「ここか」
と、川北はスイートルームの中を見回して、「もっと広いタイプがあっただろ」
「あいにくふさがっておりまして。申し訳ございませんが、こちらでご勘弁を」
と、佐々木は笑みを浮かべて言った。
「ふん、ま、いいか」
と、川北は肩をすくめて、「もちろん、飲物ぐらいはサービスしてくれるんだろ」
「はい、どうぞルームサービスでお申しつけ下さい」
「分った。じゃ、時間になったら、呼びに来てくれ」
「かしこまりました」
と、佐々木が一礼して、部屋を出て行く。
——川北は、何となくあの佐々木という男が気に入らなかった。
どこ、といって気のきかない点はない。いや、申し分なく気を回し、すべてにわたって抜かりがない。
その点、プロであることは、川北も認めざるを得なかった。
それでいて……。何となく話しているだけで苛《いら》々《いら》させられるのだ。「うまが合わない」とでも言うのだろうか。
まあ、いい……。どうせ、今夜の仕事がすめば、顔を合せることもないのだ。それより、川北は早くユリアと二人になって、思い切り楽しみたかった。
ユリアの奴……。このところ、やっと川北の思う通りに、反応するようになった。ああなれば、女は容易に男から離れられないものだ。
久仁子のように。——水島の奴も、知っている。目つきでそれと分るのだ。
構うもんか。女房をとられるような奴は、自分が悪いのだ。役者は、女遊びも修業の一つさ。
ドアをノックする音がした。——ユリアだろう、と思った。
八時にはスタンバイ、か。まだ一時間もある。今夜の「準備」をしておくのもいいかな。
またドアを叩《たた》く音。
「今、開けるよ」
川北は、ドアを開けて——笑顔は凍りついた。
「結構な部屋ね」
と、勝手に入って来ながら、「私は普通のツインにしたわ」
「麻美……。何してるんだ、このホテルで」
五月麻美は、振り返って、ちょっと笑った。
「あんたは仕事があるんでしょ?」
「ああ。今、演技設計を考えてたんだ」
「ご苦労様」
と、麻美は少し小馬鹿にしたような口調で言うと、「で、終ってからは?」
川北は、それには答えず、
「君も——部屋をとったのか」
「ええ。知らなかった? 私、ここの支配人とは親しいの」
「そう。だが、俺は仕事が——」
「庄子ユリアと?」
と、麻美は遮って、「あなた、この仕事に引張り込んだんですって? ユリアのとこのマネージャーがこぼしてた」
「新人は色んな仕事をやっといた方がいいんだ。そう思ったから……」
「同感よ。でも、その後のことまでは、プラスにならないわ」
川北は、気をとり直し、麻美の肩に手をかけると、
「なあ……。君は大スターだぜ。そんなことで妬《や》くなよ」
「誰が妬くもんですか」
と、麻美は笑った。「こんなときに一人で泊ると思ったの?」
川北には、麻美の言っていることが、よく分らなかった。
「じゃあ……どうして部屋をとったりしたんだ?」
「あなたと同じ」
と、麻美は澄まして言った。「男と泊るのよ」
川北は、少しポカンとしていたが、
「——誰と?」
と、訊いた声は、動揺を隠せなかった。
「気になるの? 呆《あき》れたわね」
と、麻美は笑った。「自分はどうなの? あれこれ見さかいなく手を出して」
「麻美——」
「知りたきゃ教えてあげるわよ。村松完治」
「誰だって?」
「あなただって知ってるでしょ? 私の忠実なマネージャー」
「あの——村松と? 冗談だろう!」
と、川北は声を高くしていた。「あんな奴のどこがいいんだ?」
「あら、男の良さは、寝てみなきゃ分らないわよ」
と、麻美は言った。「まあ、あなたは若い女の子と頑張るのね。その内、あなたもただの『おじさん』だわ」
麻美は、ドアの方へ歩いて行くと、
「——ついでに言っとくけど、人の奥さんに手を出すのはやめときなさい。罪なことよ」
「何の話だい」
「水島雄太の奥さんとのこと、噂《うわさ》になってるわよ。どうやら週刊誌もかぎつけたとか。——いい人じゃない、水島さんって。かつての仲間でしょ。そんな義理を踏みにじるようなことばっかりしてると、後悔することになるわ」
麻美は、ニッコリ笑ってドアを開け、「お邪魔したわね」
と、出て行った。
ドアが閉る。——川北は、しばらく部屋の中央に突っ立っていた。
混乱していた。
もちろん、五月麻美に未練などない。
しかし、麻美の方は、俺に夢中なのだ。いや、そうでなきゃならないのだ。
それが——村松だって? あのパッとしない男と麻美が寝てる?
川北の顔から血の気がひいた。——人を馬鹿にしやがって! 何だと思ってるんだ!
麻美は俺のものだ!
川北は、スイートルームの中をやたらせかせかと、歩き回った。まるで何かに追い回されているかのようだった……。
「へえ! 見はらし、いいじゃない」
窓へ駆け寄って、浅井由美は言った。
「雪でも降りそうだね」
と、塚田は言った。「——疲れたかい?」
「別に。お腹一杯食べちゃった」
由美は、ウーンと伸びをした。「ね、もうお風呂に入る?」
「どっちでもいいよ」
塚田は、ソファに腰をおろした。「ともかく、少しのんびりしよう」
「そうね……。ね、これ、何かしら?」
由美は、ベッドサイドのテーブルにのせられた封筒を手にとった。「〈支配人より〉ですってよ」
「印刷した挨《あい》拶《さつ》状だろ」
と、塚田は言った。
「そうじゃないみたい。ええと……」
封を切って、由美は、ソファにかけながら中の手紙を広げた。「——ねえ! 面白そうよ。〈ミステリー・ナイト〉の手がかりのある部屋なんですって、ここ!」
「〈ミステリー〉……何だって?」
塚田は、手紙を受け取って、目を通した。「——宿泊料タダ、か」
「ねえ! 探してみましょうよ。この部屋に何か手がかりが隠してあるのよ」
由美は、すっかりはしゃいでいる。
まるで子供みたいだ、と塚田は思った。
その、「子供みたい」な所と、何人もの男を知っていて、平気でごまかし通すところと……。不思議な混合物だ。
「ね、捜そう! ルームナンバーの入ったメモがどこかに隠してあるんだって」
塚田は、立ち上った。
少なくとも、由美を相手に、「恋人」の役を演じているより楽だ。
「どこかしら? ね、どこだと思う?」
「さあね」
塚田は、もともとこういうことが得意でない。——啓子ならきっと、理論的に考えて、見付けただろう。
なぜか、すぐに啓子のことを、思い出してしまうのである。
しかし、いずれにしても、そう難しいところへ隠してあるはずがない。ごく普通の客を相手にしているのだから、簡単に見付けられるだろう。
「ねえ、考えなさいよ!」
ワインの酔いが残っているのか、由美は塚田の腕をつかんで、せがむように振り回す。
「じゃあ、きっと——バスルームの石ケンの下じゃないか」
と、塚田が出まかせを言うと、
「石ケンの下?——見て来るわ」
と、由美がバスルームへ入って行く。
塚田は窓へと歩いて行った。——今夜、このホテルは、いや、都心とその周辺のホテルは、どこも塚田たちと同じようなカップルで溢《あふ》れているだろう。
塚田は、突然自分がひどく惨めに思えて来た。雑誌にのっている「マニュアル」通りのデートとベッドイン。そんなことを、よく照れもせずにやれるものだ。
サラリーマンの暮しと、それはどこかで似通っている。みんなが残業していると、帰れない。マージャンの付合い、飲む付合い。
他人と同じことをやっていることから来る安心感。
今の自分と、どこが違うだろう?
クリスマス・イヴには、ちょっと洒《しや》落《れ》たレストランで食事をして、ホテルに泊る。
なぜ?——みんながそうするから。
塚田は、出て行きたかった。金なんか、惜しくもない。もし、キャンセル待ちをしているカップルがいたら、喜んで譲ってやる……。
気が付くと、由美がバスルームから出て来て、ポカンとした顔で、塚田を見つめている。
「見付かったかい?」
と、塚田が訊《き》くと、
「どうして分ったの?」
と、由美が言った。
「何が?」
「バスルームの石ケンの下。本当にあったのよ!」
と、由美はその白いカードを振って見せた。
塚田の方こそ、びっくりした。出まかせを言っただけなのに!
「ね、〈2521〉ですって。二五階ね。行ってみましょ!」
「でも……」
「早く早く! 他にも、誰かが来てるかもしれないのよ!」
由美に、ほとんど引張られるようにして、塚田は部屋を出たのだった。
塚田の目には入らなかったのだが、窓の外を、チラチラと小さな雪が、舞い始めていた。