とてもじゃないが、恋など語れる雰囲気ではなかった。
しかし、塚田京介にとっては、むしろその方が良かった、と言えたかもしれない。
何も知らないふりをして、
「心配しなくたって、大丈夫だからね」
などと、演技のできる人間ではないのだ。
「凄《すご》い混み方ね」
と、浅井由美はワインを飲みながら、言った。
「イヴだからね」
と、塚田は分り切ったことを言った。
これぐらいのことなら、自分にも言えるのだということを知って、笑った。
「何がおかしいの?」
と、由美は不思議そうに訊《き》く。
そう。——みごとなもんだよ。
世間知らずのお嬢様か。男の手一つ、握ったことがありません、って顔をして、よくやるよ、全く。
しかし、そんな気持を、口には出せない。
だが、どう装ったところで、料理の食べっぷりと、ワインに呆《あき》れるほど強いのを見ていると、とても「初夜を前に緊張している花嫁」には見えない。
クリスマス・イヴに混む店、ということで有名なこのレストラン。当然、満席。しかも、二時間で、コースを終らなくてはならない。次の予約が入っているのである。
ここの予約をとるのも、楽ではなかった。色々とつてを頼って、やっと取ってもらった店である。
「別に」
と、塚田は首を振った。「おかしいわけじゃないさ。何ていうのかな。——気のきいたセリフ一つ言えないのが、自分でも……」
「そんなこと、関係ないわよ」
と、由美は言った。「人間って、誠実さだわ。そう思わない?」
塚田は、じっと由美を見つめて、
「——思うよ」
と、肯《うなず》いた。
料理の皿が下げて行かれる。——店で働く人間も気の毒だ、と塚田は思った。
たぶん、夜中過ぎても、この混雑はつづくだろうし、店を閉めたら、みんなぶっ倒れてしまうんじゃないか……。
誠実か……。
塚田は、自分のグラスのワインを、飲み干した。大して飲んではいない。ボトルの三分の二以上、由美が飲んだのではないか。
いやな相手と、ただ断りにくいからって結婚したら、一生後悔するわよ。
啓子の言葉が、塚田の耳の中で、まだ聞こえていた。
毎日、毎日のことよ。——よく考えて。
啓子は、塚田をひっぱたいても良かった。頭から水をぶっかけても当然だったのだ。
誠実か……。俺の結婚はスタートする前から、嘘《うそ》で固めてあるわけだな。
「——お待たせしました」
デザートが来る。顔を真《まつ》赤《か》にして、額に汗を浮かべたウエイターは、シャーベットとフルーツを盛り合せた皿を、二人の前に置いた。
「キャッ!」
と、由美が飛び上りそうになった。
皿が傾いて、のせてあったスライスしたメロンが、由美のスーツの上に落ちたのだ。
「何してるの! 気を付けてよ!」
ほとんど反射的に、きつい口調で由美は言っていた。
「失礼しました!」
ウエイターがあわててナプキンでしみを拭《ふ》こうとする。
「せっかく初めて着たのに」
由美は、別人のように、眉《まゆ》をつり上げて怒っている。——塚田の視線に、全く気付いていないのだ。
「いいよ」
と、塚田が言った。「後でクリーニングに出せば。そうだろ?」
由美は、ちょっと面食らった様子で、塚田を見た。
「大丈夫だから」
と、塚田はウエイターに言った。
「申し訳ありません」
「この忙しさだもの。仕方ないよ」
塚田は微《ほほ》笑《え》んで言って、「そう怒るほどのことでもないさ。——そうだろ?」
と、由美を見る。
由美は、一瞬、表情をこわばらせた。しかしすぐに、「しとやかなお嬢様」に戻ると、
「そうね。そんなことで不愉快になっても、つまらないわね」
と、言った。
「そうさ。——さ、溶けない内に食べよう」
「ええ……」
塚田は、少なくともそれまではいくらか自分の内にほてりをとどめていたワインの酔いが、急速にさめて行くのを、感じていた。
今の出来事、そして瞬間、垣《かい》間《ま》見《み》た由美の素顔が、塚田を「やさしく」させたのである。
不思議だった。——いつもの自分なら、きっと由美と一緒になって、怒っていただろう。いや、むしろ自分の方が怒鳴りつけていたかもしれない……。
それなのに、いつの間にか、あのウエイターの忙しさ、疲れた姿に、共感し、同情してしまっていたのだ。
そうだ。——たぶん啓子だったら、今の自分と同じように言っただろう。きっと塚田が怒るのをたしなめて、
「忙しいんですもの。仕方ないわよ」
と、言っていたに違いない。
塚田には、今の由美の怒りようと、啓子が言ったであろう言葉との間の、無限とも言える遠い距離が見えた。それに気付かなかった馬鹿な男の姿が、目に浮かんでいた。
俺は、あのかけがえのない子を捨てて、この女を選んだのだ。もう——取り返しはつかない。
そうだろうか?
いや、啓子を取り戻すことはできなくても、浅井由美との結婚を取り止めることは、まだできる。
しかし、そうなれば今の会社は辞めざるを得まい。仕事を失うのだ。また、ゼロから出直しだ。
そんなことはできない……。もう手遅れだ。
「——どうかした?」
と、由美が言った。
「え?」
「何か、考え込んでるみたい」
「何でもないさ」
もう、デザートの皿は空になっていた。
「コーヒーを頼もうか」
と、塚田は言った。
「じゃあ、私はこの部屋で待ってりゃいいのね」
と、庄子ユリアは言って、ツインルームの中を見回した。「私たち、ここに泊るの?」
「そうじゃないさ」
と、川北竜一は言って、後ろにいる佐々木の方を振り向いた。「なあ、もっと広い部屋を用意してくれたんだろ?」
「はい」
と、佐々木は軽く頭を下げて、「スイートをご用意してあります」
「良かった!——ここでも私は構わないけど」
と、ユリアはセミダブルのベッドに腰をかけて言った。
「スターの泊る部屋は、それにふさわしくなきゃ」
と、川北は言った。「じゃ、後でな」
「うん、待ってるわよ」
と、ユリアは甘えるような口調で言った。
「早いとこ、片付けようぜ」
と、川北は言って、笑った。「さ、行こうか」
——川北と佐々木が出て行くと、ユリアはドアへ駆け寄り、覗《のぞ》き穴から、二人が歩いて行くのを確かめた。
「落ちついて……。どうってことないんだから……」
と、自分に向って呟《つぶや》きながら、ユリアはツインルームの中を歩き回った。
ほんの二、三分もすると、電話が鳴った。ユリアは、急いで受話器をとった。
「もしもし」
「一人ですね」
あの、原という男の、無表情な声が聞こえて来る。
「ええ、今、入ったところ」
「そうですか、川北は?」
「今、ホテルの人と二人で、スイートルームに……。あの、事件の起こることになってる部屋へ行きました」
「分りました。こっちは、予定通り進めていますよ」
ユリアは、ゴクリと唾《つば》をのみ込んだ。
「つまり……大丈夫ってことですね」
「心配いりませんよ」
と、相変わらずのんびりした原の言葉だ。「私の言ったこと、憶えてますね」
「ええ。——いつも、台本憶えるのに凄《すご》く苦労するけど、今度は大丈夫」
ユリアの言葉に、原が初めてちょっと笑った。
「ジョークが出るくらいなら、大丈夫。あなたの気持さえ変わってなければね」
「変わりません」
と、ユリアは言った。
「結構。——それでは、後で。ノックしたら、ちゃんと相手を確かめてから、開けて下さいよ」
「分りました」
「じゃ、ゆっくりしてて下さい」
原は、のんびりと言って、切った。
ユリアは、心臓の高鳴りを、抑えることができなかった。
うまく行けば……。何もかもうまく行けば、私は大スターになれる。いや、そんなのはまだ先のこと。
ともかく、はっきりしているのは、川北と今の関係をズルズル続けて行く限り、ユリアは「パッとしない」ままで終ってしまう、ということだ。
やるしかない。——それに、ユリア自身は特別むずかしいことをやらなきゃいけないわけではなかった。
あの男——原が言ったように、
「美人には、どんなときでも、ちゃんと、手伝ってくれる男がいるものですよ」
と、いうことだ。
ユリアは、ベッドに仰《あお》向《む》けになって、じっと天井を見つめている。
——今夜がクリスマス・イヴだということさえ、今のユリアは忘れてしまいそうだった……。
打合せは、張りつめた空気の中で、進められた。
「つまり、こういうことね」
と、永田エリが肯《うなず》いて、「このホテルの何部屋かに、支配人の手紙があって、それを読んで、部屋の中の手がかりを見付けた人が、まず〈2521〉の庄子ユリアの部屋へ行き着く。そこで彼女からまた手がかりを聞いて、死体のある——つまり私が倒れている〈2503〉へ辿《たど》り着く」
「早い者勝ちってわけだ」
と、水島が言った。
「そうでもないわよ。犯人を見付ける手がかりに気が付かなくちゃいけないんだから」
「そうか。——でも、どれくらいのカップルが、これにのって来るかね」
と、水島は首を振った。
「いや、結構来ると思いますよ」
と、佐々木が言った。「三番目までに到着した人は、宿泊がタダ、トップの一組は、明日のディナーと、好きなときに使える宿泊券。——得なことにかけては、今の若い人たちは敏感ですからね」
「それで、あなたは何をするの?」
永田エリが訊《き》くと、川北は、ニヤリと笑って、
「決ってるさ。一等のカップルと記念写真をとる」
「女の子の方だけ? じゃないの?」
と、永田エリは笑って言った。「ともかく、私はおとなしくねんねしてりゃいいわけね。——雄ちゃん、メイクを手伝ってくれる?」
「いいよ」
水島は、エリがバッグを開けるのを見て、感心した。こんな仕事だからといって、手は抜かない。ちゃんと死人に見えるように、顔を土気色に塗ろうというのだ。
「開始は何時だっけ?」
と、川北が伸びをする。
「一応八時にはスタンバイを」
「分った。——コーヒーを一杯もらえるかな」
「すぐご用意します」
佐々木が部屋を出て行くと、川北、水島、エリの三人が残った。
「久しぶりだなあ、三人揃うのは」
と、川北は屈託のない声で言った。「おい水島、奥さんは元気かい」
水島は、少し間を置いて、答えた。
「ありがとう。元気にしてるよ」
永田エリは、じっと水島を見ていた。川北は、深い意味があって訊いているわけではないのだ。本気で、旧友に話しかけているのだろう。
その「無邪気さ」は、危険ですらあった。時に、殺意すら、喚《よ》び起こしかねないほどに……。