルと?」
と、エリが訊《き》いた。
「庄子ユリア。ちょくちょく会ってるみたい」
「そう。——こりないのね」
と、エリは言った。「遊んでるつもりで、利用されてるだけなのに。人気が出て来たら、もう川北のことなんか見向きもしないわよ、その子」
「そうでしょうね」
と、久仁子は言った。「あの——うちへ寄る?」
「ううん。もう行くわ」
エリは立ち上った。「これからロケがあるの。サスペンスものの殺され役でね。死体づいてて、やんなっちゃう」
と、笑って、
「じゃ、またね、久仁子」
「ありがとう。また遊びに来て」
「その内ね」
牧子がトコトコやって来た。エリは、
「こんにちは」
と、かがみ込んで、「憶えてるかな、おばちゃんのこと」
「TVで見たよ」
と、牧子が言った。「ね、ママ」
「そうか。ファンになってね」
と、エリは笑って牧子の頭を軽くなでた。
「じゃ、さよなら」
「さようなら」
牧子も手を振って、「——ママ、もう帰る?」
久仁子は、エリの後ろ姿を、ぼんやりと見送っていたが、
「——え? ああ、これから買物よ。冷凍食品買わなきゃいけないから」
と、立ち上った。「中でお手々を洗ってなさい」
「はあい」
牧子がスーパーへと駆けて行く。
久仁子は、ショッピングカーを引いて、その後から歩いて行った。
永田エリも、忘れられずにいるのだ、川北のことが。
劇団仲間から、話は聞いていた。しかも、もうずっと昔のことだと思っていたのだが……。
庄子ユリアのことを話しているエリの口調には、はっきり、嫉《しつ》妬《と》の響きが混っていた。
女同士。そういう点は敏感である。
エリさんまで……。妙なことだが、久仁子は永田エリがまだ執着していると知って、初めて川北と会ってはいけない、という気持になった。なぜ、と問われたら、どう答えていいか分らなかったかもしれないが。
「さて、買物だわ」
久仁子は、スーパーへ入ると、店内用のカゴを手にとった。
チャイムが鳴っていた。
ユリアはベッドの中で寝返りを打った。毛布が足に絡みついて来る。
またチャイムが鳴る。——誰か出てよ。こっちはね、裸なんだから!
頭を上げる。バスルームからシャワーの音が聞こえて来た。
そうか。ここはホテルの部屋で、一緒にいたのは川北竜一……。シャワーの音で、チャイムなんか聞こえないだろう。
聞こえたとしても、
「お前が出ろ」
と、言われるに決っている。
またチャイムが鳴った。ユリアは、渋々起き上った。ガウンを取って、素肌にはおる。
誰だろう?
スイートルームなので、リビングルームを通って行く。
「どなた?」
と、声をかけると、少し間があって、
「川北さんは?」
と、男の声がした。
「今、ちょっと——。いることはいるけど」
チェーンをかけたまま、細くドアを開けると、とてもその隙《すき》間《ま》からは全身の見えない、太った男が立っていた。
「原といいますがね」
「原さん?——ちょっと待ってね」
ユリアは、バスルームまで行って、ドアを叩《たた》いた。もうシャワーは止まっていたので、
「何だ?」
と、川北が返事をした。
「原さんって人が来たわよ」
「そうか、待たしといてくれ」
「どこで?」
「中へ入れていい。昔なじみだ」
「ふーん」
ユリアは肩をすくめ、ドアまで戻って行った。チェーンを外してドアを開けると、
「入って。——今、シャワーなんです」
「分りました」
原という男は、チラッとユリアの胸もとへ目をやった。ガウンの胸もとが少し開いている。ユリアはギュッとかき合せて、
「かけて待ってて下さい」
と、言った。
「そうしましょう。——お邪魔して」
原は、ソファにドカッと身を沈めた。キュッとソファが悲鳴を上げる。
ユリアは、この男、何者かしら、と思っていた。何といっても、売り出し中のアイドルだ。もし、顔つなぎをしておいた方がいい相手なら……。
「何か飲みます?」
と、ユリアは訊いた。
原は、ちょっと面食らっていたが、
「じゃあ……コーラでも」
冷蔵庫からコーラを出し、ユリアはグラスに注いだ。
「や、どうも」
原は、意外と人なつこい笑顔になって、「庄子ユリアさんにこんなことをしていただくとはね」
「あら、ご存知?」
「当り前です。私は大した力もありませんが、ファンですよ」
「どうもありがとう。あの——もう来ると思います」
「昔、川北さんのいた劇団のマネージャーをしていましてね」
「劇団の?」
「知りませんか。そうかもしれない。もうずいぶん前ですよ」
と、原は笑って、「今じゃ、川北さんは大スターだ」
「スター……。そうね」
ユリアはチラッと奥のベッドルームの方へ目をやった。「昔から、川北さんってあんな風ですか」
原は、ゆっくりコーラを飲んで、
「『あんな風』という意味は?」
「あんな風に——女の子に手が早い、とか」
原はちょっと笑って、
「三つ子の魂百まで、ってね。病気ですね、あれは」
と、言った。
「そう……」
「噂《うわさ》になってますね。ま、私は大丈夫。口は固い方です」
「私は駆け出しですもの。川北さんのおかげで、ずいぶん助けられましたわ」
ユリアの言い方は、過去形で、原もちゃんとその点を分っている様子だった。
「ある時点までは助けも必要。しかし、そこを過ぎると、却《かえ》って重荷ってこともある」
原の言葉に、ユリアは肯《うなず》いた。
「ええ、そう。そうなんです。でも——」
「彼の方は、相変わらずあんたを自分の持物ぐらいに思っている」
ユリアは、この一見パッとしない男に、興味を覚え始めていた。
「よくお分りね」
「長いことこういう世界にいれば、同じようなケースをいくつも見ますよ」
「何か……いい方法をご存知?」
ユリアは、綱わたりをしているような気分だった。今会ったばかりのこの男に、こんな話をしている。自分自身でも信じられなかった。
「いい方法……。つまり、適当な時点で切るための?」
「——そう」
と、ユリアは肯いた。
原は、少し違った目でユリアを見ていた。
「それはむずかしいですよ。タイミングをよほどよく見ないとね。怒らせたら大変だ。自信家は、恨みも忘れないもんです」
「そうでしょうね」
「戸板返しですね」
「え?」
「知りませんか。『四谷怪談』で、パッと戸を裏返す……。まあいい。あんたが浮かび上ると同時に相手が沈む。これが一番です」
原の言い方は淡々として、却ってユリアを引き込んだ。
「そんなことが……」
「可能か、と?——まあ、やってやれないことはないでしょう」
ユリアはバスルームのドアの開く音を聞いた。
「あの——電話下さい、夜中に。いい?」
原は肯いて、手帳を出した。
ユリアは引ったくるように手帳をとって、自分の電話番号をかきつけて返した。
「必ずかけてね」
と、低い声で。
「——やあ、久しぶりだな」
川北が、ガウンをはおって出て来た。「おい、シャワー浴びて来いよ」
「ええ」
ユリアは、ベッドルームへ入って行った。川北がそのドアをバタン、と閉める。
——正直なところ、ユリアは川北にうんざりし始めていた。
まだ、利用価値はあると思う。しかし、こうも川北の気まぐれに振り回されては……。
それに、いくら今のアイドルが男っ気なしでいる必要がないと言っても、限度がある。これでは単に「川北の恋人」で終ってしまう。
もう大丈夫。仕事も順調に入っているし、事務所でも川北との関係にいい顔をしていない。
ユリアはシャワーを浴びながら、大きく息をついた。
私はもう一人で歩けるんだわ。川北の助けなんかいらない……。もちろん、川北はユリアの方が夢中だと思っているし、そう思わせて来たのも事実だ。
でも……。あの原という男。直感だが、頼りになりそうだ、と思った。きっと電話して来るだろう。今夜にも。
ユリアは、今日は早く帰ろう、と思っていた。何かいいことが待っているかもしれない……。
「知ってる?」
と、五月麻美は言った。
「何です?」
机に向って、領収証の整理をしていた村松は、領収証の仕分けをする手を休めずに訊《き》いた。
「何してんの?」
と、麻美はベッドから訊いた。
「明日、一番で精算しとかないと、叱《しか》られるんですよ」
「ロマンのない人ね」
と、麻美は笑った。「それでなきゃ、困るけど」
「そうですよ。何しろ金にルーズなのは、いやなんです」
しかし、妙なものだ。村松とて、バスローブ姿で領収証を分けているのである。
「川北、ホテルSのイベントに出るのよ」
「ええ、聞きました。何であんなものにね。よっぽど払いがいいんでしょうか」
「あの子も引張り出すのよ。庄子ユリア」
「へえ」
村松は、麻美を見た。「本当ですか」
「イヴの夜を、あの子と二人で過そうってわけでしょ」
「じゃ、ホテルSにそのまま? やれやれ」
と、村松は苦笑した。
「ねえ、完ちゃん」
「何です?」
「私たちもどう?」
「どう、って?」
「イヴの夜にさ、二人で泊らない?」
村松は目をパチクリさせていたが、
「無理ですよ。パーティがあるし……」
「顔だけ出しゃいいんでしょ。少し遅い方が入りやすいし。——そこでバッタリ川北たちと会うってのも楽しいじゃない」
「今からじゃ、部屋なんかとれませんよ」
「とれるわ。私、あそこの支配人、よく知ってるの。私が頼めば大丈夫。いいわね」
「でも——もし本当に川北と会ったら、何て言うんです?」
「決ってるじゃない。『メリー・クリスマス』よ」
麻美がそう言って笑うと、手をのばして来る。
村松は、領収証を置いて、ベッドの方へと引き寄せられて行った。拒むことなどできない。
村松は、火に焼き尽くされる蛾《が》のような気分だった……。