冷たい風が首筋をなでて、紀子《のりこ》は目を覚ました。
とても寒い夜だった。この山間《やまあい》の町は、雪はほとんど降らないけれども、秋の終りの今ごろは冬のように冷える。
雨戸が開いたんだ。でも、どうして?
紀子はネルのパジャマで布団から抜け出すと、そっと障子を開けた。風が強い日は時々雨戸が外れてしまうことがあるので、気になったのである。
お父さんはすぐ風邪《かぜ》をひくから……。こんな冷たい風が入ってくると、体に良くないんだ。
暗い廊下は、七歳の女の子には少々怖い場所だったが、お父さんに風邪をひかせないことの方が大切だった。怖いのは何とか我慢できる!
しかし——雨戸は外れたのではなかった。開いているのだ。人一人、ちょうど通れるくらいの幅だけ、開いている。
泥棒?
紀子は本当に[#「本当に」に傍点]怖くなった。
「お父さん! ——お父さん!」
ガラッと障子を開けて、父の寝ている部屋へ入って行くと——。
布団は敷いてあった。でも、お父さんはいない。
どこだろう? ——紀子はキョロキョロと見回していたが、書きもの机の上に目を止めた。
原稿用紙やペンが置かれたその机に、封筒がのっていた。きちんと真直《まつす》ぐに置かれていた。
そこに書いてある二文字を、紀子は読めなかったが、それでも何だかいやな気持がした。
そして、廊下へ出ると、その開いた雨戸から表を見たのは、自分でもどうしてかよく分らない。無意識の行動であった。
風が木の枝を思い切り揺さぶっている。月明りが射したりかげったりしているのは、雲の動きが速いからだろう。
そして——紀子は見た。
お父さんが道を急いで遠ざかって行く後ろ姿を。
お父さん! ——お父さん!
紀子は、寒さも忘れて、そこから表に出た。サンダルは七歳の紀子には大きすぎたけれども、何とか歩ける。
外へ出てみると、さすがに寒くて震え上った。
でも、戻っていたのでは、お父さんに追いつけない!
紀子はお父さんを追って走り出した。大きなサンダルはバタバタと足を引張ったが、それでも何とか追いつこうと必死で駆けた。
風は紀子を押し戻そうとするような勢いで吹いていたし、道は危なかったが、それでも何とか転ばずに走り続けた。
でも——どこへ行くんだろう?
お父さんは今、いつも紀子に、
「あっちは危いから行っちゃいけないよ」
と言っている方向へと向っている。
「——お父さん!」
と、叫んでみても、その声は風にちぎれて飛んでしまう。
やがて——お父さんの姿が見えなくなってしまった。
月が黒い雲のかげに隠れて、辺りは真っ暗だった。紀子も先へ進むのが怖くて動けなかった。
音がする。——水の音。水が激しく落ちて行く音だ。
風がたまらなく冷たくて、紀子は手探りで先へ進んだ。木のかげにでも入ろうとしたのだった。
手が木の幹に触って、紀子はそこへ体を押し付けるようにして息をした。胸が冷たい空気を一杯吸い込んで痛かった。
でも——お父さんはどうしてこんな所へ来たんだろう?
また辺りが明るくなった。
紀子は、しっかりと木の幹にしがみついた。——目の前はもうほんの二、三歩で崖《がけ》になっていて、下は岩だらけの流れなのだ。
滝が、月明りに白く光って水音を響かせながら落ちるのが見える。
そして、そのとき——。
「お父さん……」
滝の手前に突き出た岩の上に、お父さんの姿が見えた。寝床から出たままの着物姿で、髪は風でかき回され、くしゃくしゃになっている。
「お父さん!」
紀子は精一杯呼んだ。
だが、その声にも気付く様子はなく、お父さんは岩の先へ進んで行く。
お父さん! 何するの? ——やめて! やめて!
「——お父さん」
必死で叫ぶと、初めてお父さんがハッと顔を上げた。聞こえた!
「お父さん!」
力一杯、手を振る。
だが——お父さんは紀子の方を見て、手を上げて見せただけだった。
そして岩の上を更に進んで——。
「お父さん!」
紀子の叫びは滝の音の中へ吸い込まれて行く。
そして——お父さんの姿は、岩から滝壷《たきつぼ》へ向って落ちて行った。