「——ええ、イヴの日です。六時半。——塚田です。間違いないですね。——じゃ、よろしく」
電話を切って、塚田京介はボックスから出ようとした。ふと、思い付いて手帳を開く。
仕事の電話……。これはもう必要ない、と。こっちは明日でないと相手が帰って来ない。
そして……。
「よし、大丈夫だ」
と、口に出して言うと、肯いて、電話ボックスを出る。
塚田が出るのを待って、立っていた中年の女性が、彼の言葉を聞いたらしく、ニヤニヤしている。塚田は少し赤面した。
足早に、ラウンジに戻る。
ここはホテルSではない。あのホテルは、啓子と別れてから、何となく入りにくく、使わないことが多い。もっとも、クリスマス・イヴにはあそこに泊ることになっていたが、泊るとなれば別だ。
啓子と会うこともないし……。いや、もちろん、ホテルSのラウンジだって、啓子と出くわす可能性なんかゼロに等しい。それでも何となく避けてしまうのは、やはり啓子に対して後ろめたい気分が残っているからだろうか。
ラウンジの席に戻って行くと、婚約者が待っているのが見えた。
「やあ、今来たの? ちょっと電話してたんだ、ごめん」
塚田は、プラスチックの、少し座りにくい椅《い》子《す》をずらして腰をおろした。
「また二十分遅刻ね。ごめんなさい」
と、浅井由美は、いたずらっぽく笑った。
「いいさ。どうせ仕事の電話が色々あって……。ここじゃ落ちつかないだろ。どこかへ出ようか」
実際、今どきのホテルのラウンジなどというのは、表通りと変わらないくらい、やかましい。
「でも、今、注文しちゃったから、アイスティー。喉《のど》もかわいてるの」
「そうか。じゃあ……。大丈夫。店の予約時間には充分間に合うよ」
と、塚田は腕時計へ目をやりながら、言った。
浅井由美は二二歳。今年大学を出たばかりで、勤めの経験もない。しかし、彼女の父親は、塚田の勤め先の大口取引先である大企業の部長で、見合いの話も、塚田の直接の課長から出たものだった。
いかにも世間知らずのお嬢さんで、由美と会っていると、塚田は、伊沢啓子と付合っていたときにいつも感じたような、「ひけめ」を覚えずにすむのだった。
由美がちょっと笑って、
「父がこの間言ってたわ」
「僕のこと? 何だって?」
「結婚式に遅刻して行ったら、罰金でも取られそうだな、ですって。父はね、時間に正確ってこと、凄《すご》く気に入ってるのよ」
「そいつは嬉《うれ》しいな」
塚田は正直に言った。「それくらいしかとりえがないからね」
「まあ」
と、由美は笑った。
アイスティーが来た。由美はそれを少し飲んで、ふと思い出したように、
「母に電話しなきゃ。忘れるとこだった」
「僕と食事するって?」
「それは言って来てあるの。式のお客のことで連絡が入ってるかもしれない」
由美が、少し急ぎ足で、ラウンジを出て行く。——塚田は、コーヒーを飲みかけたが、カップはもう空だった。
来春挙式。——その予定は、もう現実の計画として、動き始めている。結納もすませた。
ただ、由美をまだホテルへ連れて行くところまでは行っていない。あと一週間すれば、クリスマス・イヴ。
その夜には——。もちろん、由美も承知の上である。
塚田は、つい無意識に手帳をとり出して、今週の予定を眺めた。年末も近く、手帳は予定で埋っている。
その忙しさに、やれやれ、と呟《つぶや》いてみるのが、快感でもあった。
そう。——一人になると、時おり啓子のことを思い出す。
あの子は賢明で、しっかり者で、いつも塚田をリードしていたし、その点で、塚田を安心させてくれる存在でもあった。
しかし、どこかで塚田は不満だったのだ。今思えば、男としての自負や自信を、啓子は感じさせてくれなかったのだ、ということになろうか……。
もちろん、満点の女などはいない。あの由美にしても、世間知らずで頼りないし、少々苛《いら》々《いら》させられることがあるのも事実である。しかし……。
「コーヒー、おつぎしますか?」
と、制服姿の女性がポットを手に訊《き》く。
「え? ああ、じゃ、半分くらい」
カップが三分の二ほど満たされてから——。
「塚田君?」
と、その女性が言った。
「え?」
びっくりして見上げても、すぐには分らなかった。
「塚田君でしょ。ほら高校のとき一緒だった——」
制服の名札に、〈山内〉という文字を見て、塚田はやっと思い当った。
「そうか。あの……。バレーボールをぶつけた山内か」
「いやね。変なことばっかり憶えてる」
と、彼女は笑った。
山内——そう、山内みどりといった。高校生のころは、太っていて、垢《あか》抜《ぬ》けしない、「のろま」で、よく塚田はからかってやったものだ。
そのお返しで、バレーボールを顔に猛烈な勢いでぶつけられ、引っくり返ったことがある。
しかし今、その山内みどりは、スラリとして、いかにもホテルで働くキャリアウーマンというイメージに変身していた。それもウエイトレスの制服ではない。
「ずっとここで働いているのか」
「二か月前から。他のホテルにいたんだけど、引き抜かれたの」
「凄いじゃないか」
と、塚田は正直に感心していた。「見違えたよ」
「どうも」
笑顔の作り方も、ちゃんと訓練されたものだった。「塚田君はいかにもビジネスマンね」
「サラリーマンって言ってくれよ。しがない稼業さ」
と、塚田は笑った。
「ねえ、今——」
「うん?」
「ここにいた人……。あなたの知り合い?」
「彼女? まあね。どうして?」
「もしかして浅井っていわない? 浅井由美」
「そうだよ。君、知ってるのか、由美を?」
山内みどりの顔に、ちょっと複雑な表情が浮かんだ。
「山内君——」
「彼女、あなたの……」
「婚約してるんだ。来春式を挙げることになってる。——どうかしたのかい?」
それを聞いて、山内みどりの顔はパッとプロのそれに戻った。
「何でもないの。ごめんなさい。余計なことを。ごゆっくり」
「おい……」
山内みどりは、他のテーブルへと歩いて行って、
「コーヒー、お注ぎいたしますか?」
と、やっている。
由美が戻って来た。
「ごめんなさい。またあとでかけてみるわ。どこかへ出かけてるみたい」
「そう……」
由美は、息をついて、
「あと一週間でイヴか……。ね、レストランとかホテルとか、大変だったでしょ。よく取れたわね」
「ああ、色々コネを頼ってね。でもさっきもレストランに確認の電話を入れておいたからね」
「すてき。——ねえ、私たち……」
と、由美が、ちょっと目を伏せる。
「何だい?」
「イヴの夜は、ホテルSに泊るわけでしょ」
「うん、まあ……」
「何だか、怖いみたいだわ」
と、由美が頬《ほお》を赤らめた。「でも——大丈夫よね」
「心配するなよ」
塚田は、由美の手を、そっとつかんだ。「ただ、君のお父さんとか——」
「父はニューヨーク。母は知ってるけど、大丈夫。今の子なら、しょうがないって笑ってるわ」
「なら安心だ」
と、塚田は微《ほほ》笑《え》んだ。
そして——塚田の視線は、由美の肩越しに、ラウンジの奥へと流れた。——山内みどりが、振り向いて、塚田のほうを見ている。
そして一瞬目が合うと、山内みどりはパッと背を向けて、他のテーブルの間に、見えなくなってしまった……。
「やあ」
と、塚田は言った。「悪かったね」
山内みどりは、無言で、カウンターに並んで腰をおろした。
「もう勤務は終ったの?」
「ええ」
と、山内みどりは肯《うなず》いた。
私服は地味で、年齢よりも落ちついて見える。
「私、水割り」
と、バーテンに声をかけて、「——呼び出したりしちゃ、いけなかったわ」
「なぜ?」
塚田は、少し厳しい表情の、みどりの横顔を見ながら、「昼間の君の様子がどうしても気になってさ。彼女を自宅へ送って、それからここへ回ったんだ」
「来るんじゃなかった」
と、みどりは言った。
「どうしてさ」
「いいことないわよ、私と話したって」
と、みどりは言った。
「——浅井由美を知ってるんだろ」
「ええ」
「それで?」
しばらく間があった。山内みどりは、水割りのグラスを、一気に空にした。
カタッと音をたてて、カウンターに空のグラスが置かれる。
「私はホテルの専門学校へ通ってたの」
と、みどりは言った。「たまたま知り合った大学生のグループがあった。その中の一人の女の子と気が合って、親しくなったのよ。その子はその大学の助教授と付合ってた。なかなかハンサムでね。女子学生に人気もあったけど、真《ま》面《じ》目《め》な人だったのよ。もちろん独身で、彼女とは七つ八つ、年齢が離れてたけど、将来は結婚しようってことになってた……」
「それで?」
「ある日——彼女、急に休講があって、時間が空いたんで、その助教授の研究室へと行ってみたのよ。そしたら……」
みどりは、空のグラスを、カウンターの上で滑らせた。「ソファで、女子学生とその助教授が……」
塚田は肯いた。
「可《か》哀《わい》そうに」
「その女の子は、出席が足らなくて、単位が危ないのを、家に知られたくなかったのよ。それで、その助教授に——。可《か》愛《わい》い子だったし、先生の方もつい、ってわけね。でも、見せられた彼女の方はショックで……」
「そりゃそうだろうな」
「自殺未遂を起こして、ノイローゼで退学したの。今はアメリカに行ってる」
と、みどりは言った。「後で聞くと、その女子学生は、その助教授が初めてってわけじゃなかったのね。大学の中じゃ、結構知れ渡ってたって……。私、その子を見に行ったの。頬っぺたの一つもひっぱたいてやりたくて。でも——実際はやらなかったけどね」
再び、長い間があった。
塚田は、もう分っていることを、訊《き》いた。
「その助教授を誘惑した女子学生が……」
「浅井由美。——あなたのフィアンセよ」
みどりは、ため息をついた。「今さら、どうしようもないでしょ。学生時代のこと持ち出して、婚約解消なんてできないでしょ」
「うん。会社の上司のすすめてくれた話だ」
「だから、言いたくなかったのよ。でも、訊かれれば、話さないわけには——」
「分ってる。いいんだ」
塚田は肯いた。
「あなただって、過去に何もなかったわけじゃないんでしょ。結婚するって決めたからには、忘れるしかないわ。そうじゃない?」
「うん。——ありがとう。そうするよ」
「ね。学生時代に遊んだ子は、いい奥さんになるって話もあるわ。——ここ、いいわよ。私、払っとく」
みどりの勤め先のホテルのバーである。
しかし、塚田は、
「そんなわけにゃいかないよ。僕の方の用で呼び出したんだ。ちゃんと払う」
と、言った。
「そう。じゃ、ごちそうになるわ」
みどりは、あえてこだわらなかった。「じゃ、また。——その内、会うこともあるかもね」
みどりが、塚田の肩を軽く叩《たた》いて、行きかける。
「——なあ」
と、塚田が言った。「君、恋人、いるのか?」
「私?」
みどりは、ちょっと目を見開く。——その顔に、学生時代の面影を、塚田は見た。
「今は忙しくて。こんな時間帯の仕事でしょ。恋してる暇もないわよ」
山内みどりは、そう言って笑うと、バーを出て行った。
塚田は、もう空になっている自分のグラスを、じっと見下ろしていたが、やがて、
「もう一杯、同じのを」
と、注文した。
無表情な声だった。