「何ですって?」
五月麻美は、村松の話に、さすがにびっくりした様子だった。「一四歳? 本当なの、その話?」
「草間さんは、いい勘をしてる人ですからね」
と、村松は言った。「ちゃんとガセネタかどうか、見分けられるんですよ」
麻美は、もうガウンをはおった格好で、ベッドに入っていた。シャワーも浴びて、後は村松が、好みのウイスキーを持って来るのを待つばかり、というところだったのである。
「馬鹿ね、川北も」
と、麻美は首を振って言った。
「もし、どこかにスッパ抜かれたら——」
「おしまいよ」
と、麻美は即座に言った。「ただでさえ、人気が落ちて来てるのに。——アッという間に、忘れられるでしょうね」
村松は、ベッドの足下に、ウイスキーのボトルをかかえたまま、立っていた。
「で……どうします?」
麻美は、少し間を置いて、
「あなたはどうしたらいいと思う?」
と、訊《き》いた。
村松は、当惑げに目をそらした。自分の意見を求められるなんてことは、まずあり得ないのだ。
「いや……僕は、どっちでも……。あなたの気持次第ですよ。だから、少し草間さんに待ってもらってるんです。このまま——川北が落ちぶれるのを放っておいて、いいんですか? 後になって、悔んでも、とり返しがつきませんからね。何なら、川北に連絡して、その女の子の部屋から出るように言うか……。探し出せないことはないでしょう」
麻美は、じっと村松を見つめていた。
「つまり……私がまだ川北に未練を残してるか、ってことなのね」
「そうです」
「それなら……」
と、麻美は自分の両手を、マニキュアの具合でも見るように眺めて、「未練はあるわ。あれだけ暮した男ですもの。当然よ」
「分りました」
村松は、ボトルをテーブルにのせると、「急いで、その女の子の部屋を探します」
と、言って、部屋を出て行こうとした。
「待って!」
と、麻美が呼び止める。
役者らしい、よく通る声だった。
「はあ」
村松は振り向いた。
「未練がある、って言っただけよ。助けろとは言わないわ」
「でも……」
「こっちへ来て」
麻美は、村松がベッドのわきへ来るのを待って、言った。「——あんた、本当に私のこと、好いてくれてる?」
「そりゃあ……マネージャーですから」
麻美は笑い出した。——村松は戸惑っている。笑いながら、麻美が泣いていたからである。
「——ごめんなさい。びっくりさせて」
と、麻美は目をこすると、「台なしね、せっかくの〈若作り〉も」
「あなたは、化粧なんかしなくたって、きれいですよ」
麻美は、村松を見上げて、
「あんたの言葉だと、信じたくなるわ」
と、言った。「——ねえ」
「はあ」
「女優がマネージャーと結婚するなんて、ありふれてて、面白くも何ともないわね」
「そうですね。よくある話で」
「でも、私はそうしたいの」
と、麻美は言って、村松の手を取った。
啓子は、一八階まで下りようとして、じりじりしながら、エレベーターの前で待っていた。
今は使う客が多い時間帯なのだろうか?
なかなかエレベーターがやって来ない。
やっと、チーンと音がして、扉がスルスルと開いた。
「キャッ!」
中から飛び出して来た男とぶつかりそうになって、啓子は声を上げた。
「あ、失礼」
と、男は言って、行ってしまいそうになったが——。
「あら、水島さんでしょう」
と、啓子は呼び止めた。
振り向いた水島雄太は、啓子の顔を、ちょっと見ていた。
「ああ! この近くのロケのときに——」
「そうです。あの——どこへ?」
「いや、ちょっと……人捜しです」
と、水島が言った。「本当はね、こんなことしてちゃいけないんです。何しろ〈犯人役〉ですからね。しかし……」
「この辺は、もうじき大変ですわ、きっと」
「何のことです?」
「永田エリさんが、殺されたんです」
水島は、ちょっとポカンとしていたが、
「ああ、〈2503〉でね。もちろんですよ、彼女は死体の役なんですから」
と、微《ほほ》笑《え》んだ。「よほど真に迫ってましたか」
「そうじゃないんです」
と、啓子は首を振った。「私、この企画の担当をしてる、佐々木さんとお付合いしてるんです」
「佐々木……。ああ、あの人ですか」
と、水島は肯《うなず》いて、「あれはいい人だ。でも——」
「さっき、一緒に入ったんです。〈2503〉へ。本当に、殺されていたんです。永田エリさんが」
「まさか」
と、水島は呟《つぶや》くように言った。「じゃあ……」
「ゲームどころじゃありません。たぶん、すぐ警察の人が来ます」
水島も、やっと信じる気になったようで、
「何てことだ」
と、言った。「何てことだ」
「どこか——よそへ行っていた方が。私、自分の部屋へ行きます。ご一緒に」
なぜか、自分でもよく分らないままに、啓子は水島を誘っていた。
「しかし……」
「私なら、佐々木さんといつでも連絡がとれます。さ、どうぞ」
半ば呆《ぼう》然《ぜん》としている水島を一緒にエレベーターに乗せて、啓子は一八階へと下って行った。
その扉が閉まると、すぐに廊下をやって来た女がいる。——水島久仁子だった。
エレベーターの前まで来て、久仁子は、足を止めた。
何をしてるんだろう、私は?
急に、疲れが手足を重くして行くのが感じられた。——もう一歩も歩けないような気がする。
一体、ここへ来て、何をするつもりだったのか?
久仁子は、牧子を親しい奥さんの所へ預けて、出て来たのだった。もしかすると、二度と戻れないかもしれない、と思いながら……。
川北を殺す。——それが、久仁子にとってはやらなくてはならない唯一のことのように思えたのだ。
もう、すんでしまったことは、とり返しがつかない。夫も、決して自分を許すまい。
そう知ったとき、久仁子は川北が憎くなっていた。もちろん、自分にも責任はある。
しかし、川北を殺せば、少なくとも、夫に、自分の愛情を示せるだろう、と……。なぜか、久仁子はそう思ったのである。
バッグの中には、鋭く尖《とが》った肉切り包丁が入っている。川北が今夜、このホテルにいることは、知っていた。
だからやって来たのだ。夫もいる。もしかしたら、夫の目の前で、川北を刺し殺せるかもしれない、と……。
何てことを考えたのだろう?
久仁子は、じっとバッグをつかんで、立ち尽くしていた。
川北に復《ふく》讐《しゆう》して、どうなるだろう?
自分は殺人罪で逮捕される。牧子は、みんなから何と言われるか。夫が、どんな思いをするか。
川北を殺して、私は満足したとしても、それが一体誰を幸福にするだろう。
いけない。——だめだ。
久仁子は、激しく頭を振った。——夫から別れろと言われたら、おとなしく出て行く。牧子は夫の所へ残るだろうか。それも堪えなくては。
私が悪いんだから。——何もかも。
久仁子は、力なく、両手を下げて、エレベーターの前に立った。ちょうど、チーンと音がして、扉が開く。
そこに乗っていた男が、久仁子を見て、ハッとした。とっさに久仁子は身を翻して逃げようとした。
「待って下さい!」
と、男の声が追いかけて来た。「奥さん! 水島さんの奥さんでしょう」
久仁子は振り向いた。
「草間といいます。〈週刊××〉の」
カメラを手にして、その男は、久仁子に追いついた。
「あなたが……私と川北の写真を載せるんですね」
と、久仁子は言った。
「待って下さい。そうなるかどうか、まだ分らないんです」
久仁子は、突然、廊下のカーペットにペタッと座った。そして両手をつくと、
「お願いですから……。主人と、やり直したいんです。——どうか」
と、頭を下げる。
「奥さん……」
草間は、かがみ込んで、「立って下さい。——さあ」
久仁子は、よろけながら立ち上った。
「大丈夫ですか? 奥さん。私はね、水島さんが好きなんです。いい役者だし、いい男だ。そうでしょう?」
「ええ……」
「大丈夫。お約束しますよ、あなたと川北の写真は、出ません」
草間の言葉に、久仁子の頬《ほお》がカッと赤らんだ。
「本当ですか」
「ええ。もっと大きなニュースで、誌面は一杯になるでしょう。たぶん、もう川北は二度とあなたを誘ったりしないはずですよ」
草間のやさしい笑顔は、久仁子の絶望を、少しずつ溶かして行った……。
エレベーターで、もう一人上って来た男がいた。
「やあ、似合いますね」
と、草間が言うと、その男は、
「窮屈で。——サイズが違ったかな」
ボーイの制服は着ているが、どうやら本物ではないらしい。一方の手の盆の上には、ウイスキーと氷がのっている。
「いや、さまになってますよ」
と、草間は言って、そのボーイの肩をポンと叩《たた》いた。「行きましょう。〈2511〉だ」
久仁子は、その奇妙なとり合せの二人を、ポカンとして見送っていた……。
バタンと音がして、振り向くと、制服の警官が、従業員用のドアから二人、出て来た。
久仁子はドキッとした。どうしてこんな所に警官が? しかも、ただならぬ雰囲気である。
警官は、久仁子に目を止めると、
「何をしてるんです?」
と声をかけた。
「あの……」
「お客ですか。ルームナンバーは?」
「いえ、客じゃありません。ただ、ちょっと——」
「バッグを見せて」
「え?」
否《いや》も応もなく、パッとバッグを取り上げられてしまった。
「あの……」
警官は、バッグの中を探って、ハンカチにくるんだものを見付けた。——肉切り包丁。
「これは?」
厳しい目が、久仁子を怯《おび》えさせた。
「それは……あの……」
「一緒に来るんだ」
がっしりした手が、久仁子の腕をつかんだ。
久仁子は、引きずられるようにして、廊下を引張られて行った。