「あら、雪……」
と、口に出して、啓子は呟《つぶや》いていた。
窓の外を、チラチラと白いものが舞い始めている。
ホワイトクリスマス、か……。でも、ひどい雪にでもなったら、外で食事をして、戻って来ようというカップルは苦労しそうである。
啓子は、もう食事を終えていた。
佐々木が約束してくれた通り、七時ちょうどにルームサービスが届いた。一人で食べるのは寂しかったが、まあ仕方あるまい。
何か本でも持って来るんだった、と思いつつ、啓子はベッドにひっくり返っていたのである。
すると、ドアのチャイムが鳴って、啓子は起き上った。
「——はい」
と、ドアの前まで行って、「どなた?」
「お届けものです」
ドアを開けると、佐々木が、花束を手に立っていた。
「まあ……。ありがとう」
啓子はなぜかひどく照れて、赤くなった。
「入れてくれないのかい?」
と言われて、あわてて、
「あ、どうぞ。——ごめんなさい」
と、傍へよけた。
「——雪か。雰囲気は満点だな」
と、佐々木は窓の近くへ行って、外を眺めた。
「大丈夫なの? もうゲームは始まってるんでしょ」
「そこを抜け出して来るのがスリルなのさ。授業をさぼるのと同じ」
啓子は笑って、
「不良学生ね」
と、言った。
「不良は嫌いかい?」
「人によるわ」
啓子は、佐々木の肩に、手をかけた。思いがけなかった分、緊張もなかった。
二人の唇が出会って——「メリー・クリスマス」と、囁《ささや》き合った。
「もし……」
と、佐々木が言った。「今夜、時間があったら……」
「構わないわ」
と、啓子は言った。「そのつもりで来たのよ」
「よし」
佐々木は微《ほほ》笑《え》んだ。「何としても、時間をひねり出す」
「五分や十分じゃ、いやよ」
と、啓子は言った。「でも、無理しないでね。途中でさよなら、なんて哀れでしょ」
「そんなことはしないよ」
と、佐々木が言ったとき、ポケットの中でピーッと音がした。
「おやおや。——電話、借りるよ」
佐々木はフロントへかけた。「——佐々木だ。——分った。すぐかける」
「どうしたの?」
「かの大スターが僕を捜してる。部屋へ電話してみるよ」
「川北竜一?」
「そうさ。まだスイートにいるはずだ。——あ、佐々木ですが。——何です?」
佐々木は当惑した様子で、「——フロントで分らなければ、私も、調べようがありませんね。——いえ、私は全く聞いておりません。——はあ、それで——」
佐々木は受話器を耳から離して、顔をしかめると、
「やれやれ。男にもヒステリーってのがあるんだな」
「何ですって?」
「五月麻美が泊ってるはずだというんだ。どの部屋か教えろ、って。知りゃしないよ」
「五月麻美って——川北竜一と同《どう》棲《せい》してた人じゃないの?」
「そのはずだ。泊ってるとしたら、男とだろ。川北は庄子ユリアと一緒のくせに。妬《や》いてるんだな」
「男って勝手ね」
「人によるさ」
二人は顔を見合せて、笑った。佐々木はもう一度素早くキスすると、
「じゃ、ゲームの進み具合を見に行って来るからね」
と、出て行こうとした。
「待って!」
と、啓子は呼び止めた。「ねえ、私も行っていい?」
「君も?」
「邪魔しないわ。構わないでしょ?」
と言うなり、啓子はキーを取って来ると、「行きましょ!」
と、佐々木の腕をとった。
「そろそろ死ぬか」
と、永田エリは独り言を言って、ソファから立ち上った。
あんまり座り心地が良くて、立ち上りたくなかったが、仕方ない。どうせ自分のものじゃないんだ。体が、この快さを憶えてしまったら、却《かえ》って後でみじめというものだ……。
それにしても——大した部屋だわ。
「スイートルーム」
それが、「続き部屋」を意味するとエリが知ったのは、最近のことだ。
TVのロケや何かだって、もちろんこんな部屋に泊ることはない。ただ、二時間もののサスペンスドラマの中で、スイートルームを使った撮影があり(やはり死体の役だった!)、そのときに初めて知ったのである。
「いつもスイートルームのときは床に寝ることになるのね」
と、エリは呟いた。
さて——どこで死ぬか。
一応役者である以上、あんまり平凡な死に方はつまらない。何か工夫してやりたい。
「ちょっとびっくりさせてやるか……」
エリは、クロゼットの中に立っていて、誰か入って来た人間が扉を開けると、バタッと倒れかかる、ってのはどうだろう、と思った。
平凡には違いないが、ただ床に寝転がってるよりもいいだろう。
あんまり相手がびっくりして、気絶でもしてしまったら、ちょっと問題だが……。まあ、どっちもゲームだってことは分っているのだし。
せっかくのスイートルーム。もう少し気のきいた趣向はないものか。
エリは、奥のベッドルームへ入り、さらにバスルームを覗《のぞ》いた。
「広いわねえ」
バスタブ自体の大きさが、エリのいるアパートなんかとは全然違う。
毎晩、こんな大きなバスタブで、ゆったり手足を伸ばしてお湯につかっていられたら。
疲れのとれ方だって違うだろうが……。
ま、グチっていても始まらない。
エリは、バスルームの、ギョッとするほど大きな鏡の前で、自分の姿を見つめた。
土気色に塗った、死人のメイク。——我ながら良くできたと思う。こんなことで凝ってみても仕方ないだろうが、それが役者というものなのだ。
たぶん川北などには、分るまい。昔の川北なら……。そう、劇団にいたころの川北は、演技することの情熱を持っていた。
あのころだって、女にはだらしのない男だったが、それを許せたのは、役者として、光るものを持っていたからだ。
しかし、今の川北は、ちっぽけな才能を切り売りして、はったりで高く売りつけているセールスマンに過ぎない。
格別な才能なんてものはないのだ。——要は、自分がどの水準で自分を許すか、ということなのである。
エリは——本当に奇妙なことだが——今、この必要以上に大きな鏡を見つめながら、自分の中の川北への思いがふっ切れたような気がした。
あんな男……。そう、強がりでも負け惜しみでもなく、エリは「あんな男」と呼ぶことができた。
水島久仁子にも言ってやろう。「あんな男」と。——あんな男のために、生活をめちゃくちゃにされるなんて、全く馬鹿げた話だ。
久仁子だって、気付くだろう。エリと違って、夫と、子供さえある身なのだ。やり直せばいい。
一からやり直す。水島は、それを許してくれる男だ……。
——ふと、エリは誰かがこのスイートルームへ入って来たような気がした。
まだ早いんじゃない? それに途中の時点で、連絡してくれると……。
エリは、バスルームを出た。
「誰ですか?」
と、声をかけながら、ベッドルームを出る……。
「畜生!」
と、川北は悪態をついた。
みんなが俺《おれ》のことを馬鹿にしてやがる!
五月麻美がどの部屋か分らない、だって? 五月麻美だぞ! 誰だって知ってる顔だ。
たとえ、偽名で泊ってたとしても、見かけりゃすぐに分るはずだ。知ってる人間がいないわけはない。
それなのに——あの佐々木って奴《やつ》まで、
「分りかねます」
と、来た!
大体気に食わない野郎だ。うわべはていねいだが、内心じゃ、こっちを見下している。
そうに決ってる。俺は役者なんだ。ごまかされやしないとも。
——川北はルームサービスでとったウイスキーを飲んで、少し酔っていた。
ゲームがすんでから、とも思ったのだが、腹立ち紛れに、一杯だけ、と手をつけてしまったのである。
すると——電話が鳴り出した。
何だ? 麻美かな?
さっきはごめんなさい。やっぱり、私、あなたのことが忘れられないの。許してよ。ねえ……。
そう謝ってくりゃ、許してやらないでもない。そうだ。きっと麻美の奴だ。
川北は受話器を上げた。
「はい」
「あ——もしもし」
麻美ではない。もっと若い女の声だ。
「何か?」
「あの……川北竜一さんですか」
ちょっと面食らって黙っていると、相手は急いで続けた。
「私——ファンなんです。さっき、そのお部屋へ入るのを、お見かけしたもんですから」
若い子だ。——まあファンというやつに、あまり無愛想はできない。
「凄《すご》くドキドキしました。ごめんなさい、お忙しいんでしょ?」
可《か》愛《わい》い声だ。
「別に忙しいってわけじゃないけどね」
「そうですか? あの——突然で図《ずう》々《ずう》しいとは思ったんですけど……。私たちの部屋へおいでにならないかなあ、と思って……」
「君たちの部屋?」
「女の子同士で来てるんです。パーティやろうって。もし——もし、よろしかったら、ですけど、ちょっとでもお顔を出して下さったら嬉《うれ》しいな、と思って」
女の子たちのパーティか。面白そうだ。
川北の迷いは、長くは続かなかった。
「君らの部屋は?」
「同じ階なんです。〈2511〉」
「そうか。じゃ、これから行くよ」
「本当ですか? わあ、すてき!」
女の子は、いかにも愛らしく弾《はず》んでいた。顔の方も、声ぐらい可愛いといいがな、と川北は思った。
ここを出てしまったら、あの佐々木って奴さぞかし青くなるだろう。
川北は、声をたてて笑うと、キーを手に、ためらうことなく、スイートルームを出て行った……。